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漱石に倣って、「生活者住民本位」ということ

2015年07月20日 | #消費を控える活動01

 漱石に倣(なら)って、「生活者住民本位」ということ
 
  
 自分の小さな生活圏から飛び出して、「抑止力」「安全保障」など国家間の力のゲーム(宗教)に頭をやられ憑依する層が、敗戦後70年になり、戦争が遠離るとともに登場して来ています。おそらくこうした層がネット右翼や大阪維新などの支持層だと思われます。しかし、それらは空想の遊びです。傍目からは、頭の中で趣味のキャラ遊び(よく知らないけど)のように国家間の軍事力のバランス遊びをしているようにしか見えないが、本人たちは憑依しているから、つまり日々の生活実感と空想(イデオロギー)とが入れ替わってしまっている。ちょうど、新興宗教にのめり込んでしまっている人のように。
 
 私たちは、まずこの地の生活者住民であること、その生活の穏やかさと安心や幸福(感)を第一とすること。それ以外の上空の社会や国家が繰り出してくる「抑止力」「安全保障」とかいう幻想は、また別の世界の原理で動いており、取りあえず私たち生活者住民には関係がないということ、このことが大事だと思います。「抑止力」遊びの論理の世界に入り込んだら、例えば口喧嘩のように簡単には抜け出せません。
 
 現在では、ラッキーなことに経済も政治も私たち大多数の生活者を無視しては成り立たなくなってしまっています。そして、日々さかんに企業は私たち消費者にお誘いのコマーシャルをマスコミや街中を通して流しています。二昔前なら、企業も市役所など行政の窓口も今ほどていねいで親切ということはなかったように記憶しています。私たちは知らない間になんらかの力を手にしてきているのだと思います。
 現在の社会の抱える難題の前では、どんな政党や政治家もあまり区別が付かないようになってきています。政党や政治家は、まずは多数の民意を汲み取りさえすればいい。後は研鑽して未来社会に向けての根本的な構想を追究してくれればいいと思いますが、なんかそれ以前のいろんな体たらくのものしか見えてきません。
 私たちとしては、面倒だけど、私たちは、いつでも、どんな政権でも、私たちの多数の民意(現在ではマスコミの世論調査でその概要がわかるようになりました)を無視する場合は、この「生活者住民本位」という位置からの倒閣を開始することが必要だと思います。 ところで、戦後70年の穢れ(対アメリカとの関係で改定してきた様々なこと)を煮詰めた悪霊のように最後の復古的イデオロギー政権が居座っています。
 
 しかし、もう現在の中心や中心の課題はそんなところにはありません。複雑化した社会になりましたが、問題の根幹は単純だと思います。「生活者住民本位」で、みんながゆったりと幸せに暮らせる社会のイメージです。そちらへ向かうには、ウソ八百の幻想や思い込みなどを潜り抜けていかなくてはいけません。
 最後の復古的イデオロギー政権は、それらの難題を引き受けることなく、「戦争法案」に突き進んでいます。ほんとは、年金問題などの社会保障の抜本改革や原発大事故による今なお続く被害や放射能汚染問題など、現政権は自分たちがやってきたことの尻ぬぐいを中心的な課題としなければならなかったはずだと私は思っています。
 
 先般の「大阪都構想」問題のように、残念ながら住民間の対立も仕方がないと思います。ただ、わが国の戦国時代や現在でも他国のように武器を持って争わなくてもいいようになったのは大きな救いだと思います。もうほんとうは、新しい難題抱えた社会が、すぐそこ、幕間に控えています。「抑止力」「安全保障」などの生活者の世界から抜け出てしまったお遊びや死に損ないのイデオロギー対立は、不毛です。ちらちら見かける評論家やエコノミストで、意識的あるいは無意識的になんとか自分の利益になるようという局所的な利害からの煽りも無意味です。この列島の住民に長らく受け継がれてきた「相互扶助」(たがいの助け合い)の美風も、ささくれ立った欧米化の中で風前の灯火のようになってきているのでしょうか。
 社会の抱える難題の前で、同じ生活者住民として冷静に考え語り出すことが大事だなあと思っています。
 しかし、とりあえずはこの復古的イデオロギー政権を追い落とさなくてはなりません。 わたしは、この現在の社会の私たちへの貴重なおくりものである「消費を控える活動」を継続していますし、働きかけもしていきたいと考えています。
 
 (ツイッターのツイートに少し加筆訂正しています)


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