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詩『言葉の街から』 対話シリーズ 1317-1320

2021年01月03日 | 詩『言葉の街から』
詩『言葉の街から』 対話シリーズ



1317
一日のほとんどが気づかれない
心臓の鼓動みたい
時間の川に足は浸かっている



1318
瞬間 言葉の足が
風になびき
小さく点ることがある



1319
心働かなければ
人として
生きてはいけない?



1320
人間界の峠を下ってゆくと
寡黙な自然
心は自然に揺れている

覚書2021.1.3 ― 作品の読みの難しさ

2021年01月03日 | 覚書
 覚書2021.1.3 ― 作品の読みの難しさ



 永田和宏の「あなたと出会って、それから・・・・・・―河野裕子との青春」第十三回 「はろばろと美(は)し古典力学」を読んでいたら、次のような自作の歌と自註があった。


  スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美(は)し古典力学
                       永田和宏『黄金分割』

 後年作った歌であるが、私の初期の代表作と言っていただくことの多い一首でもある。秋の夜空、葉を落として枝ばかりになった木の梢の向こうに、星座が見える。スバルは昴とも書き、六連星(むつらぼし)とも呼ばれる星座だが、秋の代表的なその星たちが梢をゆっくり渡っていくのが見える。あの星たちもまちがいなくニュートンの運動方程式に従って運行している。
 ・・・・・・と、ここまでが表の意味であるが、この歌は、実は物理からの落ちこぼれを嘆く歌でもあるのである。ああ、あの古典力学の美しさに没頭していられた頃はなんて良かったのだろう。量子力学の数学的記述についていけなくなっていた私が、「はろばろと美し」と郷愁のように懐かしんでいたのは、己の落ちこぼれ感の故なのでもあった。
 (「あなたと出会って、それから・・・・・・―河野裕子との青春」永田和宏 『波』2021年1月号 新潮社)



 この文章によると、この歌の背景として、若い永田和宏の、大学院進学と近々の結婚を含む河野裕子とのことと短歌を詠むことと自分の家族との関わりといういくつかのことに絡め取られて何とも身動きが取れないという自己の有り様があった。もうひとつ、専門の勉強を怠けた背景として当時の学生運動との関わりもあったようだ。そうして、この作品は「後年作った歌」とあるからそれらの渦中から抜け出ていくらかの余裕と内省の中で表現されたものかもしれない。

 まず、作者が自作を解説している「表の意味」までは読者はなんとかわかるだろう。しかし、その表層的な意味を下って作者が解説しているような場所にまで至るのはこの一首のみからはとても難しい。作者の身近な知り合いならその頃の作者の状況を少しはわかるかもしれないが、その内面の総合性まで知るのは難しいことだろう。だから、作者の詳しい年譜や後年の作者によるこのような文章がないと「表の意味」からさらに下って行くことはとても困難である。

 歌の中の「と」の用法がよくわからないが、作者の自作自註によると、〈わたし〉が眼にしている風景と抱いた印象や思いの歌のように見える。調べてみると、スバルは「『すばる』の名で有名な、肉眼でも観察できる美しい散開星団です。初冬の東の空に、細かな星が集まった姿が誰にでもすぐ分かります。」とあるが、見えるのは冬場とは限らないらしい。だから場面が夜であることはまちがいないが、この歌自体からは季節は特定できない。しかし、作者の自作自註によると「秋の夜空」という。なぜか〈わたし〉は夜に外にいて夜空の星をしばらく見つめた体験があってこの歌ができたのだろうと思われる。雲の動きなら眺めていてわかるが、1時間で15°星が東から西へ動いて見えるという知識はあってもどのくらいの時間見ていたら星の動きがわかるのかは経験がないからわたしにはわからない。だから、「その星たちが梢をゆっくり渡っていくのが見える」というのは、現実のことなのか〈わたし〉の天体理解を含んだイメージの付加によるのかはわからない。「はろばろと美(は)し」というのは、スバルの星々がはるかに瞬きつつ移動する姿の美しさとそれが古典力学(ニュートンの運動方程式)のシンプルな美しさに従って運行していることとの二重にかかっている。

 しかし、くり返すが、作者の詳しい年譜や作者の自註などがなければ、この歌の言葉自体からは「表の意味」からさらに下って行くことは不可能に近い。これが後年作られた(この歌が収められている2冊目の歌集『黄金分割』は、永田和宏30歳の年に刊行されたという)と知らされても「ああ、あの古典力学の美しさに没頭していられた頃はなんて良かったのだろう。量子力学の数学的記述についていけなくなっていた私が、『はろばろと美し』と郷愁のように懐かしんでいたのは、己の落ちこぼれ感の故なのでもあった。」ということは、歌の言葉自体からはわかりようがない。作者はこの歌を現在形として語っているし、歌の言葉自体からも「郷愁のように懐かしんでいた」という過去形や回想は出てこない。短歌というこういう短い形式での表現することも難しいことだが、読者として作品(他者)を読み味わうこともつくづくと難しいなと思う。

 ところで、作者自身にとっても自作に対する思いは違ってくるということがあるのかもしれない。先の永田和宏の歌は三十歳以前の作品である。この文章を書いている同じ作者は、もう七十三歳である。そうして妻の河野裕子はすでに亡くなっている。この四十年ほどの年輪の違いが自作の歌に対するイメージや理解として微妙な違いというものがありそうに思われる。

 なぜそういうことを思ったかと言えば、吉本さんの『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』(1990年10月)にある、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」という若い頃の詩「分裂病者」(二十九歳頃の作品)の詩句とそれに対する吉本さんの現在(本書は1989年のインタビューが元になっているから、六十五歳頃)の理解や考えというものを読み考えていて、そういうことが思い浮かんだからである。

 若い吉本さんが、後に読者によく知られるようになる上の「分裂病者」の詩句を書き記した頃、そこまで言っていいだろうかなどの行きつ戻りつかがありつつ書き記したと思える当時の詩的な内面の事情が『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』で語られている。しかし、その内面の現場が遙かな〈大洋期〉(『母型論』)に、その〈母の物語〉に由来することまでは見えていなかったはずである。吉本さんは、今なお当時の詩句の余韻があると語っている。これはそれほど根深い問題である。『母型論』が刊行されるのは『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』よりもう少し後になるが、『ハイ・エディプス論―個体幻想のゆくえ―』のインタビューの頃には『母型論』(1995年11月)にまで下って行って切り開いた世界をもうだいたい自分のものにしていて、そこから若い頃の自分と現在の自分とを照らし出せるようになっていたのだと思われる。

 こうした事情は、おそらく永田和宏の場合も同様だろうと思われる。そうして、そのことはまた、生活世界のわたしたち全てにも言えることであろう。一般に、わたしたちは若い頃と同質の余韻の内にありながら、すこし余裕を持ってその若い頃や現在の自分を見渡せるようになっているようだ。だから、混迷の若い頃からいろんなものを潜り抜けてきた大人のさりげなく語られる言葉には、それが若者たちに伝わるかどうかに関わりなく、またそれがいろんな屈折を含んでいたとしても、人が生きていくということのある普遍の姿や表情が込められていることは確かだろう。そうしてまたそこには、表現者としてであれ、普通の生活者としてであれ、お互いに他からはうかがい知れないような理解が難しい部分もあるように見える。