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医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



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『後藤浩輝の戯言』

2015-02-28 11:37:11 | 社会問題・生活


お馬の寺子屋番外編 2004年8月の日記

■ 2004/08/25(水) 『後藤浩輝の戯言』、『意外に大変。』を読んで①
 “後藤浩輝”というジョッキーのことを、もっと早く知るべきだった。先日、彼が執筆・編集を行った一冊の単行本『後藤浩輝の戯言(たわごと)』(東邦出版)を手に取った。同書は、現役ジョッキーである彼が、レース中の騎手の駆け引きや戦術、レースのアヤなどをイラストつきで解説するという画期的な内容。ローエングリンとゴーステディとで激しくやりあい、物議を醸し出した昨年の秋の天皇賞などについて語っている。目に見えないジョッキー心理や独特なレースの見方は、毎週毎週レースを見ている競馬ファンであっても参考になる。むしろヘビーな競馬ファンほど一読すべき大変面白い内容だ。

 それ以上に感心したのは、次章につづられている彼の自伝である。物語は、彼が2年前に出版した自伝『意外に大変。』(東邦出版)の続き。中央のGⅠ初制覇となったアドマイヤコジーンの安田記念のことから書かれている。
 彼には自信があった。アドマイヤコジーンという馬は、「1200mのあとに1600mを使うといいリズムで走れる」という記述は興味深かった。だから「本番の距離には全く不安はなかった」と。無我夢中で追いまくった最後の直線、本能のままのガッツポーズ。涙で顔をグシャグシャにしたまま検量室前に現れた彼の姿は今でも印象に残っている。
 余談になるが、同馬のオーナーである近藤利一氏は当時を振り返り、ある雑誌でこう述べていた(確かこんなニュアンスであった)。「彼(後藤浩輝)がこれまで中央のGⅠが未勝利だとは知らなかった。知っていたら乗せなかったかもなぁ(笑)」「でも、あんなに喜んでくれて、こちらももらい泣きしそうになったよ」。本人が聞いたら苦笑いしてしまいそうなコメントだが、いずれにしても02年の安田記念は非常にエピソードが詰まったレースであった。
 その他には、伊藤正徳調教師が管理するローエングリンとのこと、外国・地方ジョッキーが押し寄せる現在のこと、今後の自分自身のあり方─。普段はパフォーマンスなどでおちゃらけているイメージもあるが、彼は真剣に競馬のことを考えている。そして、「もうパフォーマンスはやめたい」とも。
 本書の文中に一つ非常に気になるキーワードがあった。それは「伊藤正徳調教師との確執と和解」という言葉だ。前述したローエングリンとのことにも起因しているのだが、恥ずかしながら自分はその内容について全く知らなかった。いや、内容どころかその事実も曖昧なものだった。実は自分は、彼が書いた本を読むのは初めてであり、前作の『意外に大変。』を読んでいなかった。後藤浩輝と伊藤正徳調教師の間にいったい何があったのか? それが知りたくて、翌日すぐさま前作『意外に大変。』を購入した。

 一気に一晩で読破した。競馬サークルの人間であるならば、おそらく全員が知っている事実であろう。後藤浩輝は伊藤正徳厩舎所属の騎手としてデビューした。が、2年後に早々とフリーに転身。すぐさまアメリカに単身武者修行。良い悪いはともかく、デビューして間もなく、実績もない見習い騎手がやる行動ではない。前例がないし、誰がどう見てもおかしいと映ったはずだ。その原因は、師匠と確執、決別だった。詳しい内容は本書で、ということにするが、とにかく伊藤正徳調教師は非常に厳しい方であったようだ。仕事から私生活までありとあらゆる面で。弟子とはいえ、勝ち負けできる馬をポンポンと与えてくれたりはしなかった。だから彼は自厩舎の馬での勝ち星はほとんどなかった。もっとも、当時はまだ彼自身の腕が未熟であったこともある。同時に、若き日の彼は、日本の競馬サークルのシステムそのものが理不尽で相容れないものであるということにも気づいてしまう。

 時は進み、例の木刀事件が起きた。その詳細については触れていなかったが、当時の彼の心境についてはうかがい知ることができた。ちなみに、事件当時はまだ彼と伊藤正徳調教師との関係は修復されていなかった。絶縁状態である。「騎手免許を剥奪されてしまうかもしれない…」。そう思い悩んでいた彼だったが、結局4ヶ月の騎乗停止処分を受け渡された。騎乗停止期間としては最も重い処分だったが、最悪の事態だけは免れた。そして、彼はJRAの裁定期間中に師匠がとった行動を、別の人から聞いて絶句する。師匠は、決して弟子を見捨ててはいなかったのだ。涙もののエピソードである。
 それを機に、彼と師匠との仲は修復された。これからはお互いに協力して生きていくことを誓い合った。「お前がうちの馬に乗って海外のGⅠを勝つことが夢だ」。伊藤正徳調教師は、そう彼に言った。

 ずいぶん時間がかかってしまったが、自分はようやく分かった。03年の中山記念、彼は1番人気のローエングリンに騎乗し、鮮やかな逃げ切り勝ちを演じたのだが、ゴール後に何故あんな派手なガッツポーズをしたのかを。自厩舎の馬での初重賞制覇─。12年間閉ざされた重い扉を開けた貴重な一勝であったに違いない。
 同年の9月、彼はローエングリンとのコンビでフランスのムーランドロンシャン賞に参戦。結果は惜しくも2着だったが、師匠に最高の恩返しができるところまでようたくたどり着いた。
《つづく》
■ 2004/08/26(木) 『後藤浩輝の戯言』、『意外に大変。』を読んで②
 ジョッキー“後藤浩輝”を強く意識したのは、アドマイヤボスで参戦した01年の産経大阪杯だった。当時、無敵の強さを誇ったテイエムオペラオーの年明け緒戦である。休み明けとはいえ、断然の1番人気。後藤は4コーナー手前から激しく仕掛け、テイエムオペラオーを外から被せにかかった。テイエムオペラオーにとっては非常に厳しいレース展開となり、4着に敗退。前年からの8連勝が途絶えた瞬間だった。勝ったのは伏兵トーホウシデン、2着はエアシャカール。今になってみれば展開のアヤで生じた結果だ。仕掛けたアドマイヤボスは、ある誤算が生じ、強引にオペラオーを潰しにいった形となり3着に敗れてしまう。自分は確かアドマイヤボスから馬券を買っていたと思う。敗れはしたが、テイエムオペラオーに対して勝ちいった姿勢には感心した。面白いレースを観たと思った。

 彼は「意外に大変。」の中で、同レースのことについても言及している。要約するとこんな趣旨である。「あのメンバーの中で、テイエムオペラオーの力が一番強いのは間違いない。自分の馬(アドマイヤボス)の能力を100%引き出せても、オペラオーに100%の力を出されたら間違いなく負けてしまう。そして、あのレースの道中、このまま流れで進めば100%の力を出されてしまうと察知した。他の騎手は誰も動かない。ならば自分が動くしかない。そこであのような騎乗になったのだが、そこである誤算が生じた」。
 断然人気で4着に沈んだオペラオー陣営はカンカンだった。岩元調教師らは、彼の騎乗ぶりを批判した。たしか竹園オーナーも怒りをあわらにした発言をしていたはずだ。しかし、一ファンの立場から言わせてもらえば、そんな批判を相手ジョッキーに浴びせるのはお門違いである。レースに勝ちにいくのは当然のこと。そのためにライバルを負かしいくことも当然の手段だ。アドマイヤボスの騎乗方法がどんなに荒っぽく見えても、インターフェア(妨害)と指摘されていない以上、公に非難することなどできない。

 リーディングで上位を張るようなジョッキーは、みんなやっている。武豊、蛯名正義、アンカツ、外人・地方ジョッキー…。性格的に柴田善臣ぐらいだろうか、あまり目立たないのは。先月の七夕賞にしても、後藤はカゼニフカレテで強引なマクリをかけていた。それによって結果にも影響を及ぼした。自分の馬券だって…、また外れた。結果的には、カゼニフカレテは勝てなかったからあのような騎乗がベストとは言えないだろう。01年の大阪杯の結果について彼は、「オペラオーを負かすことが目的ではない。ただ、オペラオーを負かせば1着になれると思った。オペラオーに先着することはできたが、3着では何の意味もない。僕らジョッキーにとっては、1着以外は何着でも同じ。どんなレースでも勝つことしか考えていない」と語っている。
 当時自分は、竹園オーナーの発言に対してひどく憤慨した。「そんなこと言っているからジョッキーが皆横並びになる。ぬるま湯体質のレースなんかいらない」のだと。

 大阪杯後、アドマイヤボスを管理する橋田満調教師、近藤利一オーナーは後藤浩輝を同馬からすぐに降ろすようなことはしなかった。結果はでなかったが、彼のあの騎乗方法に対し、尊重の意を示した。それがなかったら翌年の安田記念制覇はきっと叶わなかったはずだ。「いつでも全力で勝ちに行く」という、基本的なプロフェッショナルの姿勢が、後藤浩輝に見えた瞬間だった。
《つづく》
■ 2004/08/28(土) 『後藤浩輝の戯言』、『意外に大変。』を読んで③
 「あれは生涯最高のレース。ゴール100m前までは…」。後藤浩輝が「思い出したくもない」と憂鬱に語るレースは、01年の京都大賞典である。彼はステイゴールドに騎乗していた。レースの内容・結果は競馬ファンならば誰でも知っているだろう。ステイゴールドは、現役最強馬テイエムオペラオーを内からすくい、直線抜けだして勝利目前のところで悲劇は起きた。ステイゴールドは突然左にヨレ、ナリタトップロードに騎乗していた渡辺薫彦騎手を落馬させてしまったのだ。ステイゴールドは完全に1頭抜け出していた。あのまま真っ直ぐ走っていれば間違いなく先頭でゴールを駆け抜けていたはずだ。GⅡとはいえ、格上であるテイエムオペラオー、ナリタトップロードを破っていれば金星と評価されるレースだった。

 レース前、後藤浩輝は神妙な面持ちに駆られていた。「ステイゴールドの真実を知りたい」と。ステイゴールドという馬は、非常に難しい馬であったらしい。彼以外に騎乗したことがあるジョッキーも皆、口を揃えて「どこまで本気で走っているのかがわからない」と言っていたらしい。京都大賞典では、彼はテン乗りではなかったが、同様のイメージを持っていた。過去何度か騎乗していたが、勝利をあげていなかった。
 だが、ステイゴールドの主戦である武豊は違った。同年のドバイシーマクラシックでエミレーツの王者・ファンタスティックライトを破る大金星をあげた。さらに遡れば、2年8ヶ月にわたって勝ち星に見放されていた同馬に目黒記念(初重賞制覇)をプレゼントしたのも武豊であった。

 自分が勝たせることができなかった馬に、別のジョッキーが乗って勝つ。その逆でもいい。勝っていた馬に自分が乗ることになったものの、勝たせることができなかった。ジョッキーにとってみてば、これほど悔しいことはないはずだ。比較対象が、自分より上手な武豊であってもだ。だから、後藤浩輝は思っていた。「ステイゴールドを勝たせることができるのは、武豊しかできないのか?」と。
 このままでは本気になったステイゴールド強さは、武豊しか知らないことになる。武豊は何をして同馬の力を引き出したのか? 同馬は武豊の何を感じとって走っていたのか?後藤浩輝は、「ステイゴールドの隠された力を知りたい」という一心にかられた。そこで彼がとった作戦は『武豊になる』ということだった。
 このあたりのことは騎乗している本人にしかわからないことだろう。ましてやジョッキーではない、一般のファンには理解なかなかできないことだ。
 「それは同じジョッキーとしてプライドを捨てることかもしれない。それでも結果を出してしまえば、自分の結果になる。感情、性格、緊張感、そして自信─。武豊だったらこうするだろうな。すべて武豊になり切ろうと思った」と彼は語っていた。
 だから、この強力メンバーの中でも彼は本気で勝てると信じていたに違いない。今まで勝ったことがない現役最強馬が相手であってもだ。そして、おそらく彼の意とするすべてが、あの日のステイゴールドに伝わったのだ。

 ステイゴールドにはもともとヨレる癖があった。だが、あのような結果になってしまったのは彼の騎乗ミスによるものだと、本人も認めている。落馬させてしまったトップロード陣営、渡辺ジョッキー、失格にさせてしまったステイゴールド陣営、そしてファンに対する罪悪感は想像を絶するものであった。レース後は、巨大な喪失感に襲われた。「もう死にたい…。自分には騎手の資格はない」。本気でそう思う日々が続いた。
 周囲の声は否応無しに聞こえてくる。当時、オペラオーの竹園オーナーも批判の声をあげていた。今度ばかりは、それも甘受しなければならない立場であった。なかには「レースにはそういうものもつきものだよ」と慰めてくれる人もいた。だが、この失格はそんな言葉で片付けられるものではなかった。それは、本当ならベストレースになるはずものが、ワーストレースになってしまったからだ。自分が大切にしていたもの、最高になるはずものをすべて台無しにしまったからだ。
 ひどい罪悪感に苛まれていた彼を救ったのは、ナリタトップロードを管理する沖芳夫調教師の言葉だった。「そうやって後藤くんが落ち込んでいるのを喜ぶ人はいないよ」。幸いにもトップロード自身は、ケガを負わずに済んだこともよかったのかもしれない。それと、あのあと渡辺ジョッキーが無事にレースに復帰できたことも。

 その年の暮れ、ステイゴールドは武豊騎乗で香港国際ヴァーズを勝った。それも勝ち方が凄まじかった。絶望的と思える位置取りから驚異的なの末脚を発揮しての差し切り勝ちだった。そして、引退レースが初GⅠ制覇という、劇的な勝利だった。今思えば、後藤浩輝がステイゴールドの真実を知りたいと思った理由がわかるような気がする。あの馬のどこにあんな力が眠っているのかと。相手云々という問題は確かにある。だが、あの勝利は自分も本当に素晴らしいと思った。
 ステイゴールドの最後の勇姿は、「僕の心の負担を取り払ってくれた」と彼は語っている。残念ながら、後藤浩輝自身の手ではステイゴールドに勝利をプレゼントすることができなかった。だが、あの京都大賞典で見せた脚は紛れもない真実であったと思う。勝利の喜びという形には結びつけることはできなかったが、きっと彼の心の中では、「自分にも感じた。ステイゴールドの力を引き出すことができた」という自信と誇りはあるに違いない。ステイゴールドの真実を知っているのは、「武豊騎手と自分しかいない─」のだと。
《つづく》

■ 2004/09/02(木) 『後藤浩輝の戯言』、『意外に大変。』を読んで④
 自伝『意外に大変。』の中で、後藤浩輝はプライベートなことについても赤裸々に語っている。果たしてこんなところまでカミングアウトしていいものなのだろうか? それは、読み手にそう思わせるほど衝撃的な内容であった。
 彼が小学4年生の時、両親は離婚してしまう。当時、彼には姉がいたが、これがきっかけで離れ離れに過ごすことになる。母親は姉を引き取り、彼は父親に引き取られることになる。両親が離婚に至った原因については書かれていなかったが、おそらく父親にとっては本意ではなかったと思われる。離婚後まもなく、母親は別の男と再婚している。しかし、彼にとってはたった一人の母親だ。家族がバラバラになっても、母親への思いは変わらない。

 息子と二人きりで暮らすことになった父親の生活は荒み、心身ともに衰弱。ついには首をつって自らの命を絶とうと決意する。だが、父親の自殺行為は未遂に終わる。父親の行為を目の当たりにした後藤浩輝は、激しい衝撃に襲われた。涙を流しながら父親に哀願する。「自殺なんて考えないでくれ」と、彼はひたすら泣き続けた。
 父親は反省し、普段の生活を取り戻しかけたかにみえた。だが、父親の精神状態は治まらなかった。ある晩、父親は寝ている息子の首に手をかけてしまうのである。後藤浩輝は睡眠中に突然、息苦しさを覚えた。だが、恐怖で身体が動かない。あの一件があったので、彼は父親が何をしようとしているのかとっさにわかった。あの時、父親が思いとどまっていなかったら…彼は今、この世にいなかった。
 言葉が出ない─。

 一命はとりとめたが、もう元に戻ることはできなかった。実の父親に殺されかけたのだから無理もない。その後、彼は母親に引き取られることになった。だが、それで万事解決とはいかなかった。そこには受け入れ難い事実が待っていた。家の玄関の表札が『後藤』ではなくなっている。そして、自分が知らない男が、父親になっていたからだ。彼はグレた。一般的には反抗期の一歩手前の時期であるかもしれないが、グレるには事欠かない材料があまりにも多すぎた。
 その後も紆余曲折あった。ここでは書き切れないほどの出来事があった。新しい父親との決別、異父弟の誕生、前の父親と母親の復縁、別居…。幼い後藤少年にとっては、あまりにも重過ぎるつらい現実が次々と重なった。
 この思いは一生消えることはない。とりわけ10歳年下の弟に対する気持ちは複雑だ。母親は同じとはいえ、自分が一度も馴染む事ができなかった父親との幻影が脳裏に浮かぶ。後藤浩輝が競馬学校に入学したということもあり、どこか他人のような感覚はなかなか拭うことはできなかった。それに、弟は後藤家の真実を知らない。おそらく弟は彼のこの著書によって、すべてをはじめて知ることになるのだろう。

 人の性格や価値観、考え方を形成するのは身の回りの環境によるところが大きい。とりわけ幼少時代の家庭環境によって植えつけられたものは、その後の人格形成に大きな影響を及ぼす。この時期のコミュニティーの場は、“家族・家庭”が大部分を占めている。そして人間関係というものを学ぶのは自分の両親、つまりは夫婦仲ということになる。
 後藤浩輝は特殊な家庭環境で育った。それによって、彼は心の傷を抱えたまま生きなければならなくなった。もしも彼が人並みの家族の温かさを実感することができていれば、違う人生が送れたかもしれない。そういった思いがコンプレックスとなり、今の彼を支えている。家庭のことだけではない。身体が小さいということも昔からのコンプレックスの一つであった。身体が小さかったからジョッキーになれたのだが、競馬場から出ればただの男。彼は、今でも身体的なことに関しては重荷に感じている面があるようだ。

 完璧な人間なんてそういるものではない。誰しも不安を抱えたり、コンプレックスを感じたり、他人に嫉妬したりする。そこでどうするかは人それぞれだ。妥協したり諦めたり、押しつぶされたりすることもあるかもしれない。しかし、コンプレックスがあるからこそ、頑張らなければという強い意志も生まれる。
 後藤浩輝は騎手である以上、リーディングジョッキーを目指し日々努力をする。そのためには、自分に障害となるものは排除にしなければならないという意識も働く。例の木刀事件※が起きたきっかけは、おそらく彼のそういった潜在意識がもたらしたものであったのであろう。悪く言えば、自己中心的。見方を変えれば、それが後藤浩輝の人間的な強さなのかもしれない。
※レース前の輪乗り中に自分の馬に蹴りを入れた吉田豊に怒り、美浦の騎手寮で木刀で殴った事件。4か月間の騎乗停止処分を受けた。

 彼は武豊ら、日本を代表するトップジョッキーの実力を認めている。一方で、自分には「武豊のような才能はない」ということも認めている。いわば器の違いと言うものなのだろうか。自分が一生懸命やってもできないことを、サラリとやってのける他人を見た時、悲しいかな資質の違いというものを否応無しに痛感させられる。だが、それでも人は何かをしなくてはならない。自分に足りないものが永久に埋められないかもしれないとわかっていても…。
 
 なんだかずいぶん長くなってしまったようだ。こうして書いてみようと思ったのは、非常に共感できる部分が多かったからだ。色々な面で自分を駆りたてた。自分と彼との年齢は一つしか違わない。お互い全く違う世界に生きているが、同世代の人間の生き様を知ることは素晴らしいと思った。
 元来、アスリートというものは現役時代に自分の多くを語ることは少ない。そんな中、これほどまで語って(書いて)くれた彼には感謝したい(文章・表現方法も上手)。単なる目立ちたがり屋なのかもしれないが、競馬ファン、ひいては自分にとって貴重な存在であることは間違いない。
《おわり》

1 コメント

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ありがとうございます (510)
2015-04-19 17:14:43
貴重な記事を再度公開していただきましたこと感謝いたします。

わたしは実際競馬はしませんが、馬は好きで、牧場に行ったり、ゲームでは競馬も好みます。後藤Jの死去により彼の行き方を辿ることによりここにもめぐり合えました。

まだ、本は手に入っておりませんが気になっていた内容の一部でも知ることが出来、大変うれしく思いました。
この状況では入手が困難ですが、いつかゆっくり二冊をそろえて読んでみたいとおもいます。

最後になりますが、後藤Jがいない競馬は寂しいですね。
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