
人間の本性をさらけ出す露悪的ま作風で知られる直木賞作家
「最後の私小説作家」あるいは、「最後の文士」。
作家車谷長吉は、そんな代名詞を背負って現代文学界に立つ孤高の作家です。
自らの半生や血族の歴史が色濃く映し出され、人間の業が赤裸々に描かれた作品世界は、圧倒的な力で多くの読者の心の奥底を揺さぶり続けてきました。
47歳の時、『鹽壺の匙』で本格的に文壇に登場するまで、まさに確信犯的に時代遅れの文士の生き方を貫いてきた、そんな異色の経歴も手伝って、読者の中には、車谷作品に描かれていることがそのまま作家の実体験であるかのような錯覚を持つ人も多いでしょう。
しかし、それこそが、長い文学修業の果てにたどり着いた、小説作りの巧さであるといえるのです。
自身も近松門左衛門の「文学における真は虚実皮膜の間にある」という言葉をひいて、「虚点」こそが、小説を小説たらしめている根拠なのだと語っています。
本展では、様々な資料によって、その半生のあらゆる「実」を明らかにします。日記や創作ノート、女性に送った絵入りの恋文、おびただしい量のボツ原稿…。さらに、弟のアメリカ土産の万年筆や、作家になれなかったら自刃するつもりだったという長匕首など、作品の中で独特の存在感をもって描かれている「物」も数多く実在します。しかし、それらもまた、車谷長吉が作家になる覚悟をしてから長い時間をかけて作り上げてきた巨大な「虚」の一部であるのかもしれません。文字通り、「虚実皮膜の間」に生きる作家車谷長吉の世界に素手で触れるようなスリリングな感覚を味わっていただけることでしょう。
目利きとして知られた白洲正子は、まだほとんど無名だった車谷長吉を最初に「発見」した人物でした。その白洲はかつて、車谷の文学を「神さまに向って言葉を発している」と評したといいます。その言葉の真意をさぐるべく、書くことを畏れながらも、人間の悪を命がけで書くことを自らに課した文士の真の魅力に迫ります。font size="3">
車谷 長吉(くるまたに ちょうきつ、1945年7月1日 - 2015年5月17日)は日本の作家、随筆家、俳人。
本名、車谷嘉彦(しゃたに よしひこ)。
兵庫県飾磨市(現・姫路市飾磨区)出身。
筆名の「長吉」は唐代の詩人李賀にちなむ。妻は詩人の高橋順子。
かつては「反時代的毒虫」としての「私小説作家」を標榜しており、播州地方の方言を使った民衆言語で下層民の泥臭さを執拗に描き、近代と自己に疑問を投げかけるような苛烈な私小説において評価を受けた。
人物と作風
姫路市立飾磨高等学校、慶應義塾大学文学部独文科卒業(卒論はフランツ・カフカ論)。
県下一の進学校(具体的な校名は不詳)を目指しての高校受験に失敗したことで強烈な上昇志向を育む。
高校3年で文学に目覚め、慶大卒業後も広告代理店や出版社に勤務する傍ら私小説を書き、処女作『なんまんだあ絵』(1972年、『鹽壺の匙』所収)で新潮新人賞の候補となる。しかし次第に小説を書くことに行き詰まり(後年になってそれまでの自作には迷いがあったと語る)、会社員を辞して故郷へ戻る。以後、30歳からの8年間は、旅館の下足番や料理人として、神戸、西宮、曽根崎、尼崎、三宮などのたこ部屋を転々と漂流する、住所不定の生活を送っていた。しかし、担当編集者からの強い呼びかけもあり、再び東京へ行き作家として再デビューを果たす。白洲正子、江藤淳らに高く評価された。
1993年に『鹽壺の匙』で第43回芸術選奨文部大臣新人賞(平成4年度)と第6回三島由紀夫賞を合わせて受賞。1997年に『漂流物』で第25回平林たい子文学賞受賞、表題作は第113回芥川賞候補にもなった。 『赤目四十八瀧心中未遂』で第119回(1998年上半期)直木賞を受賞。同作は2003年に映画化され、特に評価が高い。一方で、伊藤整との文学観の違いから、同作による1998年の伊藤整文学賞の小説部門の受賞を拒否している。2001年に「武蔵丸」(『白痴群』所収)で第27回川端康成文学賞受賞。
俳人として句集も出している。
2004年4月、『新潮』(2004年1月号)掲載の私小説「刑務所の裏」で事実と異なることを描かれ名誉を傷つけられたとして俳人の齋藤慎爾に提訴され、12月、謝罪して和解。車谷は「私小説作家」としての廃業を宣言した。以降、史伝小説や掌編小説、聞き書き小説などを中心に発表している。 2010年、新書館より『車谷長吉全集』全三巻が刊行された。
2015年5月17日、誤嚥による窒息のため死去[4]。69歳没。




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