心配が不安になる。そして私を苦しめ始める。これはいったい何だろう。はたしてそれは現実なのか幻か。
不安の目が改札口に里依子の姿を認めたとき、重苦しい気分は一瞬に消えた。始めからそんなものはなかったかのように、私は微笑み手を揚げて里依子に合図を送った。里依子もそれに応え、やがて私たちは間近で互いを見やり、里依子は遅れたことを詫びた。私も今来たばかりだと笑って応えた。
里依子は濃紺のコートを . . . 本文を読む
焦って小走りになりながら札幌駅に着いた。駅の時計は約束の時間を10分ほど過ぎていた。あわてて辺りを見回したが里依子はまだ来ていなかった。
列車の都合で遅れているのだろう。ホッとして心にゆとりが出来ると急に絵を描きたくなった。私はスケッチブックを開いて駅舎に行きかう人々の姿を描きはじめた。そして里依子がやってくるだろう改札口の方をちらちら眺めやるのだった。
日曜日の駅の構内は若者たちの姿で . . . 本文を読む
浅い眠りから目を覚ました。夢を見たようだった。なにやら奇妙な感じだけが残っていて、どんな夢であったのか思い返して見てもついに思い出すことはできなかった。
まだ早い時間で眠ろうとしたが、想いがさまざまに働いてどうすることもできずやがて諦めて起きだした。
里依子との約束の時間まで特にすることもなかったので、私はホテルを少し早めに出て、昨夜の北大をせめて主屋だけでも明るい日の中で見ておこうと考 . . . 本文を読む
夜の北大は、広大な敷地のほんの一部をまるで虫眼鏡で見るようにして体験したのでしたが、北大のキャンバスが無防備であっただけに結局私の愚かしさをさらけ出すような結果に終わったのでした。
しかしそれも良しとしましょう。
良しとすれば、後に続く居酒屋や里依子の会話が私を祝福してくれるのだと思うのです。
次回、忍路(その8)は里依子と二人で道立近代美術館を巡ります。
引き続きお楽しみください。
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私たちは明日、十時半に札幌駅で待ち合わせ、美術館に行き時間があれば映画でもと約束した。
あまり動きまわって疲れてもいけないから、そんな風に決めましょうと言うと、年寄りみたいに言わないでくださいと、笑いながら里依子は私をたしなめ、それからじゃあそうしましょうと応えた。
二人の会話には陰りのないしなやかさと明朗さがあって、私の心は幸福に満ちていた。
おやすみを言って電話を切った後も、私は里 . . . 本文を読む
朝、里依子は私と別れてから、伊藤整の『若い詩人の肖像』を買って読んでいるんですと話した。
列車の中で夢中になって読んで、もう彼が教師になる所まで読みましたと言ったとき、私は激しい喜びを感じた。それは純粋な喜びの伴う驚きだと言ってもいいだろう。私は知らぬ間にベットから起き上がって、受話器にしがみついていた。
今日歩いて見たすべての風景を里依子に伝えたい衝動に駆られ、私は小樽や蘭島、そして忍路 . . . 本文を読む
ホテルに帰ると10時を過ぎていた。幾分迷いながら里依子の寮に電話を入れた。もしも帰っていなかったらどうしよう、今だ心に決めかねていたために、私は祈るような気持で受話器から響く呼び出し音を聞いていた。
里依子はいた。電話に出た女性の声に彼女の名を告げると、その女性は大きな声で里依子の名を呼んだ。そして里依子の声が受話器から聞こえてきた。
彼女は寮に8時頃に帰ってきたということだった。
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ひとしきり小樽の話が続き、男は今夜すぐ隣の『えびすや』に泊まっているのだと言った。
もしや、札幌駅の案内で親切な係員にここを教えられたのではと訊くと、男は驚いたようにそうだと言って頷いた。
実は私もなんですと言えば大げさにのけどって笑った。私達はその係員の特徴を語り合い、どうやら同じ人だということで頷きあった。
すると板前がカウンター越しに声をかけてきた。
「みなさん『えびすや』に泊ま . . . 本文を読む
里依子の口から小樽という言葉を聞いた瞬間、私の中でそれは伊藤整と激しくつながった。私は里依子にその話をした。そして明日、彼女と一緒に小樽まで行きたいと申し出た。里依子が親戚の家に行っている間私は伊藤整の小説の舞台を訪ねてみたいと思ったのだ。
それはいわば、かかわりない二つの偶然が私の小樽散策を必然たらしめたのであった。これは人のつながりのありふれた形なのだろうか。
思えば昨年の夏、私が初 . . . 本文を読む
偶然と言えば、つい2か月ほど前、大学の友人と酒を飲んで酔い潰れ、彼の寮に泊まった時に与えられたのが伊藤整の「若い詩人の肖像」であった。
そして数日前、しばらく里依子からの手紙がないことに不安を抱き、どうしても彼女に会いたくなって千歳までの航空券を買ったのだ。里依子に黙っていて、一瞬でも彼女に会う機会があればそれでいいと思っていた。そのことを千歳の居酒屋で打ち明けると、悪趣味だと里依子は笑っ . . . 本文を読む