(19)2010.1.11(名前が書けた)
大腿骨の骨折から、母の足は随分弱くなった。手術は成功したけれど、膝が曲がって車椅子なしではどこにも行けない。
母のお絵かきは、そんな身体のリハビリにはならないが、塞ぎがちな心を開いて、若返らせる効果がある。母の絵を見ていてそう思うことが多い。
思考力が鈍って絵のイメージを持ち続けられないから、いつもまっさらな気持ちで描ける。身体が自由に動かないから、いつもイメージが先に出てくる。そのイメージを受け入れて線を引いたら、自然に絵が生まれる。新鮮な感覚がそこにある。
この1年ほどで手の動きは、もう一人前の絵描きだ。
「今日の絵はすばらしいよおばあちゃん」
「そうかの」その声が喜びで満たされているのが分かる。
「名前書いておこか」
「こうかの」
今日、びっくりするほどいいサインが書けた。頭がすっきりしているのだ。嬉しい一日だった。
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ベッドの上にいると、少しづつ体の弱って行くのが分かる。その身体の状態が突然大きな骨折などで、階段を落ちるように不自由になる。
その落ちた階段からもう一度登るのは、本人にとって大変な労力となるのだ。
療法士さんの介助を受けながらリハビリを続ける母の心に、希望の見えない日が多くなる。
心の片隅にそんなことを感じながら、私はせいぜい曲がった足をさすってやることぐらいしかできない。
けれど不思議なことに、目を閉じて瞑想すると、心の行くところはどこまでも自由なのだ。もちろんこれは私自身の体験だが、
絵を描く母を見ていて、私は確かにこの母の心も私と同じなのだと強く確信する。確信を通り越して一体と感じなくもないのだ。
他人の心に入っていくことなど出来ない。それは分かっていながら、なぜか今、母がオレンジのクレヨンを動かしている心が私の心のように思えるのだ。
今、母は自分の不自由な身体を忘れている。
それはつまり、身体という自我を見ないで、オレンジ色の線の流れだけに身を託している。色の世界と線の動きそのものになり切っているのだ。
そんな瞬間に私は立ち会っている。
ただ在るがままにある。
目的や要求など、およそ人として持っている(能動態・受動態)という心の壁が完璧に消えて、今ある自分になり切っている(中動態)を生きる。それは風が吹くのと同じ状態なのだ。
母の風がやってくる。
私はその風に吹かれるだけでいい。だから母の心の中に入れたのだろう。
母の風が私の心にも吹くのだ。
ある意味、これは妄想なのかも知れない。
けれど、人である以上この妄想を大切にしたいのだ。人とつながる契機として自我を抜けた瞬間に結び付くエネルギーがあるのだと。
この日母は絵を描きながら復調した。
最後に書いた自分の名前は、絵の中にきれいに治まっている。全体が見えるバランスの意識が健在なのだ。
オレンジ色の火種
小さなパチパチ音がとなりのワラの束に燃え移る
燃やしたワラの煙が風でこちらになびく
鼻に流煙の刺激
目に煙が入り涙で潤む
絵の中にたたずむ中動態。
そこに、ごくごく自然に溶け込んだハナ子の名。
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こんな光景が浮かびました。
この詩を読んで真っ先に浮かんだイメージはマッチの擦ったときの香り。
そして畑焼きの風景。
思い出しますね。共通の経験があるのかもしれません^ね^
火吹き竹の先で燃え上がる炎が
けむりから生き返る。
袖口で涙を拭きながら、ちょっと満足
秋の風 なんてね。