(22)2010.2.7(日高川)
この頃には珍しくマーカーを持ったまま止まっている。
「なにょう描いたらええんやわからん」
おばあちゃんはスケッチブックの上でマーカーを宙に浮かせたままだ。頭の中で目に見えるものを写し取るというデッサンの常識が働いているのだ。そんな時は決まって何を描いていいかわからんと言い出す。常識は本物の絵の邪魔をする。そんなことが母を通して見えてくる。
辛抱強く待ってみたが進まない。
「日高川描いてみようか、堰堤のアユのぼしでよう鮎が跳んどったな」
「そうよな、子どもらがようとんに行っとったの」 やっとおばあちゃんの手が紙の上に乗って線が生まれ始めた。
「ええなぁ、川でアユがおよいどるわ、ほらここ見てみ」
「ほになぁ」
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今思えば、あの時の母は絵を描こうとしていたのだろう。
自分の中で、絵を描くということが、自分にも出来ることだと思い始めた頃だったのかもしれない。
絵なんて描いたこともないし、描けると思いもしなかった母が、ようやく自分にも描けるんだと思えるようになった。描くというのはこれでいいんだと納得したのだと思う。
すると今度は、描く対象がなければ描けないと心が動く。
ごく自然に、そう思って手が止まるということだったのだろう。
進歩しているということだ。
すると次のステップが見えてくる。
何を描いていいか分からないと手が止まる。
そこから次のステップは、分からなくても手が動くということだ。
手が動いたらそこに絵が出来る
その絵は自分でも分からない未知との出会いになる。
嬉しいことに実際、母はここから
次のステップに登ることになる。
在りし日の母
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