知恵の実の話については、まだ、自分なりに了解してないが、そろそろ終わりにしなければ・・・。
旧約聖書の前段部分とエノク書は深い関連がありながら、エノク書は偽典とされている。
少なくとも旧約聖書は様々な話の中から、パッチワークのように自分たち(ユダヤ人)に都合の良いようにつなぎ合わせたものであることは間違いないであろう。
エノク書を客観的に眺めてみると、話のストーリーは地上界に権限を持つ天使達の堕落と人間との関わりについて語ったものであろうと思われる。
エノクは生きながらにして天に引き上げられたと言われる人だそうだが、そこで見たことを記述したのがエノク書である。
エノクはノアの祖先なのであるが、エデンの園の話からノアの箱舟までの話を一括して述べているのがエノク書ではないかと思われてしかたない。
その理由は総合的に考えると、奇妙に話のストーリーが重なり合うからである。
(旧約聖書)
蛇に騙されて知恵の実を食べるアダムとイブ→自分で考える力が生じる→エデンの園からの追放→天使達が人間の娘と同衾する→巨人が生まれ英雄といわれる→人間が堕落する→神が後悔して地上の生き物を滅亡させることを決意する→ノアの一族のみが選ばれ生き残る。
(エノク書)
地上を支配する権限を与えられた天使達が人間の娘と同衾する→人間の娘達に天上の様々な知識を与える→巨人が生まれ、人間を食う(地上におびただしい血が流れる)→人間が神に訴える→堕天使達を地獄へ繋ぎ止めるとともに、巨人達を合い争わせ滅ぼす決定が降りる→天上の知識を得た人間も滅ぼすことが決定される→ノアの一族のみ救われるように伝えられる。
さて、この2つの話のエキスを集約すると、<知識を得ること>と<滅ぼされる(追放も含む)>の2点である。
何故、天上の知識を得ることが<罪(つみ)>といわれるのかは分からないが、その利用方法にあっただろうことは確かなことのようだ。
ノアの一族が生き残されるとされて部分は、彼らが義(ただ)しい人であったからと言われる。
つまり、色々な知識を得たとしても、それを義しい方法で利用するならば、それは神の意思に添うものだということなのだろう。
まとめてみよう。
知恵の実を食べるということは、魂=霊が自由な思考・思惟(しい)を許されているということであるが、その利用方法を間違った方向で利用することは許されないという神の意思が示された話が、エデンからの追放とノアの箱舟までの話なのではないだろうか?
神は個々の霊に自由意志を持たせることで、より良いものを持ち帰ることを期待したのではないだろうか?
だから、神が新たに転生する時に、正しくないものは「打ち捨てられる」のではないか?
そう考えると、イエスの言葉はよくみえるのではないだろうか?
とりあえず、結論じみたことにしておきたい。
では、また、次の旅に出かけよう!