店には先客が一人あって、ひそりと背中を丸め手酌をしながら思いに耽っているように見え、中年の苦さが感じられた。
その男から二席ほどおいて横に座った私は、肴を待ち切れずに出された酒を飲んだ。酒は冷えた体にしみわたるように広がっていき、一日の出来事が自然に思いこされるのだった。
十時ごろには里依子に電話をしなければならない。帰っているだろうか。もしいなかったら伝言を頼まなければならない。その時は . . . 本文を読む
やっとのことで道にたどり着いた。私はその硬い土の上がなんだかまだ揺れているように感じられた。歩めば応えてくれる黒い土が何より有り難いと思うのだった。
そしていま自分がやってきた雪原を振り返ってみた。整然と静まり返った雪肌の上に一条の乱れた体の跡が続いているのを見たとき、私は満足に似た気持ちと照れくさいような気持の混ざり合った、奇妙な感情を覚えた。
キャンバスにひいた一条の線のように、 . . . 本文を読む
こうした失敗を繰り返すうちに、どうやらこの辺りの道はこの農場から先には行けないのかも知れないと思い始めた。ポプラ並木からやって来て、かまぼこ屋根をした小さな建物が並ぶこの農場をめぐる道は袋小路になっているのだ。主屋のある通りに行くためにはどうやら引き返すしかないらしい。
はるか向こうに主屋がその裏側を見せていた。そしてそこに続く地平はここから一面の降り積もった雪の原であった。
雪原を見渡し . . . 本文を読む
私は雪に埋もれた堆肥の山の頂上で身動きが出来なくなり、情けない恰好でオロオロと考えあぐねていた。
やがて窮して私は前方の道のない雪の上に飛び降りるしかないと思われた。しかしその雪の下には何があるか分からない。肥溜めでもあれば私は最悪の状態に陥るだろう。足場の定まらない腐った豆腐のような頂に立たされて、見まわす周囲の白い雪の無表情な静まりが、そのどこに足を踏み入れても私をさらに窮地に陥れる罠 . . . 本文を読む
私はそこからまだ西に続く道をあきらめ、北の方角に交差する道に進んだ。するとその先に車が一台止まっていた。室内灯がついてかすかなエンジン音が聞こえていた。今頃こんなところでといぶかる思いよりも、私自身が闖入者であるという気持ちが先に立って素早くその横をすり抜けた。
ところどころに小さな建物が建っており、どうやらここは農場だと思われた。そのような建物横手に巻きながら進んでいくと道はさらに細くな . . . 本文を読む
大学のキャンパスとは思えない長く細い道だったが、やがてその道を横切る道に出会った。一人が歩けば一杯の黒い道が私の左右に通り、この交差点をさらに先に進めば、背の高い木立が一群の影を作っていた。
私はそれを見て、咄嗟にポプラ並木に違いないと思った。するともうどうしてもそこまで行かなければならないと思うのだ。
「関係者以外の者の立ち入りを禁ずる」という立て札が道の前に立てられていたが、私は構わ . . . 本文を読む
主屋に続く広い通りは左手に大きな木が巨人の世界を思わせるスペースで並木を作っており、右手には色調豊かな淡い色合いの木造建築が並んでいて夜の雪によく合っていた。
大時計を間近に見上げ、やがて右に折れ、左手に主屋をかわしながら雪の残ったほとんど人の歩いていない白い地面に足を踏み込んでいった。当り前の所を歩いても面白くない。その時そう思ったのだ。
主屋の側面が尽きるころ、雪の地面が一段低くなって . . . 本文を読む
夕刻に見る北大はとても大きなもののように思われた。常識にあるスケールを超えた空間が雪にまみれて静まっている。門をはいるとそんな光景が私を驚かせた。
大きな常緑樹が、心をはみ出すような広い空間を取って何本も立ち並んでいる様は、童話に出てくるような大男の世界を連想させて、そこからすでに私の感覚はずれ始めていたらしい。
あるいは大きな建物が実に贅沢な敷地の上に建ち並び、それが私の心の間合いを引き . . . 本文を読む
ノートの中の二人のやり取りがそんな風に続くうちに、男の方が女性の気持ちを受けて示すいたわりの気持ちが、相変わらずの文面の中に表れはじめた。そして女性の方も、男の放埓さの中にある確かなものを感じたのだろう。彼の明朗闊達な文面にすがるような様相を見せはじめ、その度に彼女の文章は明るくなっていった。
二人のやり取りが、他の学生の雑文の合間にうずもれるようになりながら細々と続けられた。やがて、
「 . . . 本文を読む
その女性からのメッセージは、思いあぐねたもののように、途中で書き込みをやめ、その書いた数行の文字をあたふたと横殴りの線で消されていた。しかしその消された文面は、線の下から十分読み取れるのだった。
男はそれを読み、彼女の完結しない、しかも結局は消された自分への批判を取り上げ、反論を書き込んでいる。
「無名の、私への批判者よ」
彼はそう呼びかけ、一層誇らかに自分の考えを示し、息まく長文でそれ . . . 本文を読む