「明日は雨が降るね。」
彼女がぽつりと呟いた時には、正直とても驚いた。
「どうして?」と僕は、内心の揺らぎを悟られないように聞き返す。
「なんとなく。だけどそんな感じがしたから。」と彼女は、いつもの子犬のような柔らかな微笑みにのせて答える。
それで僕は、ますます混乱してしまった。
その日の空は酷く埃っぽくて湿っぽくて、どう軽く見積もっても、明日は本格的に雨が降りそうだったからだ。
彼女の嘘つきは筋金入りだ。
いついかなる時でも嘘をつく。
昨日見た映画の話も、雨漏りのする洗面所の話も、大好きだったおばあちゃんの話も、彼女はまことしやかに嘘をつく。
それは、嘘かホントか、ほとんど区別がつかないような、絶妙な嘘だ。
誰もがその話に熱心に聴き入り、やがて騙された事を知る。
何故そんなにするりと嘘をつくのか、僕にはさっぱりわからない。
世の中、嘘をつく事は圧倒的に悪であるし、なにより、嘘を嘘だと気付いたときの、足元の揺らぐ感じはなんとも言えない悲しさを伴う。
だけども僕は、その嘘つきな彼女がたまらなく好きだ。
彼女が嘘をつく時に必ず見せる子犬のような微笑みを限りなく愛おしく感じている。
その子犬のような微笑みに、恋をしている。
それは突き詰めてみれば、彼女が嘘をつく事に恋をしている、という結論になるんだと思う。
そんな彼女が、いつも嘘をつく時に見せる子犬のような微笑みで、ホントの雨の話をしたのだ。
それはまさに、記念碑的な夜だった。
天と地がさかさまにひっくり返ったって、そんな夜は二度と来ないと思う。
少なくとも僕にとっては、それが生涯で最後の夜だった。
「あとね、カワハラくん、」
彼女は透き通るような小さな声で続けた。
「アタシ、この家を出ていこうと思うの。」
子犬のような微笑みは、いつのまにか消えていた。
真顔で僕を見つめる彼女の目は、なんだか寂しそうだった。
どうして子犬のように微笑んでくれないんだろう、と僕は思う。
どうして嘘をついてくれないんだろう、いつもみたいに。
次の日、雨が屋根を穿つ音で目を覚ますと、彼女の姿は消えていた。
代わりに、キッチンのクッキーの缶の下に、小さな走り書きのメモが残されていた。
几帳面な彼女の字で一言、「捜さないでください」。
その字は、微笑んでいる。
どう見ても子犬のように微笑んでいる。
財布と携帯電話をコートのポケットに詰め込むと、雨の街に走り出た。
外は、ひんやりと終末の匂いがした。
僕の、沈まない太陽の国の冒険は、こうして始まる。