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のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

高島野十郎のローソク

2016-04-05 | 私の絵画論

(ノートに挿まれていた切抜き記事を発見)

 

何気なく古いノートを開いたら、新聞の切り抜きが出てきた。無論私の仕業だが、初めて見るような新鮮さで、ローソクの絵に引きつけられた。

平成20年の日付だから、7年前に感銘を受けて切り抜いたのだろうが、全く思い出さない。

記事を読んでいくうちに、得心する。高島野十郎、こんな画家がいたのかとあらためて思い、これを残したいという気持ちに、今この瞬間にも灯がついたからだ。

きっと7年前にもそう思って切り抜いたに違いない。

しかしノートに挿みこんだら、思いは遂げられて忘れ去ったのだろう。

我ながら、ひょんなところから自分発掘を体験した。

ところが去年の第2回のしてんてん絵画奉賛会で展示した作品を思い出した。

 もしや、このローソク、高橋野十郎からきていたのではと自分を疑い始めた。

とらえ方がよく似ている。本人は忘れていたつもりでも、意識の奥のほうで、共感した思いが自然に模倣したのかもしれない。

この作品のきっかけは、救いの手を差し出す阿弥陀様を表現したいと思ったからだったし、そこから真っ先にイメージしたのが、信貴山の戒壇巡りの体験だった。手探りで真っ暗な地下道を歩いて行くと、小さなローソクに照らされた仏様がほのかに浮かぶ。その時、光はなんてありがたいことかと思ったのだが、その経験がローソクを発想させたのは確かだ。

しかしその描き方は野十郎に近い。二つを見比べて似ていると、新鮮な驚きを覚えるのは、この作品を描いているとき、高橋野十郎の絵は意識の中になかった証拠だと思うのだが・・・・

我が心のミステリーである。

それにしても大概、自分の心に触れてくる事柄は記憶に残るものだが、私の「何故?」が動き出す。

若いころは、「何故?」が動き出すと、説明するのに躍起になっていた。そしてたいてい、説明出来たと思った事柄は薄っぺらで、偽物だった。


今は、そんな自分を面白がって見ている自分もいる。

自分を受け入れる。

すると、ドジな自分が、喜劇ドラマの主人公に見えてくる。ドラマ好きの私には、面白くてたまらない人生だ。

知らんけど。


野十郎の作品をネット検索するとこんなにあります 興味とお時間のある方は跳んでみてください。明治・大正の匂いがします。もう忘れないでおこうと、反省しながら紹介します。



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