大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

現代美術の小バブル 2

2011-02-08 15:28:00 | アートマーケットの分析
きのうは現代美術=「ゴミ」云々というブログをつい口走ってしまったのですが、知り合いのアートディーラーに「あなたはどう思う?」と聞いたら、大概のアートディーラーは心の中ではそう思っているよと好意的な意見。内心反発されるかなと思ったんですが…(大概いつも携帯でブログをやっているので、文章表現の言い回しが上手くできないのと、小学校三年生レベルの文章能力ですのでもし不愉快な気分を感じる方がいたら相済みません…ちょっと言い訳だけしておきます)。そばにいたもう一人のアートディーラーも「現代アートの作品を購入したら、翌日にはゴミです」ときっぱり。現代美術を「ゴミ」呼ばわりするなんて大変失礼で不遜な態度と思われる方もいるかもしれないけど、今回の小バブル崩壊では「値段が 1/100 に下落するのはまだいい方で値段のつかないものもいっぱいあるよ」とだめ押しされ、現実の厳しさを改めて認識しました。あくまでもアートマーケットでのプライス=経済価値について一面的な見方から現代美術=時間が経てば「ゴミ」であるという考え方もあると僕は言っているだけですから。自称アーティストが表現活動することを否定しているわけではありません。
僕のコレクションは大体自分ひとりでは持てない大きさのものがほとんどです。コレクションする基準というのは、いままで自分が観たことのない《何か》を感じる、意外性みたいなものに心が激しく揺り動かされる、清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで衝動買いすることがほとんどだったので、無理をしてでも買うという行為に力点を置いてきたように思います。かつて横約6m、縦1mのフランチェスコ・クレメンテのペインティングを購入し、自宅に展示した時に思わず吐き気をもよおした経験があります。現代美術を買うということは、時代の最もいい空気を吸いたい、時代精神の良質な部分を垣間見たい…そんな気分がするのです。現代美術を買うということは自分自身の目を確める、頭の中身をクリーニングし、トレーニングする行為かもしれません。
「ゴミ」とは、長野県では木の葉のこと、鎌倉前期には「水田のごみ深かりける畔(あぜ)の上に」(平家物語)とあり、どぶなどに溜まる泥をさす言葉として使われていたそうです。近世以降になると「取るに足りないもの」「役に立たないもの」の意味にも使われ始めたと、語源辞典にあります。
現代美術=「ゴミ」の「塵」、「五味」、「護美」といかようにでも捉えることができるのであまり悪いイメージで「ゴミ」を捉えないようによろしくお願いします。

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