
[倒れているラバンを前に逡巡するニーファイ]
モルモン書のニーファイ第一書4章に出てくるラバンの殺害は、やはり今日にあって弁護し難い場面であると思う。多くの末日聖徒は、初め当惑しながらも文脈を熟読し、あれは最後の手段であった、神が命じられたのだ、真鍮版が得られず将来多くの民が不信の暗闇に陥るより一人が滅びる方がましで次善の策であった、など説明を聞いて受け入れてきた。
しかし、私は最近別の考え方に接し、その方が理にかなっているのではないかと思うようになった。それは物語理論で言われている「信頼できない語り手」(unreliable narrator) の介在という説明で、物語を紡ぐ語り手の側に偏向性や知識の欠如があって、生じるとする。ニーファイによるラバンの殺害の場合、語り手(ニーファイかジョセフ・スミス)が旧約の律法に支配され、現代の読者が持っている倫理観を見越せないで生じたと考えられる。このことについて論文を書いた広島大学の教授はもっと粘り強い交渉をすべきではなかったか、と書いている。
もう一つは、上村静の言う聖書の倒錯に連なるケースではないか、という理解である。旧約聖書では元から住んでいた住民を全滅せよと命じる残虐な神が描かれている。ほかにも狡猾に見える人物が結局主流を占めて後世の民の先祖となっている例がある(エサウよりヤコブが選ばれる、兄たちを見下げるような夢を見るヨセフなど。偏愛する神)。これらの記述は今日の理屈から言えば擁護しかねる倒錯に当たるという。(倒錯は逸脱であり、聖書の記載とはいえ、現代の読者はそういった部分を擁護する必要も、それに拘束されることもない。)また、多くの記述は後世選民とされたイスラエルの視点から他民族の征圧を神の命による、と正当化して記述した経緯がある。
今日の社会で、神から命じられれば人の命を奪うことさえすると言えば、大きなリスクを負うことになる。例、次のような本が出ることになる。ジョン・クラカワー著、佐宗鈴夫訳「信仰が人を殺すとき - - 過激な宗教は何を生み出してきたのか」2005年。(これはモルモン教会を扱ったノンフィクションである)。ラバンの殺害について私はnarrative として読んで、この場合は自分に引き比べて読むことを控える。
注 旧約外典「ユディト記」13章に、ラバン殺害によく似た物語が記されている。アッシリアのネブカドネザルの司令官を、敬虔なやもめユディトが、相手が酔いつぶれているのに乗じて彼の短剣を抜いて首を取るのである。4-10節。参考となる並行資料である。M.D.Thomas, “Digging in Cumorah,” p. 66.
註2 ラバンはエルサレムの軍事司令官 a military governor of Jerusalem であったとH.ニブレーは述べている。ニブレーはリーハイとほぼ同時期に記されたラキシュ書簡に基づいて書いていて蓋然性が高い。いくつもBofMと類似点が見出されると言う。
Hugh Nibley, “Dark Days in Jerusalem: The Lachish Letters and the Book of Mormon (INephi)” in Noel B. Reynolds ed., “Book of Mormon Authorship” BYU宗教学センター、1982年、104-121。ラキシュ書簡もBofMの貴重な並行資料である。
参考
上村静「宗教の倒錯 ユダヤ教、イエス・キリスト教」(2008年)
標(しめぎ)康司「危険な質問 - - 末日聖徒における宗教としての危険性・異常性の要素に関する考察」モルモンフォーラム15号(1995年秋季)
吉中孝志「The Book of Mormon を文学的に読むとどうなるか」、広島大学「表現技術研究」5号(2009年3月)所収。
当ブログ
2008.09.18 「モルモニズム研究会、広島で開催される」
2014.10.26 「戦いを命じる旧約の神 - - どう受けとめればよいか」
あるいは、このままであれば、現代の読者としては、殺せというささやきには従わないということになります(私のような人の場合)。
この物語の本質は視点を預言者レーバンにもっていくのが妥当であって、神から預言者に選ばれた以上は、背教すれば滅ぼされても文句は言えないよぐらい意味があるととるべきでしょう。
つまり(ニーファイかジョセフスミスが)未熟で説明不足による読者の当惑を想像できずに、こんな風になってしまった。(これも一種の「信頼できない語り手」(unreliable narrator) の介在という説明で片付いてしまうと思われますけれども。)
また版をもう一つ作ってもらうことはできなかったのかといつも話してくれます。
何故、殺されなければなかったのか?現代人は不思議にと思うでしょう。
ニーファイは、できるだけ殺したくはなかったと言っていたはずです。
そこは神の御霊の導きで、ニーファイが殺さなければ、ラバンがニーファイを殺すということ御霊の声を受けたと解釈するべきかと。
自分の経験ですが、自分の家族のことで受けたことがあります。
「兄弟を家に連れて来てはいけない」という御霊の導きがありました。
しかし連れて来てしまいました。私の人生はボロボロとなりました。うつ病になり死にたい時期もありました。兄弟を殺そうと思ったのも何度もありました。教会にも行けないくらいの状態となりました。
だから分かるんです。ニーファイがもしもあの時に神様の御霊の導きに従っていなかったのなら、どうなっていたかを。
多分この経験をしていなかったなら、私も分からなかったでしょうね。
またニーファイがラバンを殺したことはみたまに促されて神の意志を実行したのだとしても、モルモン教義では(先日話題になった)自由意思と言う概念があり、人が神の命令を実行するかどうかは自ら選択するのが神の計画であるはず。人に強制的に善行をさせ一人残らず神のもとへ連れ来るというルシフェルの計画を天父は否定されたのではなかったか?あくまでも人は自らの意志で行動を選択するのがモルモン教義である。
であれば神のみたまに命じられ止む無くとニーファイが言い訳することはできない。彼は自分の自由意思で選択し、喜んで神の意志を実行、すなわちラバンを殺したのである。そもそもその前に天使が現れて「主はラバンをあなたの手に渡される」と告げているのだ。だからニーファイには自分がラバンを殺すことになる覚悟はあったのは明白ではないか。だからこそ、できるなら自分がラバンを殺すことにならなければよいが、という感情を抱いたのである。
また事後の行動にも注目されたい。ニーファイはラバン殺害の直後、彼の服を身にまとい、宝物蔵へ入っていった。これは主から命じられてはいない行為である。明らかに盗みでありモーセの律法に反する、またその後ラバンの家来に自分の身分を偽って返答したが、これも偽証でありやはり律法に反する行為であった。
このようにモルモン書をよく読むとニーファイがモーセの律法の強い影響下にあったとは全く言えない。そもそもニーファイはモーセの律法は来るべきキリストのひな型であって律法自体に何の意味もない、神が守れと命じているから守るのであると説明している。
ニーファイは神の命令を疑いもせず、忠実に実行するマシーンである。神の命令ならば喜んで人も殺すのである。しかし彼は何度も天使に会っているのである。ニーファイの行為を批判する人たちに尋ねたいのだけれども、あなたがたは何度も天使に会っていながら神の命令を実行することを躊躇するだろうか?
ニーファイの行動に疑問を持つ人たちはやはり心のどこかにモルモン書を事実だと思えない疑いの気持ちを持っているのだろうと私は思っています。なお私自身はモルモン書に対して疑いの気持ちは少しも無く、完全に作り話だと断言します。
そこには、人間の判断が入る余地が有りません。
ですので、神が「殺せ」と命令した時には、それに従うのが、正しい信仰者の姿勢です。
そんな事当り前じゃないですか!何をいまさら。
オウム事件が有った頃に、この話をしました、ほとんどの答えが「神は人殺しをするようには勧めない」と言うものでした。
しかし、モルモン書に限らず、旧約聖書にも、「神による殺人命令」が下されたとの記述が有ります。
人道的な教えだし、他人を愛し、争いを避けるキリスト教の教えと、「神の殺人命令」は、全く矛盾するもので、両方が「信仰」として成り立つことは無い、と考えるのが正しいと思います。
となると、どちらかを捨てなければいけない。
それか、理屈をつけて両立を図る。
モルモンの多くはたぶん、後者の方だと感じます。
と言う事はつまり、神の殺人命令を何かの理屈で、正当化している。
オウムは「ポア」と言う言葉を使った。
「ポア」は、平たく言うと、別の世に移ると言う様な意味らしい。
来世を重要視する宗教家には、この世で生きる事の意味合いはそんなに大きくない。「この世で神に背いて生きるより、神に従って死ぬ方が次の世で祝福を受ける」と言う思考が、自爆テロなどにつながっているのだと思う。
つまり、モルモンのように、「従順」を基礎に置く宗教は、「社会的にそれなりの危険性を持っている」と認識すべきだろう。
モルモンは、「神による殺人命令に従うのが正しい」と言う教義を持っている宗教だと認識することが重要だと思います。
今年の日曜学校で、ラバンの話が出てきたときに、「神に背いた悪人を殺すことのどこが問題なの?」と言う人も何人かいました。それが平均的なモルモンの見解なのかと思います。
Mami姉妹という方がこの記事を書いています。
新鮮な視点で感心しました。
以下抜粋
それは、歴史的説明以上のものであり、以下の性質を持った象徴を使う物語、寓話でもあります。
イエス・キリストを象徴するニーファイ
サタンを象徴するラバン
わたしたち一人一人を象徴するゾーラム
ラバンは真鍮版を持つほどの権威を認められていた指導者であったが、背教して死を身に受けた。