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メモ2018.1.13―ささいに見えることから

2018年01月13日 | 批評

 メモ2018.1.13―ささいに見えることから




 以下の(1)は、(2)に挙げた「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 」の「掲示板」の記事を読んで、確か若い伊東静雄が書いた童話「美しき朋輩達」は、残されていなかったよなと思いながら「伊東静雄 美しき朋輩達」という言葉でネット検索して偶然出会った文章である。著者はもうずいぶん前に亡くなっている。


(1)
安永武人 「戦時下の文学 その八」伊東静雄の場合 (1978.10.30)

( doshishakokubun.koj.jp/koj_pdfs/01403.pdf )

 


 この卒業論文の提出まえに、伊東はみじかい児童もの二篇を発表
している。そのひとつは、大阪の三越が裕仁天皇の即位式典記念の
ため児童映画の脚本を『大阪毎日新聞』をつうじて募集したのに応
じた作品「美しき朋輩達」であり、一等に当選している。一九二八
(昭和三)年十月のことである。この原作は、こんにちみることが
できないが、わずかに『キネマ旬報』の「各社近作日本映画紹介」欄
で、その梗概を知ることができる。伊東はこの脚本について『大阪
の三越』に「作者より」という一文を寄稿している。

  皆さん少年の心は、それはきれいなきれいなものなのです。けれども只
  時々悲しい過を犯しやすいのです。その過を過と知り悔と涙で決心をし、
  お祈りしたならば皆さんは神様の様に美しく、世界は天国になるであり
  ませう。

と「私の大好きな子供達」に語りかけている。煙突掃除屋の少年三
吉の怪我、その静養をめぐって、稔・雄助・英一・ゆり江などの少
年少女と巡査・友成小父さんとのあたたかい交流を描いた作品であ
ったようだ。★原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・
水島あやめの脚本をもとにした梗概であるから★、★どこまで原作の面
影をとどめているかわからない★が、「作者より」の文章からみて、
『赤い鳥』流の児童観にもとづいて、それをそのまま反映する童心
世界が創作されていたとみてまちがいはあるまい。その一カ月後、
伊東はさらに「(童話)山科の馬場」を書いた。
   (P15-P16)



(2)「伊東静雄を偲ぶ 伊東静雄研究会 (http://www.itosizuo.sakura.ne.jp/ ) 」の「掲示板」より


① 追悼
  投稿者:山本 皓造 投稿日:2018年 1月11日(木)
② 映画『美しき朋輩たち』と、原作者名「壁静」のこと(再掲)
   投稿者:Morgen 投稿日:2018年 1月11日


 (1)の★ ★で囲った二カ所を読むと、安永武人は、「原作者の伊東静雄を、壁静と勝手に改名した脚色者・水島あやめ」と判断し、そんな人の要約だから「どこまで原作の面影をとどめているかわからない」、つまりあまり信用できないと記している。また、(2)の②では、『詩人、その生涯と運命 書簡と作品から見た伊東静雄』や『詩人 伊東静雄』(新潮選書)など、伊東静雄研究で有名な小高根二郎についても「これを「ひどい改変」「大変な冒涜」と叱咤したものです。」と書き留められている。

 しかし、(2)の掲示板の記事を読むと、まだ伊東静雄の童話を映画にしたスタッフに直接つながる人の証言を紹介している。
 他所のホームページの掲示板の記事だから、本文そっくりの引用は控えるけれど、(2)の②によると、童話の「「募集規定」の中に「原稿はすべて匿名とし別に住所氏名を記して添付し云々」とあるのに、いまさらのように気づき、「美しき~」の原作に伊東氏は「壁静」という匿名を使われたのではないか、きっと、そうにちがいないと思ったことでした。」とある。また、童話の題名については、「伊東氏の原作の題名は「美しい朋輩達」でしたが、映画の題名は「美しき朋輩たち」としたものと思われます。」と推定している。


 こんなささいなことは、どうでもいじゃないかと一般には思われるかもしれないが、ここには重要な問題が潜んでいる。本人にとっては根拠のないささいなことを寄せ集めて、人は他人から批判されることがある。人と人との対人関係でも、個と集団や集団間でもよくあることだ。あるいはデマを流されることがある。

 この場合、作為的、意図的な場合もあるが、ここで取り上げたのはそれとは違う場合である。一般にAということとBということの間には、無数の事実の連鎖や切断や飛躍が横たわっているはずなのに、(1)の安永武人や小高根二郎の場合は、A→Bと直通させている。想像ではなく事実関係についての場合は、細心の注意や留保が払われるべきなのに思い込みやノー天気な判断をしているように見える。(2)の掲示板の記事が正しいとはわたしは断定しないけれど、できるだけ当時の真相に迫ろうという意志が感じられる。

 これで思い出したことがある。埴谷雄高が、吉本(隆明)さんの家の照明、シャンデリアを問題にしたり、吉本さんがモデルとしてだったかコム・デ・ギャルソンの服を着たことを問題にしたことである。どんなささいなことでも、人が独特の縫い合わせ方をしたり味付けをすれば、それらしいイメージをまとって浮上してくるものがある。現在は、もはや「恋と革命の時代」ではないとしても、個と個との対人関係でも、個と集団や、集団間でも、依然として対立や作為や陰謀などと無縁ではない。それらは、わたしたちの日常生活の中にも潜在している。

 もうひとつついでに書き留めておく。『〈民主〉と〈愛国〉』の小熊英二が、吉本(隆明)さんは「徴兵逃れ」の意識があったのではないかと書いているとか、浅田彰・柄谷行人はその対談で吉本さんの「徴兵逃れ」を匂わせる発言をしているなど、以前、ネットでだったかわたしも目にしたことがある。このことを、まだ読み始めていない『最後の吉本隆明』(「徴兵忌避という言いがかり」P48-P55 勢古浩爾)が取り上げている。

 勢古浩爾は、吉本さんと父親とのやりとりや吉本さんの言葉を細かにたどって、吉本さんがひとたびは徴兵に応じようとしたのではないかと推定している。(P52-P53)

 また、『続・最後の場所』(No5 2018年1月 菅原則生 発行) に宿沢あぐり「増補改訂『吉本政枝 拾遺歌集』その二(全二回)」が掲載されている。宿沢あぐりさんは、詳細を究めた「吉本隆明年譜」を『吉本隆明資料集』(猫々堂)に連載されているが、歌詠みだった吉本さんの姉の歌をよくがんばって収集されているなと感心しつつも、(しかしそれは吉本隆明という存在の本質とはあまり関わらないよな)と内心で思っていた。しかし、次のような姉・吉本政枝の歌が載せられている。


 一にも兵二にも兵なり吾が道は兵の外にはなしといふ汝
 さとします父に詫びつつい征かむと勢へる心遂げしめ給へ
 (引用者註.「隆明に」という詞書きがある4首より)
  ※これらは、当時の吉本の心情を、姉の政枝がどのように受けとめていたか、はじめて知るものだ。
  これらの作品が生まれた当時の情況について、吉本は後年つぎのように回想している。
 (『続・最後の場所』P51)



 として、宿沢あぐりさんは、次に『私の「戦争論」』(吉本隆明・田近伸和)から、インタビューに答える吉本さんの言葉(註.これは、先の勢古浩爾の引用したものとほぼ同じ箇所)を引用している。一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業時のことである。吉本さんは「『やっぱり兵隊になったほうがいいんじゃないか』と半分は思って、親父に相談をした」と語っている。二種目の歌からすると、姉も吉本さんと父親との話の場に同席していたのかもしれない。同席していないとしても、よく吉本さんの内なる悩みに通じていたことになる。姉の政枝さんの療養所生活の時期や自宅への帰省などの事情が分からないから、こう推定するほかない。ちなみに、吉本さんの『初期ノート』のはじめに「姉の死など」という文章が収められている。姉の政枝さんは、1948年(昭和23年)に亡くなられている。(註.1)

 最後に、目下、晶文社から『吉本隆明全集』が新たに出ている。その「37巻 書簡Ⅰ」は、川上春雄氏宛ての吉本さんの全書簡と、川上春雄氏のメモや川上春雄氏の吉本さんやその家族や知り合いなどへのインタビューなども含まれていて、とても興味深い一巻である。宿沢あぐりさんは、そこから川上春雄氏聞き書きの「吉本順太郞・エミ夫妻インタビュー」を引用している。これは前のインタビューの吉本さんの「親父に相談をした」という発言に対応するものである。これによると、吉本さんの父親の順太郞氏としては、戦死した吉本さんの兄・権平のことを考え、息子二人も戦死させたくないという内心の強い意思を持っていたことが語られている。そして、それといろんな事情が合わさって吉本さんが大学に行くということになったと語られている。

 以上から判断して、姉の歌や吉本さんの証言からすると一九四四年(昭和一九年)米沢高等工業学校卒業の時点で、吉本さんは徴兵に応じて戦争に兵士として加わろうと半ばは思っていたことになる。それが、父親との話で兵士はそんなに勇ましいばかりではないとか兵士や戦争の現実を聞かされたり、また「米沢の学校からも大学へやってくれって言ってきた」(父親の順太郞氏の言葉)ことも合わさって、吉本さんは大学の方に行くことになったのだと考えられる。

 上の伊東静雄の場合と同様に、その人を、そのことを、できだけありのままに近い形で捉えようとするためには、一見ささいなことも重要な手がかりとなり得るのだということをこれらの例は示しているはずである。そして、こうしたことは、知識や思想の世界に限らず、人と人とが関わり合う日常の生活世界についても大切なことだと思う。

 なぜなら、世の中には、知識や思想の世界に限らず、生活世界でも、小熊英二や浅田彰・柄谷行人などのように、軽い思いつきや歪んだ自分を鏡とする適当な判断で他人を判断することがあるからである。当人たちは、それが作為的でないとして、そのことが相手にとってどれほど大きなことになるのか想像もできないのだろう。そういう意味で、やはりこのような一見ささいに見える問題の掘り起こしは貴重なものであると、わたしは再認識をかみしめている。思い巡らせれば、この世の中には派手な表の世界にほとんど顔が出なくともたくさんの裏方たちがそれを支えていることがある。同様に、伊東静雄や吉本隆明という存在を粉飾することなくできるだけありのままの姿で浮かび上がらせることに、このような一見ささいに見えるもの(それもまたひとつの表現である)たちが、確かに貢献しているはずである。

 

(註.1)
この文章を公表後に気づいたこと。(2018.1.20)

 『吉本隆明全集1』(晶文社 2016年6月)の巻末「解題」(P557)によると、吉本政枝略年譜が載せてある。それによると、「昭和十四年十一月に胸部疾患を知る同年東京都南多摩郡多摩村厚生荘療養所に療養生活入る、爾後昭和廿三年一月十三日死去の日まで同所に休息の日々を送る」「享年廿七歳」とある。これによると亡くなるまで吉本さんの姉は療養所生活だから、吉本さん含めた家族がその療養所に姉を見舞いに訪れて、吉本さんのその話題が姉の耳に入ったものと考えられる。しかし、それがどこに書いてあるかは覚えていないが、吉本さんの姉に関する言葉によると、姉は自宅に時々帰省していたということだった。父親が他の子どもたちに病気が移るかもしれないという心配をしているようで、父は帰省する姉をあんまり歓迎していないようだと語られていたとわたしは記憶している。
 不明なことが、少し分かったけれど、事実の具体性にかかっているもやが吹き払らわれて事実が明らかになったわけではない。ただ、残された歌によれば姉の政枝さんが、吉本さんの進路に関する悩みを知っていたということだけは確かなことである。

 


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