2009年1月24日(土)
(堺市堺区栄橋町2-4-1)
「堺の漁業は鎌倉時代から春日社に魚介類を供献する『春日社供菜人(くさいにん)』として、また、その後は京都の御所に魚を納める『禁裏御用』として知られていました。
その後、堺の名家で代々魚屋を営んでいた久家(ひさけ)が豊臣秀吉から土地を賜り、現在の英彰小学校付近に魚市を開設、これが堺の魚市場の起源といわれています。江戸時代に入ると、南荘は紺屋町浜(少林寺町西4丁)に『魚市場』が、北荘は柳之町浜(柳之町西3丁)に『海船魚市』が設けられ、元禄8年(1695)の記録では問屋30軒、仲買600軒を数えるなど、大いに繁栄しました。
明治30年頃までには、魚市場は現在地(栄橋町)に移り、現在では漁業や卸売り関係者だけでなく、市民に開かれた市場として親しまれています。」(案内板より)
(堺市堺区栄橋町2-4-1)
「堺の漁業は鎌倉時代から春日社に魚介類を供献する『春日社供菜人(くさいにん)』として、また、その後は京都の御所に魚を納める『禁裏御用』として知られていました。
その後、堺の名家で代々魚屋を営んでいた久家(ひさけ)が豊臣秀吉から土地を賜り、現在の英彰小学校付近に魚市を開設、これが堺の魚市場の起源といわれています。江戸時代に入ると、南荘は紺屋町浜(少林寺町西4丁)に『魚市場』が、北荘は柳之町浜(柳之町西3丁)に『海船魚市』が設けられ、元禄8年(1695)の記録では問屋30軒、仲買600軒を数えるなど、大いに繁栄しました。
明治30年頃までには、魚市場は現在地(栄橋町)に移り、現在では漁業や卸売り関係者だけでなく、市民に開かれた市場として親しまれています。」(案内板より)