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『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌①

2017年05月03日 | 『騎士団長殺し』読書日誌

 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌①


 1.物語の終盤まで来て


 読みは、第2部(遷ろうメタファー編)の終盤に差しかかっている。読者であるわたしはこの物語の世界に引き込まれるように読み進んできたが、さすが年季の入った作者だけのことはある。用意周到、いろんなしかけや物語の起伏があった。さて、物語世界も終盤に近づいていろんなものが明らかにされていく。



 トーストを二枚焼いて、卵二つの目玉焼きをつくり、それを食べながらラジオのニュースと天気予報を聴いた。株価が乱高下し、国会議員のスキャンダルが発覚し、中東の都市では大がかりな爆破テロ事件があって多くの人が死んだり傷ついたりしていた。例によって、心が明るくなるようなニュースはひとつも聞けなかった。しかし私の生活に今すぐ悪い影響を及ぼしそうな事件は起こっていなかった。それらは今のところどこか遠くの世界の出来事であり、見知らぬ他人の身に起こっている出来事だった。気の毒だとは思うが、それに対して私に今すぐ何かができるわけではなかった。天気予報もまずまずの気候を示唆していた。素晴らしい日和とも言えないが、それほどひどくもない。一日中うっすら曇ってはいるものの、雨が降るようなことはないだろう。たぶん。
 (『騎士団長殺し』第2部 遷ろうメタファー編 P186)




 主人公の「私」は、雨田政彦と美大時代からの友達であり、その父の雨田具彦はヨーロッパに留学したことのある画家であったが、今では「現在九十二歳になり」(第一部 P82)療養所に入っている。「私」は、一方的に妻から別れようと言われて、一二ヶ月の放浪の後、山中にある雨田具彦の自宅を借りて住むことになる。そこで屋根裏に隠すようにしてしまわれていた雨田具彦の絵「騎士団長殺し」を「私」は見つける。そしてその家の裏手には祠と穴があった。この二つが作品を異界に引きずり込み作品世界を動態化していくことになる。しかし、今は「私」の穏やかな時間である。

 そんな「私」のある日の情景である。ネットやマスコミなどを介して以前よりわたしたちにとっての世界は収縮してしまっている。わたしたちの中心は当然日々の小さな暮らしの中にあるわけだが、そこには収縮した世界画像がもたらすものが、つまり国内外の様々な悪いニュースに象徴されるような物が、どんよりした空のようにかぶさっている。わたしたちはそれらのどんよりした世界画像の空を天気と同じようにほとんど左右することはできない。これが「私」の心情であり倫理的な有り様である。しかし、それは現在を生きるわたしたちの有り様と同じものである。

 そして、わたしたちは誰でも小さな「私の生活」という日常で「遠くの世界の出来事」というように見なせないことに遭遇する。わたしたちは社会という関わり合う世界に生きているから、それは人間関係の問題であったり、結婚問題であったりなど、「世界」はわたしたちに押し寄せてきて、「世界」と関わることなく小さな「私の生活」に自足することは不可能に近い。

 主人公の「私」も、「世界」に引き寄せられるように不可思議な世界に入り込んでいく。『1Q84』(2009年)でも荒唐無稽な物や出来事が登場したが、この物語世界でも同様に登場する。ちょうど主人公の魂の再生を求めての異界巡りのように。『1Q84』で天吾がふかえりの巫女役のような仲介で遠く離れた青豆を受胎させたのと似た場面も登場する。妻のユズに別れようと言われて「私」は放浪の旅に出た。その旅先で濃厚な性夢を見て射精した。元妻のユズは恋人の下に居たがそのことによってユズは妊娠したのではないかと語り手は言いたがっているように見える。

 わたしたちは手品を現実にはあり得ないと思いながら、空中浮揚や人体切断など真に迫った出し物の世界に引き込まれることがある。この物語世界の登場人物達も作品世界では「現実的には」現実世界のわたとたちと同じようなありふれた人物だ。もちろん、『スター・トレック』に出てくる異星人、物や人の「転送装置」や飲食物や機械部品などを複製する「レプリケーター」など現実にはあり得ないようなもので荒唐無稽に見えたとしても、それらが物語世界の物語的な真に仕えている限りは、読者(観客)は手品と同様に受け入れているはずだ。こうして、ありふれた日常を生きている画家である「私」にも手品の世界のような、イデア、それが「形体化」(現実化)して、雨田具彦の絵「騎士団長殺し」の中の「騎士団長」として身長は60㎝大になって「私」の前に登場したりするのである。ここまで読者として、エンターテインメントとしては物語世界を十分に味わうことができたと思う。

 もう物語の終盤のはずだが、まだ全体を通した作者のモチーフはよくわからない。最近の作品の系列が対象とする主人公の年代から見ると、『1Q84』(2009年)は少年・少女期からの内面の深い傷を抱えた若い主人公たちの遍歴。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)は高校生という青年期の人と人とが関わり合う意識の世界、仲間内などの集団形成の問題。そして、この『騎士団長殺し』( 2017年)は、結婚生活に入った若い「私」の遭遇する問題。いずれの作品も様々な年代の抱える魂の問題とその回復への道行きを対象としているように見える。しかし、老年に近い作者は若者ばかりを中心に据えた物語を描いてきているが老年を直接にはまだ描いていない。

 ※『騎士団長殺し』(ウィキペディア)の「あらすじ」や「登場人物」のまとめは簡潔で、主人公「私」の年齢確認など参考にさせてもらった。


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