[断り] (これは極端な拙速伝道について書かれたもので、多く
の伝道部と宣教師は誠意ある伝道を行っていることを承知してい
ます。なお、これは2007/11/25にHelmut と名乗る人が書き込んだ
コメントの訳で、このブログの主宰者の言葉ではありません。し
かし、伝道される側の視点から書かれ、一部いかにも同じ思いな
のでここに紹介する次第です。)
定着率をよくする鍵は、改宗者の尊厳を尊重することにあって、
決して数字を上げて戦利品を持ち帰るような心理に染まらないこ
とである。
本当に実現しなければならないのは質を維持することである。そ
れを実現する最善の方法は地元の監督にバプテスマの拒否権を与
えることである。数字を上げようと考えていない監督である。心
身の障害者や孤独な女性、難民を、(今の日本ではホームレスを)
説き付けてバプテスマを受けさせた結果、ホームティーチングの
負担が増える監督に拒否権を与えるのである。
もし監督がバプテスマを承認しなければならなくなれば、数字を
追うことからくる問題は解決する。問題解決は至極簡単である。
しかし問題の本質は、宣教師プログラムがモルモン教徒のその後
の経歴に大きな役割を果たすという文化的、自己評価にかかわる
機能を担っていることにある。そのため、海外の教会に大変大き
な害を与えるにもかかわらず、そもそも数字をあげることはモル
モン教にとって意味を持つのである。
問題の所在は、改宗者や求道者の必要(ニーズ)にしっかり取り組
むより、ソルトレークの上位者に目を向けている伝道部長にあり、
自分たちのやり方に疑問を持つことを許されない宣教師たちにあ
り、ひいてはソルトレークから教会を統治できるという錯覚に陥
っている教会幹部たちにある。
伝道プログラムを見ていると、最終的には相互調整がうまくいっ
ていない機能不全を目撃していることに気付く。全体的にモルモ
ン教会は年を追うごとに管理が非効率になっている。
伝道プログラムの現状は一種の搾取(利己的利用)であり、将来
モルモン教徒として経歴を歩む者が満足感を得、米以外のモルモ
ン教徒が後始末を強いられている状態である。
自信過剰で自民族中心主義ではなく、ほんの少し謙遜になれば、
伝道プログラムを大きく再生させることができるだろう。「教会」
ではなく、福音を愛するようになれば正しい道にもどれるであろ
う。
しかし現実は、愛する人たちに自分たちがどれほど立派に働いた
か、教会がどれほど急速に発展しているかを語りたいがために、
改宗者をものであるかのようにみなし、後に残された面倒を地元
の会員に押しつけている。
モルモンの宣教師プログラムは官僚政治学のケーススタディにな
る。改宗者を人として扱うようにならないと機能退化が生じるで
あろう。
http://mormonstories.org/?p=342
'08/3/25 チリの予期せぬ伝道事情
の伝道部と宣教師は誠意ある伝道を行っていることを承知してい
ます。なお、これは2007/11/25にHelmut と名乗る人が書き込んだ
コメントの訳で、このブログの主宰者の言葉ではありません。し
かし、伝道される側の視点から書かれ、一部いかにも同じ思いな
のでここに紹介する次第です。)
定着率をよくする鍵は、改宗者の尊厳を尊重することにあって、
決して数字を上げて戦利品を持ち帰るような心理に染まらないこ
とである。
本当に実現しなければならないのは質を維持することである。そ
れを実現する最善の方法は地元の監督にバプテスマの拒否権を与
えることである。数字を上げようと考えていない監督である。心
身の障害者や孤独な女性、難民を、(今の日本ではホームレスを)
説き付けてバプテスマを受けさせた結果、ホームティーチングの
負担が増える監督に拒否権を与えるのである。
もし監督がバプテスマを承認しなければならなくなれば、数字を
追うことからくる問題は解決する。問題解決は至極簡単である。
しかし問題の本質は、宣教師プログラムがモルモン教徒のその後
の経歴に大きな役割を果たすという文化的、自己評価にかかわる
機能を担っていることにある。そのため、海外の教会に大変大き
な害を与えるにもかかわらず、そもそも数字をあげることはモル
モン教にとって意味を持つのである。
問題の所在は、改宗者や求道者の必要(ニーズ)にしっかり取り組
むより、ソルトレークの上位者に目を向けている伝道部長にあり、
自分たちのやり方に疑問を持つことを許されない宣教師たちにあ
り、ひいてはソルトレークから教会を統治できるという錯覚に陥
っている教会幹部たちにある。
伝道プログラムを見ていると、最終的には相互調整がうまくいっ
ていない機能不全を目撃していることに気付く。全体的にモルモ
ン教会は年を追うごとに管理が非効率になっている。
伝道プログラムの現状は一種の搾取(利己的利用)であり、将来
モルモン教徒として経歴を歩む者が満足感を得、米以外のモルモ
ン教徒が後始末を強いられている状態である。
自信過剰で自民族中心主義ではなく、ほんの少し謙遜になれば、
伝道プログラムを大きく再生させることができるだろう。「教会」
ではなく、福音を愛するようになれば正しい道にもどれるであろ
う。
しかし現実は、愛する人たちに自分たちがどれほど立派に働いた
か、教会がどれほど急速に発展しているかを語りたいがために、
改宗者をものであるかのようにみなし、後に残された面倒を地元
の会員に押しつけている。
モルモンの宣教師プログラムは官僚政治学のケーススタディにな
る。改宗者を人として扱うようにならないと機能退化が生じるで
あろう。
http://mormonstories.org/?p=342
'08/3/25 チリの予期せぬ伝道事情
>定着率をよくする鍵は、改宗者の尊厳を尊重することにあって、決して数字を上げて戦利品を持ち帰るような心理に染まらないこ
とである。
って事ですが、定着率ってそんなに重要なんでしょうか?
例えば、年間一人のバプテスマが有りその一人が定着した。100%ですね。
じゃあ、年間100人のバプテスマが有り、10人が定着した、10%です。
どっちが良いのですか?
この判断をするのに、ポイントとなる聖句が有りますね。
76:74 また、これらは、肉においてはイエスの証を受け入れなかったが、後にそれを受け入れた者である。
76:35 それは、彼らが聖なる御霊を受けた後にそれを否定したため、また御父の独り子を否定したため、また独り子を自ら十字架につけて公に辱めたためである。
いずれも、教義と聖約からですが、今はあまり強調されなくなっているようですが、少し前までは、「福音を聞いて拒否した人の罪」と言う問題が有ります。
つまり、バプテスマを受けてから教会に来なくなた人を「罪」と見なす考え方(教義?)です。
もしこの考えが無ければ、教会に出席しない会員がいくら増えても問題ないのですが、この考えのゆえに、「会員に成った人が、教会に来なくなる事がないように、サポートしなくては成らない。」と言う使命感がや、それが出来なくなった時の罪悪感が出てくるのだと思います。
出席率にこだわる事の根底に有る要因を見直せば、拙速伝道に何の問題も無くなり、「地元の会員の負担が大きくなる」と言う思いもなくなるわけです。
つまり、「拙速伝道」と言う言葉の裏には、「お休み会員を増やす事は罪か?」と言う問いが有るのかと思います。
現実的には、私の周辺では、名簿上の会員全てに気を配るような処置はされて居ませんし、神権指導者も、「そんなところまで気が回らない」と言うのが実情ではないでしょうか?
もしそうなら、「拙速伝道」により会員数が増える事への肯定的評価が有っても良いのではと思います。
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確かに一人で100%=1人、百人で10%=10人、どちらがよいかという見方や種蒔きの譬え(マタイ13:24)から来なくなる人もある、とする考え方もあるでしょう。
しかし、会員数に対し出席している人数の割合が、北米で何%、アジアでいくら、南米で○○%、世界全体で何%と示されるとき、低い定着率がよいわけがありません。他の教会と比べられるとなおさらで恥ずかしい気持ちがするばかりです。
文化の違いやモルモン教の普及している地域であるかどうかも考慮しなければなりませんが、一つの大きな理由はおざなりな伝道が行われたことがあることを考えなければなりません。
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8年前英語のニューズグループに掲載された書き込みに次のようなものがありました。「10日でバプテスマの標語のもとに悔い改めに要する時間に期限を設けたり、10日たったから求道者が誠実に改宗の過程を終了したと言ったりできるだろうか。それは神をあざける態度ではないか、と。全く同感です。
どこの国のことか書いてありませんが、30-40%がバプテスマ後1回も教会に来ない、ほんの2か月後20-25%しか活発でない、と聞くと唖然とする。それは宣教師が聖典の言葉と生ける預言者を無視しているのだ、神は長く信仰を持ち続け教えに従う人を求めておられ、一時的な客人を望んでおられるのではないはずだ、と書いていますが、良識的なアメリカ人帰還宣教師がいるのを知って私は嬉しく思っていました。
そのような拙速伝道が定着率を著しく下げています。それは、伝道される人はもちろんその国の人々を尊重していない、と憤りに近い気持ちでいます。改宗という人生の一大事を安易に扱ってよいのかと私は問いたいのです。帰還後の教徒としての生活(経歴)につながると考える人々(Corridor Mormons)の自己(自民族)中心的視点に不快感さえ覚えます。
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それから同じ教会員でも考え方に違いがあることに気づきました。それは「教会に来なくなった人を罪に定められた者と見る」からそういった人を出さないよう腐心する、活発化しようとHTの負担を感じプレッシャーを感じる、この点は実際はもっと淡泊に考えているのではないでしょうか。多くの不活発会員はそれほど深く帰依するに至っていないので、来なくなっても罪ありとされるとは深刻に受け止めていない、と私は見ています。
それにHTについては、もうだいぶ前から日本の監督たちや神権指導者(長老定員会会長など)は全登録会員を網羅しようとはしておらず、限られた範囲の家族だけを訪問対象にしています。(これは米本部の指示や希望を無視し始めた大胆な発想であった、と見ています。もっとも今は米指導者ももっと多くを訪問対象にすべきである、と言わなくなったのだろう、と感じています。訪問すべき底辺をここまで拡張したのは多くの米人宣教師であったことに気づいているのでしょう。あるいは途方もない人数を訪問するように言って日本の指導者に過大な負担をかけることが隣人愛にそぐわないことに気付いたのでしょう。)
何にしても拙速伝道もよい、肯定評価できるのでは、など上記のような理由から私は賛成できません。とんでもないことです。
イエスは、福音をのべ伝えなさい、と言っています。
伝道とは「福音を伝える事」だと思います、「会員を増やすこと」では無いはずです。
福音を一人でも多くの人に伝える事が、大切な事だと私は考えます。
しかし、現在定着率を重視する為に、「会員に成りそうな人」を選んで福音を伝えようとしてる様に思えます。
つまり、会員が人間的判断で、福音を伝える相手を選別してしまっているのです。
「この人は会員に成りそうだ」「こう言う人に会員に成って欲しい」そんな判断で福音を伝える前に、人をふるいにかけているのではないでしょうか?
バプテスマを受けるかどうかは、本来聖霊の働きによるものです。その人がバプテスマを受けるかどうかは、その人と聖霊の働きによって決まるものではないでしょうか?
NJさんは、服を買うのに試着しないで買うのでしょうか?
モルモンの福音や教義、信仰生活を知るには、バプテスマを受けて会員に成らないと分からない事がたくさん有ります。神権の行使や神殿の儀式など、求道者の状態で理解できるのでしょうか?
私は、誰でも、望む人が、一人でも多くバプテスマを受け、神権や聖霊の賜物、神殿の儀式を経験し、その上で、会員として残るか否かを決めれば良いと思います。
ただ、その障害に成るのが「バプテスマを受けた後教会を離れるのが罪になる」と言う考え方です。
しかし、NJさんも認めてられる様に、その考えは今では会員もあまり強く持たなくなっています。
だったら、敷居を低くして、多くの人に一度会員を経験してもらって、その上で残るかどうかを判断してもらえば良いのではないでしょうか?
定着率にこだわるのは、現在の会員のエゴと傲慢です。
一つは、自分達の仕事を増やしたくない。
もう一つは、自分達は救われるが、世間の多くの人はそうではない。
この二つの思いが、根底に有って、定着率にこだわるのだと思います。
お休み会員が増える事よりも、現世で福音を聞く機会の無い人が増える事のほうが、よほど重大な問題です。
このサイトはまさにその「拙速伝道」をガテマラで見た宣教師が良心を痛めなんとか中央幹部にその現状を訴えようと努力したブログ管理者自身の体験から始まっています。
NJさんの引用元から辿って初めて知ったのですがここのポッドキャストは本当に興味深いです。
2年前に休止しているのですが、モルモンの識者(会員とは限らない)たちへのインタビューは実に聞き応えがあります。
豚さん、
「全ての人に福音を」のコメントありがとうございます。マルコ16:15にありますね。BofMには階層によって礼拝に参加するのを拒んではならないとあります。とにかく福音を伝えること(招くこと)、誰に伝えるか選別してはならないことについて、ご指摘の通りです。
日本のキリスト教会(またモルモン教会)のある意味限界(あるいは傲慢)をついていると思います。
ただ、会員になって味わってもらう必要がある、それから留まるか去るかを決めてもらえばよい、という点にひっかかります。招かれる者は多いが選ばれる者は少ない、あるいは種が播かれても根をおろすとは限らない、ので会員にならない人も多くいるわけです。イエスが譬えで語られたのは、聞く過程で選別される場合を含意していると思われます。関心のない人、理解を示さない人には次を語れないのではないでしょうか。
また、聖典にはバプテスマを受ける資格について記されています。悔い改めにふさわしい実を結んだ者、教会員の前にそのことを示した者などの記載があります。カトリック教会では1年の学びの後に洗礼式が行われる、プロテスタントでも少なくとも3か月くらいの求道生活を経て洗礼が行われる、と最近大阪の教会を訪ねて知りました。
>現世で福音を聞く機会の無い人が増える事のほうが、よほど重大な問題です。
この最後の点、理にかなった指摘だと思います。ただ、豚さんの厳しい指摘は理解できますが、考え方(理屈)が急速に進化し(試論としては興味あり)一部極論化しているような印象を受けます。
p.s. 豚さんの今回のコメントは、「一時的にせよこれだけ大勢の日本人がモルモン教に興味を示し加入したことは注目に値する」と述べていたアメリカ人の学者の言葉に通じるところがあります。(当ブログ'07/6/27 「日本のモルモン教徒に関連して注目した言葉」2。)
しかし、半年も一年も教義の勉強をしないとバプテスマが受けられない、と言うのも疑問を感じます。
それでは、「聖典の内容や教義を理解する能力が無いとキリストの救いに預かれない」と言う事に成ります。
一般の教会でも、少なくとも「キリストへの信仰により救われる」と教えてるのではないでしょうか?
モルモンはそれに加えて、聖霊の賜物、神権の儀式等、教会に入らないと受ける事が出来ない、救いに必要な事柄がいくつも有ります。
NJさんの提唱する方法は、入試が難しい日本の大学みたいなものですね。
つまり、「一定レベルの人意外は入ってくるな!」って言ってるわけです。
「モルモンは一般的には守りにくい戒めがあって、よほどの人で無いと会員として生きていけないから、それが出来る人だけが、バプテスマを受けて欲しい。」
と言う傲慢です。
その思いの続きには。
「私はモルモンとしてやっていけるけど、あなたは無理でしょ・・・。」って事ですよね。
「ここは一流の大学ですから、入るのは難しいんですよ。」って、今居るモルモンだって、そんなにたいした事内じゃ無いですか?
入りたいって人は、全部入れてあげればいいんですよ。それで、色々やってみて、辞めたいと思えば退会すれば良いんです。
ジョセフスミスの時代から、教会を去る事は罪であり、「背教者は地獄に落ちる」って言う教えに未だに縛られているから、「会員として付いて来れない人は入らないほうが良い」って思考が生まれるのではないでしょうか?
大学でも、重要なのは、入ってから一生懸命勉強して立派に卒業する事でしょ?
いくら入試が難しくても、入ってから遊んでたのでは意味が無いじゃ無いですか。
私は、伝道部長の成績を上げるための、「パプテスマの数至上主義」を奨励する気は有りませんが、同時に、求道者を見て「この人は良い会員(自分たちに利益になる会員)だろうか?」と思う気持ちも反省すべきだと思います。
ま、役員の方は、戦力が増えて、お荷物が少ない方が嬉しいのは分かりますけどね。
151eさんのサイトからiTunesを知って音楽を聞いていましたが、Podcastsにこのようなものがあるのを知りませんでした。Archiveを見ただけですが、この中に入っていたのですね。寝不足になる理由がわかります。聞いてみたい名前が目白押しです。「お気に入り」に早速加えました。日本でも高齢化する先達たちのなまの声をインタビューして保存、研究の用に供することができればよいのにと思います。
早速先ほどJohn Dehlin さんの話を聞きました。溜息をつきながら語る、驚くべき内容にあきれ、考え込んでしまいました。これも要約記事をいずれ掲載したいと思っています。
>もし監督がバプテスマを承認しなければならなくなれば、数字を追うことからくる問題は解決する。
拒否権を仮に監督に与えても変わらないでしょうね
しかも普通、監督は宣教師の肩を持つわけですから拒否することはまずありえません
拒否権があるためには承認権もなければいけませんし
その行使権は宣教師にありますから
本来宣教師はふさわしくない求道者には拒否権も行使しなければいけません
しかしこれがなされていないから起こりうる問題が現実に起きているのでしょうが
問題の本質はそのようなふさわしくない改宗者が一部教会に残り
ふさわしくないまま結婚をしふさわしくないまま家庭を築き
ふさわしくない宣教師が育ちまたふさわしくない求道者を捜し求めて放浪する
という悪循環があるかと思います
冗談はさておいて、カルロスさんへ。昔山口県徳山ワードで一時面接権が地元教会側に譲られたことがありました。しかし、よほどしっかりした理念と覚悟、方針の周知、そして経験がないと「状況は変わらないだろう」と私も思います。
というのは、候補者が信仰、悔い改め、バプテスマを受ける希望について聞かれて、みな「はい」と答えると、本当はまだ早すぎると思っていても拒めない境地に追い込まれて許可したことがありました。
スポーツのクラブに所属する高校生は、しかし、すぐに来なくなってしまいました。
実現性は現在乏しいものの面接権は地元の教会側が持つべきものと私は考えています。Helmutさんは別人。