靴下の穴に気付いたのは、今朝。
玄関先に座り込んで靴を履こうとした時だ。
右足の中指が、ストライプの生地の真ん中から顔を覗かせていた。
履き替えようかとほんのひと時逡巡したが、ノボルは結局、そのまま靴を履き紐を結んだ。
8時33分の急行電車に乗るためには、一秒でも早く家を出る必要があったからだ。
緑と白の履き慣れたスニーカーは、何事もなかったようにするりと足に収まった。
駅までの道程は、少し急な坂道になっている。
走る度に息は白く、まるで生きている証みたいに、立ち上っては溶けていく。
今夜帰ったら、押入から手袋を探さなきゃと、かじかんだ指先をポケットに避難させながら考える。
冬というのは、遠慮がちにやって来るのに堂々と居座る困った奴だ。
最寄り駅は、いつものように落ち着きがなかった。
朝、出勤や通学のために駅を利用する人々は、誰もがそわそわして浮足立っている。
我先にと周りを押しのけて満員電車に乗り込む準備体操でも始めそうな勢いで、電車の到着を待っている。
ノボルは、少し居住まいを正した。
満員電車というのは、どんなに乗っても慣れない。
だが、今日の8時33分の急行電車には、なにがなんでも乗らなければならない。
ただでさえ、自宅から大学までは1時間以上かかるのだ。
単位のかかった大事なテストに遅刻するわけにはいかなかった。
「失礼ですが、」
その駅係員が話しかけてきたのは、列車の到着を告げるアナウンスが流れた直後だった。
「あなたを乗せるわけにはいかないんです。」
彼は優しげな声でそう言った。
どういうことですか?と、当惑しながら聞き返す。
見れば彼は、濃い紺色の制服に白い手袋、床屋に行ったばかりみたいに綺麗に切り揃えられた髪の上に制帽を深く被った、どこか「完璧な駅係員」だった。
「決まりですので」
と、その完璧な駅係員は言う。
まるで、「今日はジョンレノンの命日です」と言っているのと同じような、完璧な断定だった。
大学で単位のかかった大事なテストがあるんです、遅刻するわけにはいかないんです、と隠しきれない動揺を含んだ声で説明をしていると、ホームに急行電車が滑り込んできた。
8時33分。時間きっかりだ。
綺麗な列を作って並んでいた客達が、一様に少し身構える。
だが、完璧な駅係員だけは、ノボルの前に立ちはだかり、身じろぎ一つしなかった。
もはや時間の猶予はない。
どうして僕はあの電車に乗っちゃいけないんですか?、とノボルは聞く。電車の走行音に掻き消されないように、精一杯の声で。
まるで自分の声が自分のものではなくなったみたいな感じがした。
完璧な駅係員は言う。
静かな、でもはっきりとした声が真っすぐに耳に投げ掛けられた。
「靴下に、穴があいているからですよ。」
・・・・・つづく
(物語は続きそうですが、冒頭だけ書きたかったので、特に今後の掲載はありません。)
玄関先に座り込んで靴を履こうとした時だ。
右足の中指が、ストライプの生地の真ん中から顔を覗かせていた。
履き替えようかとほんのひと時逡巡したが、ノボルは結局、そのまま靴を履き紐を結んだ。
8時33分の急行電車に乗るためには、一秒でも早く家を出る必要があったからだ。
緑と白の履き慣れたスニーカーは、何事もなかったようにするりと足に収まった。
駅までの道程は、少し急な坂道になっている。
走る度に息は白く、まるで生きている証みたいに、立ち上っては溶けていく。
今夜帰ったら、押入から手袋を探さなきゃと、かじかんだ指先をポケットに避難させながら考える。
冬というのは、遠慮がちにやって来るのに堂々と居座る困った奴だ。
最寄り駅は、いつものように落ち着きがなかった。
朝、出勤や通学のために駅を利用する人々は、誰もがそわそわして浮足立っている。
我先にと周りを押しのけて満員電車に乗り込む準備体操でも始めそうな勢いで、電車の到着を待っている。
ノボルは、少し居住まいを正した。
満員電車というのは、どんなに乗っても慣れない。
だが、今日の8時33分の急行電車には、なにがなんでも乗らなければならない。
ただでさえ、自宅から大学までは1時間以上かかるのだ。
単位のかかった大事なテストに遅刻するわけにはいかなかった。
「失礼ですが、」
その駅係員が話しかけてきたのは、列車の到着を告げるアナウンスが流れた直後だった。
「あなたを乗せるわけにはいかないんです。」
彼は優しげな声でそう言った。
どういうことですか?と、当惑しながら聞き返す。
見れば彼は、濃い紺色の制服に白い手袋、床屋に行ったばかりみたいに綺麗に切り揃えられた髪の上に制帽を深く被った、どこか「完璧な駅係員」だった。
「決まりですので」
と、その完璧な駅係員は言う。
まるで、「今日はジョンレノンの命日です」と言っているのと同じような、完璧な断定だった。
大学で単位のかかった大事なテストがあるんです、遅刻するわけにはいかないんです、と隠しきれない動揺を含んだ声で説明をしていると、ホームに急行電車が滑り込んできた。
8時33分。時間きっかりだ。
綺麗な列を作って並んでいた客達が、一様に少し身構える。
だが、完璧な駅係員だけは、ノボルの前に立ちはだかり、身じろぎ一つしなかった。
もはや時間の猶予はない。
どうして僕はあの電車に乗っちゃいけないんですか?、とノボルは聞く。電車の走行音に掻き消されないように、精一杯の声で。
まるで自分の声が自分のものではなくなったみたいな感じがした。
完璧な駅係員は言う。
静かな、でもはっきりとした声が真っすぐに耳に投げ掛けられた。
「靴下に、穴があいているからですよ。」
・・・・・つづく
(物語は続きそうですが、冒頭だけ書きたかったので、特に今後の掲載はありません。)