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『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌④ (終わり)

2017年05月08日 | 『騎士団長殺し』読書日誌


 『騎士団長殺し』(村上春樹 2017年)読書日誌④ (終わり)


 4.イデア(観念)のかたち成した騎士団長


 わたしは村上春樹の近年の作品からは割と自覚的に読んでいるが、以前はなんとなく読んでいたこともあり以前の作品についてはもうほとんど記憶がない。つまり、このようなイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在を物語世界に導入していたかどうかは記憶にない。この作品には、祠と穴が登場するが、以前の作品では何度か井戸の底の描写があったのは記憶している。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』にはこのような存在は登場しなかったと記憶するが、『1Q84』には登場している。「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」などなど歴史や宗教に名を借りて登場するが、あまり歴史的な現在性としては捉えられていなくて、痛快活劇のようなおもしろさはあったけれど、それほど現実性はわたしには感じられなかった。

 このイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在は、「イデア」「メタファー」「メタファー通路」「二重メタファー」などなどの物語世界の異世界や異空間とひとつながりの世界イメージとして作者の中にはあるのかもしれない。そしてそれは、作者の現在的な世界イメージや世界観から来ているのかもしれない。たぶん、作者はそのような世界イメージを描くことを一方で楽しみながらも真面目な力点を置いているのだと思われる。

 ここではイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在に限って考察してみたい。イデア(観念)のかたち成した騎士団長というものの特徴を作品世界から拾い出してみる。



1.「騎士団長」は現実的な存在ではない。
2.「騎士団長」はしゃべり方がちょっと変だ。


 しかし絵の中に描かれた人物がそこから抜け出してくるなんてことが可能なのだろうか?もちろん不可能だ。あり得ない話だ。そんなことはわかりきっている。誰がどう考えたって・・・・・・。
 私はそこに立ちすくみ、論理の筋道を見失い、あてもない考えを巡らせながら、ソファに腰掛けている騎士団長を見つめていた。時間が一時的に進行を止めてしまったようだった。時間はそこで行ったり来たりしながら、私の混乱が収まるのをじっと待っているらしかった。私はとにかくその異様な―異界からやってきたとしか思えない―人物から目を離すことができなくなっていた。
  (第1部 P348)
(註.1)

 騎士団長は奇妙なしゃべり方をする(註.語りかけるひとりの相手に「諸君」と呼んだり、打ち消しの表現を「・・・ではあらない」と話したりする。)かわりに、話をするのは決して不得意ではないようだった。むしろ饒舌と言っていいかもしれない。しかし私の方は相変わらず一言も言葉を発することができなかった。現実と非現実が私の中で、まだうまく折り合いをつけられずにいた。
  (第1部 P349)



3.「騎士団長」は霊ではない。限られた時間しか形体化することができないとか招かれないところには行けないなどいろんな制限を受けて存在している。

 「で、諸君のさっきの質問にたち戻るわけだが、あたしは霊なのか?いやいや、ちがうね、諸君。あたしは霊ではあらない。あたしはただのイデアだ。霊というのは基本的に神通自在なものであるが、あたしはそうじゃない。いろんな制限を受けて存在している」

 「制限はいろいろとまめやかにある」と騎士団長は言った。「たとえばあたしは一日のうちで限られた時間しか形体化することができない。あたしはいぶかしい真夜中が好きなので、だいたい午前一時半から二時半のあいだに形体化することにしておる。明るい時間に形体化すると疲労が高まるのだ。形体化していないあとの時間は、無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。屋根裏のみみずくのようにな。それから、あたしは招かれないところには行けない体質になっている。しかるに諸君が穴を開き、この鈴を持ち運んできてくれたおかげで、あたしはこの家に入ることができた」
  (第1部 P352)



4.「騎士団長」は身長は60センチほどである。


5.「騎士団長」は人の心を察知する力を持っている。



6.「騎士団長」は「二つの出来事」の「継ぎ目のような役割」を果たしていたこと。
7.「騎士団長」は現実離れしているという認識が主人公の「私」にはある。


 「とにかくいろんな人の手助けを受けて、ぼくはその地底の国を横断し、狭くて真っ暗な横穴を抜けて、この現実の世界になんとか帰り着いた。そしてそれとほぼ同時に、それと並行して、君もどこかから解放されて戻ってきた。その巡り合わせはただの偶然とは思えないんだ。君は金曜日からおおよそ四日間どこかに消えていた。ぼくも土曜日から三日間どこかに消えていた。二人とも火曜日に戻ってきた。その二つの出来事はどこかできっと結びついているはずだ。そして騎士団長がそのいわば継(つな)ぎ目のような役割を果たしていた。しかし彼はもうこの世界にはいない。彼はもう役目を終えてどこかに去ってしまったんだ。あとはぼくと君と、二人だけでこの環を閉じるしかない。ぼくの言ってることを信じてくれる?」
 まりえは肯いた。
 ・・・中略・・・
「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくなったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。でもきっと君になら受け入れてもらえると思ったんだ。そしてまたこの話をするからには、相手にこの『騎士団長殺し』の絵を見せなくてはならない。そうしないと話が成立しないからね。でもぼくとしては君以外のほかの誰にも、この絵をみせたくなかった」
  (第2部 P445-P446)

 すべてが夢の中で起こった出来事のように思えた。私はただ長く生々しい夢を見ていたのだ。というか、この世界は今もまだ夢の延長なのだ。私は夢の中に閉じ込められてしまっている。そういう気がした。しかしそれが夢でないことは、自分でもよくわかっていた。これはあるいは現実ではないかもしれない。しかし夢でもないのだ。私と免色は二人で、あの奇妙な穴の底から騎士団長を―あるいは騎士団長の姿かたちをとったイデアを―解きはなってしまったのだ。そして騎士団長は今ではこの家の中に住み着いている。それが何を意味しているのかは私にはわからない。それがどんな結果をもたらすことになるのかもわからない。
  (第1部 P354-P355)
(註.2)



 この騎士団長が「何を意味し」、「どんな結果をもたらすことになるのか」、主人公の「私」はこの時点では知らないけれど、当然のこととして作者は大体わかっている。
 このイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在は、そのことに作者が意識的か無意識的かにかかわらず、わたしたちの人間世界の現在が、旧来的な自然感覚から一段飛躍した人工的な自然感覚の段階に突入している現状と対応している一種の「揺らぎ」の表現だろうと思える。

 わたしたちは、ケイタイやスマホやネット、銀行の自動現金出し入れやネットでの支払い等々高度な技術や社会のシステムがもたらすものに次々に徐々に慣れていく。そうして、それらを割と自然なものと見なしていく。しかし、その自然化の過程には当然ながら異和や揺らぎが発生する。ちょうど(註.1)の部分の「私」の思いのように。ここの「私」の意識は旧来的な現実、自然な感覚に支えられている。そういう現在の新たな社会の動向の未だ自然性としてわたしたちが受け入れていないクラック(裂け目)からの象徴的な表現だと思われる。(註.2)の「私」の現実でもなく夢でもないというような揺らぎの意識は、「私」がそのクラック(裂け目)に立っていることを示している。しかも、イデアという言葉自体からしても、また霊とは違うということ(3.)から見ても、イデアやその形体化は、太古から一昔前まで続いてきたこの列島の霊魂や霊の現象とは異質な近代以降のヨーロッパ由来のものと見なすことができる。つまり、物語世界を駆動するものとして割と新しい概念を援用している。

 主人公の「私」は、「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくなったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。」(第2部 P446)と語っている。これを作品の表現の積極性として捉えるならば、現実と何らかのリンクの役をするこのイデア(観念)が形体化した騎士団長という存在や、「イデア」「メタファー」「メタファー通路」「二重メタファー」などなどの物語世界の異世界や異空間とひとつながりの世界イメージは、現在の社会のクラック(裂け目)からの象徴的な表現、言いかえると未来性のイメージの喩としての表現を担っているのかもしれないとわたしには思われた。


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