一日一トライ~”その記憶の記録”

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Ⓘ-6.短編小説”最後の授業”から(2/3)~アルザス及びロレーヌの歴史と現状

2022-11-19 07:00:00 | Ⓘ-ものの見方・考え方

 この物語は、主人公の少年フランツやフランス語教師アメル先生の母国=フランスに対する愛国心や悲哀、多民族に征服される怒りや苦しみ、悲壮感などが伝わり、ある面では反戦!のよい教材となりましょう。そう、ある時点まで私もそう信じていました。


 ストラスブール(アルザス)のマチなみ。

 この「最後の授業」が教科書から消えた理由を考えていくには、アルザス地方の歴史や現状を知る必要があります。私は、数年前フランスを周遊する機会があり、「最後の授業」の記憶からアルザス地方はぜひ訪ねたい!とコルマールストラスブールを旅程に入れた経緯もあります。その折、フランスとドイツとの歴史的な関わりを一読しましたが、下記は、正確性を期すため、ウキぺディアなどの資料をもとに調べたものです。

以下長文になりますので、歴史嫌いな人⁉は、にスキップして下さい 

【1】普仏戦争までの歴史  フランスとドイツの国境地域に位置するアルザスやロレーヌには、古くからケルト人が住んでいました。ローマ帝国に支配された後は、歴史の中で幾度となく領土侵略が繰り返されたことにより、ゲルマン系のアルマン人フランク人が相次いで侵入してきました。それにより北部ではドイツ語のフランク方言が、南部ではスイス・ドイツ語に近いアレマン語が長らくこの土地で話されるようになったようです。

当時この地は、元来神聖ローマ帝国に属していたものの、ローマ帝国に対して野心を抱くフランスの侵略の標的となっていた時代です。

ドイツ帝国の位置
神聖ローマ帝国の領土の変遷

 1736年、神聖ローマ帝国は、アルザスとロレーヌをフランスに割譲することで、フランスからの干渉を食い止めることにしました。フランスに編入されたアルザスとロレーヌは、公用語としてフランス語が用いられたため、アルザス地方の言葉は、フランス語の語彙が入った「アルザス語」として形成されていったということです。

【2】普仏戦争でフランスが敗れると 1871年に起きた普仏戦争でフランスが敗れると、ベルフォールを除いたアルザスとロレーヌの東半分がプロイセンに割譲されました。  必然的に、フランス国内では、反ドイツ感情が湧き起こります。そしてこの頃、毎週月曜日にパリで「月曜物語」という新聞連載が始まり、この中にアルフォンス・ドーデの「最後の授業」が連載されたのでなど。

【3】ドイツ帝国統治下 当時の住民の大多数はドイツ系のアルザス人だったため、フランス語にそれほどなじみがありませんでした。ドイツ統一後もアルザス人は必ずしもドイツから完全な”ドイツ人”とは見なされていなく、安全保障上の問題からこの地が必要だったこともあり、後には自治憲法の制定を認めるなど、比較的穏やかな同化政策を取っていたようです。しかし、”ツアーベルン事件”(1913年、ツアーベルンに駐屯していたプロイセン軍将校の侮蔑的発言をきっかけに生じた軍と住民の衝突事件)の発生後は、中央政府及び軍との関係が悪化し、自治憲法も停止されました。       

【4】戦間期と第二次世界大戦
 第一次世界大戦でドイツが敗北した後の1918年11月8日、同地域はアルザス=ロレーヌ共和国として独立しました。アメリカのウイルソン大統領はこれを承認しようとしましたが、フランスは拒絶し11月19日フランス軍に占領され、この地域は再びフランス領となりました。第二次世界大戦時、ドイツのフランス侵攻により同地方は再びドイツ領になりました。

【5】第二次大戦後のフランス化政策 第二次世界大戦後、この地区には再びフランス化政策が敷かれました。しかし、テロや独立運動が発生するなどフランス政府に対する反発が強く、間もなく政府も方針を転換して、1999年から、初等教育からフランス語でなくドイツ語・アルザス語の教育が認められたということです。


 クレベール広場では、只今イベント開催中です。

昔、世界史の中のヨーロッパ史を学んだことが少しよみがえってきたかと思います。このアルザス、ロレーヌは、陸続きであるという地政学的条件もあり、民族の大移動をはじめ夫々の国の思惑で領地の奪い合いを繰り返した破壊と殺戮!の苦難の歴史があったことがわかります。

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