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「オリエンタリズム」、モルモン教の場合

エドワード・サイードは、西洋が中東やアジアを始め西洋
以外を好奇の目で見て、しばしば優越感をもって自分たち
とは違う「他者」を、文化的支配者の立場から描いてきた
ことを「オリエンタリズム」という言葉で批判分析した。

遠藤周作が「留学」という作品の中で、フランスに留学し
た主人公がカトリック教徒であるけれども、「日本にもっ
とキリスト教の光をあてるように祈ろう」と言われて、戸
惑いながら「あなたたちは日本について何も知らぬ。そう
簡単にいってなるものか」と心中つぶやく場面がある。サ
イードの著書が現れる前のことであるが、オリエンタリズ
ムの傾向に遠藤が抵抗したものと私は受け止めている。

さて、モルモン教の場合であるが、やはり無意識のうちに
同じ傾向が本の題名などに表れているように見受けられる。
例えば、このブログ3月9日の書き込みの「日出ずる国日
本のモルモン教徒」は学術的な方向から取り組んだ珍しい
本と思われるがタイトルにその響きが感じられる。また、
そこにあげた「福音を日本へ」(Taking the Gospel to the
Japanese)のタイトルにも私はその傾向を感じ取っている。
少なくともそのような心理が潜在している読者に訴えよう
としているのではないか。

私は考えすぎで、ひねくれているのかもしれない。現在、
学問が進歩し国際化した世界では甚だしいオリエンタリズ
ムは克服されているはずだからである。(キリスト教国の
優越性を論じたり感じる向きは時代遅れのはずである。)
上記の「福音を日本へ」の編者は、日本の伝道百周年を記
念する論集に日本人の投稿をできるだけ含むように努力し
て、私にコンタクトしてきたのであった。その結果、柳田
姉妹の扶助教会の回顧録も掲載された。この編者ニルソン
氏にはオリエンタリズムの傾向を感じていない。

私はずっと以前から、教会の出版物で日本など伝道地の様
子を記事にしているのを見るたびに、なぜカタカナの執筆
者しか書いていないのか、その地の人が執筆してこそ自然
ではないのか、と思っていた。今から思うに、エキゾチッ
クな異国の様子を描き、そこに自分たちの宗教を信じる群
れが存在し始めているのを喜んで報告している、いわば一
種のオリエンタリズムがそこに感じられたからではないか、
と思っている。

私のこれまでの活動(英文で日本の教会関連の口頭発表、
活字による記事投稿)を支えてきた背後には、「オリエン
タリズム」に対する抵抗のようなものがあったのではない
かと思っている。


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