生まれる五次元宇宙
もっとも大きな世界シリーズの最後に、五次元のとらえかたを紹介します。
その前に、よく受ける質問に対して、私の考えをすこしだけ 書いておきたいと思います。
それは、「これは のしてんてん教?宗教なのか?」という質問なのですが、私自身の立ち位置を知って頂くために書いておきたいと思います。
はっきり言って、私には分かりません。
もし宗教だというのなら、それは同調していただいたあなたが教祖となる宗教です。
そして科学というのなら、出来損ない(学問体系に無知)の心の科学でしょう。
もっとも私の思いに近いのは、芸術ということです。
芸術=生き方(人間はいかにしてしあわせになれるかの追求)として、私の100%を使い切って実践しようとしている総合的な表現です。
いいとこどりをした宗教と科学の融合が必要なのですね。
さて、五次元の世界観はすでに述べましたが、以下の図のように、四次元の世界をはるかにしのぐ大きな世界を認識することが出来ました。
この図は、一つの楕円が一つの三次元宇宙を表していて、そこに時間とスケールの概念が想定する三次元の世界を横に広げて最大の世界を描いたものです。
この図に時間とスケールの作る座標を描きこんでみたのが次の図です。
横軸(Y)に時間、
縦軸(X)にスケール をあてはめた座標ですね。
中央の赤い丸、座標の原点ですが、ここに生身の「私」がいます。この生身の自分を知るのは意識の働きですが、その意識がスケールの概念によってその外にまで世界をひろげ、黄色い最大の世界を認識するのです。
私たちの正体がこの意識だと考えれば、「私」とはまさにこのもっとも大きな世界の広がりを持っているということができる訳です。
では、この身体を限りにして認識する赤い「私」と、大宇宙(黄色)を「私」とする、二つの「私」に共通するものはあるのでしょうか。それが本当に一つの私と言える根拠はあるのか。
それこそが、空間なのですね。
図を見てください。この身を示す境界線は便宜上付けたもので、実際には私たちの身体を構成している素粒子が浮かぶ空間と、「私」を包む空間に境界はありませんね。どう考えても空間を隔てる物質を考えることは出来ないのです。
この身の内側も、地球を包む宇宙空間も、たった一つの空間なのですね。
そしてその空間はエネルギーの場所、光が走り意識が発生する。つまり意識とは光と同じエネルギーの一形態に過ぎないのです。スケールが変われば、神ひとのスケールから見れば私たちがみている光は意識そのものとなるでしょう。
つまり、私たちが眺める最大の宇宙もまた「私」と言いうる根拠が、この空間にあるわけです。
図の赤い部分も黄色の世界も、空間が私の身体だと考えれば、それは一つの「私」だと言えるのです。
そしてスケールの存在を示すものが、ゼノンの逆説と言われているものです。
現在数学の世界で解決できない無限の現れるゼノンの逆説とは、何も大騒ぎすることもない、ただ単純に空間の性質を言い表したものと私は考えるのです。
空間は無限に分割出来るものです。なぜなら空間には特定の大きさなどないのですから当然ですよね。
そしてここに、極大・極小の世界を受け入れる最大の根拠があるわけです。
つまりスケールの概念は空間を見た概念であり。空間が己の身体だと思える思考を生みだします。
他方時間の概念は、物質を見た概念であるということが出来るのです。つまり私たちの常識である身体は物質という考えの根拠ですね。
そこで今回の主題である五次元のとらえ方なのですが。
五次元思考というのは、スケールだけで人生を考えるとか、時間だけで自分をみるというのではありません。
私たちは時間に生きるスケールの存在だということです。
両方を上手に使いこなすことが五次元の思考であるべきなのですね。
時間の中で生きることを否定してはなりません。スケールの認識を是として一人山に籠って仙人になったところで意味はありません。
スケールの己を知り揺るがない「私」をつかまえて、時間を生きる。これこそが必要なことだと私は思います。
そこに私たちが新人類に進化する足がかりがあると考えるのです。
繰り返しますが、図でも分かるように、スケールの軸(X軸)に沿って己を見つめているとき、時間は今このときにある己の実在から動きません。瞑想している姿と言ったらいいでしょうか。
しかしそれだけで人が生きていけるとは思えません。
己を生かしながら時間の中に入って、明日に向かう人生がある。これが人間の本当の姿だと思えるのです。
これこそが五次元の人類の姿だと云っていいのではないかと思うのです。
四次元の意識から五次元の意識に気付くことは難しいかもしれません。
しかし、
四次元の喜びは歓喜
五次元の喜びは至福
歓喜と至福の本当の意味を理解するとき、人は自然に五次元を受け入れるようになる。
私はそう確信するのです。
雑談に来ました。
これは宗教か?という質問をよく受ける、のくだりに笑ってしました。
私もそう感じ、質問をした1人です。
その答え『(宗教と感じ)この考えに同調したとすれば、これはあなたが教祖の宗教です』に、思わず『うまい!』と呟きました。
『うまい!』が果たして褒め言葉なのか、聞きようによると失礼ではないかとも思いましたが。
『うまい!』がぴったりくるような気がいたしました。
五次元に限らず、何かを信じるということは。
主体は、自分。下駄をあずけてラクするな。
それを端的に表した言葉だと思いました👏。
私的なバタバタも一段落した今日この頃。
パソコンもワープロも届きました。
パソコンは、ワープロソフト『Word』をインストールしなくては、はっきり言って使い物になりませんが(今のところ息子が、元々ハードに入っている落ちゲーで遊ぶくらいのオモチャですね)、来年から楽しみです。
お亡くなりのrupoさんで書いていた短編も、無事に推敲・手直し出来ました。
なんとなく、ここしばらくのぐるぐるの果て、方向性というか着地点というか、そんなものが私の中でうっすらと見えた作品になりました。
今年は架空の王国の話で明け、結局年末まで関わっていました。
短編は幾つか書きましたけど、長編は例のお話とその関連でうだうだしていましたね~(笑)。
「こんな退屈な話、読めるかっ」
とマスターに呆れられた(いやまあ、そこまで直接的な表現ではモチロン無かったですけど、そういうことですよね)『レクライエーンの申し子』を手直ししたものと、護衛官の一人称で書いた短編を大幅に手直しした『護衛官マイノール・タイスンの誓い』を、今年度投稿しました。
私の限界まで頑張って書きましたけど、後は…どーなとちゃーなるたい(??)。
今後も精進致します。
まさに般若心経の神髄☆
色不異空 空不異色
色即是空 空即是色
肉体は空を離れては無い
空は肉体を離れては無い
肉体はそのまま空であり
空ははそのまま肉体である (無文老師)
「ミミズ竜
地球を支えて
無我夢中
全身全霊
宇宙に捧げて」
ガーテーガーテーパーラーガーテー
パラサンカガーテーボーディスヴァハー
(サンスクリット語発音)
ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー
ハラソーギャーテーボージーソワカ
(日本語発音)
宇宙の龍気も
般若心経最後の聖なる呪文のように
余すことなく徹頭徹尾
尾てい骨へと流れ行きうねり起き
至福の円相宇宙龍となるのではしょうね☆
今日も身体内外渦巻きうねる貴重な記事を
ありがとうございます!
感謝一念
まかこ 排
間違ったものもそのまま
自分の歴史と思って置いております^よ^
論理的な正確性など気にしないとおっしゃいますが、それはそうなのですが、
スマホ初日とは言えあまりの間違い、
サンスクリット語発音の
パラサンガーテーが
パラサンカガーテーに、
至福の龍尾(龍美)円相宇宙龍が
至福の円相宇宙龍に、
そしてまさかの間違い、
まかこ 拝が、まかこ 排に
失礼いたしました。お許しを
おっちょこちょい
治りません^ね^;;
よかったですね。
結局物語も絵もそうなんだと思うのですが、自分の手から離れた瞬間から、その作品に投入した思いや努力、願いや期待というものは作品から滑り落ちてしまう。
ただのもの(作品)となってしまうのでしょうね。
我々作家として必要な能力は、己の作品を、ただのもの(他人の作品)として鑑賞する力ではないのかと、つくづく思いましたよ。
龍の絵に対するむっちゃんのダメだしの時にも思いましたが、作品を創った意識の目で出来上がった作品を見てもその難に気付かないと、あらためて考えさせられたものです。
意識を持って描き、無になって観る。
これが私の今年の気付きでした。
互いにがんばりましょう。
褒めるとか、失礼とかでなく、「うまい!」という言葉、いただきました。
教えではなく実践。
それが芸術というものでしょう^ね^
新しいスマホに慣れようと格闘しておられるのに、不謹慎極まりないと反省しても後の祭り。
自分のことのように重なってしまいまして、申し訳ございませんでした。
どいう訳か、昔からおっちょこちょいが好きなもので、また機会がありましたら私のオッチョコエピソード聞いてください^ね^
それにいたしましても、五次元の世界観が無文老師の言葉と、こんなに重なっているなんてびっくりです。
勇気を頂きました。
ありがとうございます。
己の前と後ろの一点を
見つめて行くやミミズ龍
硬き土を動かす
(のしてんてん)
私がいつもすっころぶ部分です。
ヘボのヘボたる最大の理由と自覚はしておりますが、中々矯められない悪癖です。
要するに、自己満足の域でぬくぬくしていて伸びない、というところでしょうか?
世にいう『才能のある人』は自己満足の域であってもクオリティが高く、まあその後精進するか否かで創作者としての真価は変わってくるものの、才能のない私からすると『基礎体力があるっていいな』と思うのが正直なところです(笑)。
だけどこれが不思議なことに、『うらやましい、変わってくれ!』とは若い頃から思ったことが無いのです、何故でしょうねえ?
うらやましい程才能ある人(別に創作関係だけでなく)にジリジリしたことが全く無いとは言いませんが、彼ないし彼女に成り代わりたい、と切望したことは無いですね~。
私は、私をやってたい。
他の誰でもなく、私をやってたい。
おめでたい、と思います。
ヘボでしょうに嬉々として『私』という作品を創っている、自己満の作家みたいなものでしょうが。
でもこの点に関しては、まあそれでもいいか、と思います☺。
お話書きは、それではちょっと……もっと良いものが書きたい、自己満だけでは最終的に私が楽しくない。
結局『私』かい!(笑)。
自分ツッコミを入れてみました。
おじゃましました、お茶飲んで帰ります。
「自己満だけでは最終的に私が楽しくない」です。
「私が楽しくない」作品はやっぱり面白くない。
これは私について行っているのですが、人から評価されることはうれしいことですが、それが「私が楽しい」とはまったく無関係なのですね。
「楽しい」と「評価される」とはあるところまでは連動しますがまったく違う道なのです。
だから私が言えることは、「評価」に惑わされずひたすら「楽しい」を目指す。これが真の才能だと思います。
もちろん「評価」を目指すのも才能ですが、
しかしむっちゃん、
「嬉々として『私』という作品を創」り続けている事こそ才能だと私は確信しています。大きく言えばゴッホがそうでしょう。
評価は時代によって変わる煙のようなもの。創って楽しい。読んで楽しい。その楽しさの基準を、煙のような評価に求めないで、しっかり「私」をつかまえることです。
どんなふうに楽しませるかは技術ですから、勉強しなければならないけれど、その芯になる「私」を信じること。
それがむっちゃんさんの文脈からしっかり伝わってきます^ね^
自分を楽しむから、自分を楽しませるにちょっと目線を変えてみたら見える風景も変わって来ますよ。
・本文の構成として、”譲歩”から始まる書き出しにものすごくいいと想いました!(個人的嗜好がかなりありますが汗) 内容はそれこそ感覚や概念を広げていく話なので…すこしずつ読んでいくモチベーションとして最初のこの流れはいいなぁ、自分も取り入れたいと思うものでした。
宗教か?…そもそも宗教とは…となると長くなるので〆(笑)
・コメント欄の芸術についての談で…私としてはマンガの言葉ではありますがこの言葉に賛同しています。
「まず自分が楽しいこと。そしてお客様も喜んでいただければ尚よし。」
とてもプロ(仕事)をできない、アマチュアの言葉ではありますが…。
ここから長文失礼します。
むっちゃん様の”小説を書く”というのは本当に難しい世界での挑戦だと想います。…高校のころ小説を書き続けている人がいて、その人に感想や推敲をお願いされた事がありました+他人が書くとどうなるのか書いてほしいと言われ書いたこともありました…。
「プロの小説家の言葉の選び、話の流れ、単語の文字数から生まれるテンポ…小説家が職になる理由をまざまざと体感しました」
※もうひどいものを作りました…1ページすら読むに耐えない物を私は…。
ただ、これも絶対に言えると想います。
「好きでなければそもそも経験を積むほど書けない。そして本当に真摯に取り組んでいる人でなければ”他人のコメントから学び、改善しよう”と言う意思も生まれない。…気に食わないコメントは無視するか喧嘩するかブロックするか…となりますから…。」
…むっちゃん様がのしてんてん様のかつてのコメントを覚えており、より良いものを作ろうとしている事に私一人勝手ながら”素晴らしい”と思っています。
あらためて長文失礼いました…。今後も学びも含め、勝手ながら楽しみに読ませていただきます!
評価された事のない私が言うのは、百年早いですが。
『評価』と『楽しい』が別物、というのはなんとなくわかります。
仮に何かが評価されても、それの二番煎じ、三番煎じみたいなものばかり創れと期待されたら、ヤんなっちゃうだろうなと思います。
楽しくなさそうだ~。
しかし、自分を楽しむのでなく自分を楽しませる、は、まだまだ修行が足りません、その境地はまだ遠そうです。
折師さま。
な、なんだか褒められ過ぎ。
真摯なのは、私より折師さまだといつも感じておりますよ。
マスターは私の高校時代からの恩師で、気を遣いつつもズバッと指摘すべきところは指摘して下さるので、あてにして甘えているのが実状です。
なんせ自己満なのか否か、まだまだ自分では見えずらいもので……。
マスターの手を煩わせず無心で作品を見る目、養いたいです。
先のコメントの漫画、ひょっとしたら佐々木倫子の『Heaven?』にある黒須仮名子のセリフでしょうか?
なんとなく、そんな気がいたしましたので。
だからと言ってどうと言うこともないのですが(笑)。