大倉草紙

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【京都】 蓮華王院(三十三間堂)

2008年06月02日 19時14分27秒 | 旅 - 京都府
5月31日(土)
当日の行程:(京阪出町柳駅) → 【京都御所】 → (タクシー) → 【三十三間堂】



    
              三十三間堂(国宝)

三十三間堂は、修学旅行の学生たちで賑わっていた。
本堂の1001躯の千手観音像が迫り来るような感覚に襲われる。
どう表現すればよいのだろう、
時空の感覚が分からなくなるというか、何というか……。
圧倒されたのは、その数だけではない。
1躯1躯を拝めば、どれも同じものはなく、その都度べつの感動を覚えるのだ。
 
風神像と雷神像もよかった。
立体であるせいか、「風神雷神図屏風」よりも、もちろん、かぜに「改源」の風神さんよりも畏ろしい。
また、千手観音像の前列と中尊の四方に安置された二十八部衆像は、躍動感あふれていた。

柱をかぞえると、34本。
あれ?と思ったが、柱の間が33なのだから合っている。
 


     
 後白河上皇院政庁「法住寺殿」址碑         法然塔

後白河上皇は法往寺殿で院政を敷いて、事実上の権力を保持していた。
蓮華王院は、長寛2年(1164)、法往寺殿の一画に平清盛が建立したのがそのはじまり。
拝観受付を過ぎるとすぐに、この址碑がある。

右の写真は、土御門天皇が後白河法皇の十三回忌を行った際の、法然の遺業を称えた法然塔。 


          
          夜泣せん(「せん」は「酉」偏に「泉」)

     
                  太閤塀

水の湧き出す音が人の泣き声に似ているということから、「夜泣せん」と呼ばれるようになったとのこと。
子どもの夜泣き封じに功徳があるらしい。

太閤塀は、豊臣秀吉が寄進した塀。
塀の上の瓦には、太閤桐の模様が施されている、はずなのが、あぁ、写っていない。


    
            三十三間堂の正面

    
            「通し矢」の射場

江戸時代には、三十三間堂の西縁の南端から北端まで、24時間、矢を射続ける競技が盛んであったという。
現在でも、1月中旬に「通し矢」にちなむ「大的大会」が行われているそうだ。


講堂の中尊の前では、仏前結婚式が挙げられていた。
仏前結婚式は初めて目にした。
珍しかったので、しばらく見入ってしまった。


          
          蓮華王院(三十三間堂)の御朱印

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