1章
それが遥かな未来のことだとしてもいつかは確実に訪れる緩やかな終焉に向かって一歩ずつ近づいて行くこの惑星(ほし)の宿命(さだめ)を暗示するかのような殺人的な猛暑が続いていた。
じりじりと皮膚を焦がす強い日射しと蒸せかえる熱気、そして頭の中でうわんうわんと反響する蝉時雨。
全身の細胞という細胞が渇きを訴えて悲鳴を上げていることに気づく余裕すら失っていた。
喉が渇いたと思う前に水分補給をしなくては、という知識はあったが、それを思い出すより前にもう脳が麻痺していたのだろう。
目の前が真っ白になり、意識が遠のく。
静佳は自分がまだ立っているのかどうかすらわからなかった。
吐き気と頭痛と目眩で酷く気分が悪くて、あれほど煩かった蝉の声も遠くなっていく。
もしかしたら自分は今死ぬのかも知れない、と静佳は思った。
死ぬ直前には自分の人生が走馬灯のように脳裏によぎるのだとか、臨死体験者は美しい花園を見たのだとか言うけれど、そのどちらでもない。
やはりあれは作り話なんだな、と静佳はどこか冷静に考えている自分が不思議な気がしたのを最後に気を失った。
まるで無重力の宇宙空間を漂うように 自分の体がゆっくりと深い深い淵の底に向かって引き込まれ落ちていくような感覚があった。
どこまで落ちたら底に到達できるのかわからないが、底には万華鏡(カレイドスコープ)のような色とりどりの光が揺れている。
見ようによっては花畑のように見えなくもない。
だとしたらここは彼岸、あの世の入口なのかも知れない。そしてやはり自分は死んだのだと静佳は思った。
落下が止まっても体は浮いたまま、両足で踏みしめて立つ地面はない。
足下の空間では色とりどりの光のモザイクが常に動いていて様々な模様を描き続けている。
[くすくす…くすくす…。]
どこかから笑い声のようなものが聞こえた。正確に言うなら耳に感じる音としてではなく、脳内に直接伝えられているテレパシーのようなものではあったが。
[久しぶりにお客が来たみたいだ。退屈しのぎにはちょうどいい…。]
誰かの思考が脳内に割り込んでくる。
「誰?ここはどこなの?私は死んだの?」
静佳の問いに対する答えはなかった。
見えない波に押し流されるように体が極彩色の光の回廊に沿って運ばれて行く。
これは夢なのか。判然としないまま流れに身を任せた。
もうどうにでもなれ、と半ば自棄になって静佳は開き直った。
時として何らかの原因で時空の歪みが生じた時に生まれる特異点に吸い込まれて時空の狭間に閉じ込められる者がいる。
時空の狭間に落ちるとこの3次元世界からは姿が消えてしまうが故に、古来からそんな行方不明者を「神隠し」と呼んできた。
時空の狭間に落ちた者の行き着く場所は深淵(アビス)。そこでは時間(とき)は流れずに積み重なり、やがて積み重なった時間が自身の重みで潰れて消えていく場所。
深淵とは3次元世界では一方向にしか進まない時間さえも単に一つの次元(ディメンション)でしかない高次元世界との接点であった。
時間が川の流れのように遡ることの出来ない3次元とは違い、過去や未来のどの時点へもつながることのできる高次元の世界では過去へ行くのは谷を下るようなものであり、未来へ行くのは山を登るようなもの。
3次元から来た者は深淵で自分の過去の空間へと繋がる迷宮の回廊を彷徨うが、過去の自分に知らせてやり直したいと願ったとしても過去に干渉することは容易ではない。
例えるなら透明な分厚いアクリル板の窓の向こう側に居る過去の自分を見ることはできるが、その窓を開けることも破ることも通り抜けることもできず、向こう側の自分からは見えないし、こちらから呼びかける声も過去の自分には届かない。
今の自分にならわかるのにその時はわからなかったことを過去の自分に伝えられたら、と願ったとしてもそれは決して叶わない。3次元世界から来た者は深淵にあってもやはり3次元でしかなく、過去は変えられない。
しかし静佳はまだ何も知らない。
迷宮の回廊をただ流されるままに運ばれて行った。
2章
「しず?…白林さん?」
静佳が振り向くと声の主は驚きやら懐かしさやらいろんな感情がごちゃ混ぜになったのか笑顔になり損ねたような複雑な表情でじっと静佳を見つめていた。
ハンチング帽を被り、リュック型のお洒落な鞄を提げた男性の顔をじっと見るうち、詰襟の学生服を着たニキビ面の少年の姿が重なる。
「水本君?」
にっこり笑って頷くと中学生の頃のままの笑顔になった。
静佳もまた彼の目にはセーラー服を着たおさげ髪の少女が重なって見えているに違いない。
「女子はみんな化粧して綺麗になってるからすぐには誰だかわかりにくいね。でもあなただけはすぐわかったよ。白林さんは全然変わってないもの。」
静佳は今も昔と同じく地味な印象のままなのでそれはあながち嘘ではない。
「あなたも笑った顔は昔と同じだわ。」
静佳がそう言うと水本は苦笑混じりに答えた。
「嘘、嘘。髪も寂しくなって来たし腹も出て来たしもうすっかりおっさんだよ。」
静佳は、出身中学の創立百周年記念にと企画された同窓会の会場で、卒業以来初めて、文芸部で一緒だった水本に再会したのだった。
元来賑やかな席の苦手な静佳は普段なら参加することはないのだが、来賓として参加する予定の恩師には在学中ひとかたならぬお世話になったので、どうしても恩師には一目会いたくなり、意を決して出席を決めたものの、友達の少ない静佳には会場で話す相手も見つからず、ぽつんと一人でいたところへ同じ文芸部の水本が現れて、内心少しほっとした。
同じ文芸部員というだけでクラスも別々だったし、中学時代もそれほど親しかった訳ではないが、思春期の当時でさえあまり異性という意識をせずに話せた数少ない男子の一人であった水本には、今もって男性免疫のほとんどない静佳でも、警戒したり意識したりすることなく再会してすぐに打ち解けることができた。
かつての文芸部での思い出話に始まり、互いの身の上話や共通の友人である同級生の近況などで話は盛り上がり、連絡先を交換して再会を約した。
「そう言えば、白林さんから借りっぱなしになってる本があったっけ。覚えてる?」
唐突に水本が言った。
「覚えてたの?てっきり忘れてしまったか、もう失くしてしまったのかと思ってた。」
静佳はその本のことは覚えていたが、もう再び手元に返ってくることはないだろうと思っていた。
「覚えてるよ。今度会えたら返そうって思ってたけど、機会がなくてそのままになってしまったから気になってたんだ。失くしてなんかいない。今でも大切に持ってるよ。」
「ありがとう。もうとっくに諦めてた。」
「今度会う時には必ず持って来るから。長いことごめんな。」
確かに静佳は卒業前に水本に一冊の文庫本を貸したが、いつ返すとも約束しないまま別の高校へ進学したり、その後彼自身も実家も引っ越したりで連絡先もわからず、うやむやになっていた。
水本は当時から真面目ではあったが、今までその本をきちんと保管していたのはさすがに意外だった。
その同窓会の後、また今度と言いながらなかなか機会がなく、やっと予定が決まっても急用でキャンセルになったりもして延び延びになっていたのだが、やっと今日こそ会えることになったのに、待ち合わせの時間近くになって水本から「仕事が長引いて少し遅れる」と連絡が来て静佳は待ち合わせ場所でじっと彼を待っていた。
毎日のように最高気温の記録を更新している猛暑の中で待つ静佳は自らの体調の異変に気づいていたが、その場を離れたくなかった。
今にも水本が現れるかも知れない。
もう少し我慢したら、もう少し、もう少しだけ…。
気が遠くなって次に気づいた時には静佳は深淵に居た。
3次元世界から静佳が消えてしまった後で待ち合わせ場所に現れた水本はどう思うだろう。
自分が遅れたから静佳が帰ってしまったのではないかと思うだろうか。
謝ろうと連絡しても連絡がつかなくて途方にくれるだろうか。
もしかしたら待ち合わせ場所には静佳の持ち物がそのまま残されていて鞄の中で虚しく着信音だけが鳴っているのではないだろうか。
このまま長い時間が経ってしまって静佳が元の世界に戻れなければ、遺失物として届けられた鞄の持ち主は失踪者とみなされて、いつかは世の中からも人の記憶からも葬り去られるのだろうか。
考えても仕方がないとは思いながらも迷宮の回廊を流される静佳には悲観的な想像しかできなかった。
流れ着いた先には極彩色の光の額縁にはめ込まれた窓のようなものが見えた。
窓の向こうには3次元の空間が広がっているのがわかる。
見たことのある風景。
それは中学の文芸部の部室で、そこには少女の頃の静佳が居た。
そして少年時代の水本も。
「私は金木悠治の『落日』がいいと思うけど。」
そう言ったのは過去の静佳だった。
「白林さんは金木悠治が好きだからなあ。僕も個人的には悪くない題材だとは思うけど、文化祭で一般向けに発表するんだし、あまり文学に詳しくない人でも知っているような、もっと明るい作品の方がいいんじゃないかと思うよ。」
水本が静佳の意見に反論したのを聞いて思い出した。
これは中学2年の文化祭で発表する論文の題材となる作品を決めた日だ。
結局静佳の意見は脚下されて題材には別の作品が選ばれたが、話し合いが終わって他の部員達が帰った後も部室に残って水本と金木悠治の作品の世界観について語りあったのを覚えている。
「思春期の青少年の心の代弁者と言うか、誰もが『まるで自分の心の中で思っているのと同じことが書かれているみたい』って思うのよね。」
「誰もが持つ心の闇だったり、他人に対する心の壁だったり、だね。」
「そう。作者の金木悠治はきっと繊細で感傷的な人なんだと思うわ。」
「たいていの人は思春期を過ぎるとそれを忘れてしまう。大人になってもそれを覚えている、というか、いつまでも大人になりきれないというか、思春期の精神状態のままで歳だけを重ねたのかも知れないね。」
「優しいから傷つくのよ。ただ弱いからばかりではなくて。人を傷つけるくらいなら自分が傷つく方がいいと思うから。」
「誰かに傷つけられることよりも誰かを傷つけてしまうことの方がもっと痛いことを知っているからね。」
大人になった今の自分には、聴いていて恥ずかしいくらい真剣に青臭い議論を交わしていた。思えば水本とこれほど話したことはあの時以外にはなかった。
「自虐的なのよね。短編集の『昔話』なんかもそうだけど。」
「そう言えば僕は『昔話』だけは読んだことがなかったな。有名な作品なのに。」
「そうなの?面白いのに。ちょうど別の友達に貸していたのを今日返してもらったところだから貸しましょうか?」
「いいの?せっかく返してもらったばかりなのにまた僕が借りてしまっても。」
「いいわよ。内容はほとんど暗記するくらい読んだもの。返してくれるのはいつでもいいわ。」
「ありがとう。いつとは言えないけど絶対ちゃんと返すよ…。(!?)」
文庫本を受け取ろうとした水本がふと窓の外の何かに目を留めた。
そう、水本の見ていたその窓こそ極彩色の光の額縁にはめ込まれた窓の裏側だった。静佳はその時確かに過去の水本と目が合ったのだった。
「どうしたの?」
過去の静佳が訊ねた。
「いや、何でもない。」
水本はそう答えた。
それは静佳も覚えていた。
あの時ほんの一瞬だったが、水本が何とも言えない不思議な表情を浮かべたのも、静佳が訊ねた途端我に返ったようにいつもの彼に戻ったのも。
もしその時水本が
「誰かに見られてる気がした。」
などと答えたらきっと過去の静佳は怪訝な顔をして言ったろう。
「何を言ってるの?ここは三階だし下には運動場しかないのに、窓の外から誰かが見てるはずないじゃない。気味の悪い冗談はやめて。」
だが今の静佳にはわかる。
あの時水本が窓の向こうに見ていたのは大人になった静佳の姿だったのだと。
何故ならあの時の水本の表情は卒業以来初めて同窓会で出会った時の驚きやら懐かしさやらいろんな感情がごちゃ混ぜになったように複雑なあの表情と同じだったから。
水本はあの同窓会の時静佳を見て思い出したのだろう。中2の時文芸部の部室の窓の外から彼を見つめていた女性の顔を。しかしまさかそんなはずはない、きっとこれはデジャヴだと思ったに違いない。
だから水本は唐突に借りっぱなしの文庫本を返すと言ったのだろう。
静佳はあの同窓会のあと、また会って本を返すと約束した水本は本当にずっと静佳に借りた本を持っていたのだろうかと疑ったりしたこともあった。本当はとうに失っていて、同じ本を買って返そうとしているのではないかとも思ったりもした。
でも重要なのはそんなことではなかったのだ。
もう忘れてしまっていたって仕方のない昔の約束をわざわざ水本自身から口にしたことが大事なのだと静佳は今になってやっと気づかされた。
水本が今の静佳とこれから先も繋がりを持つためのきっかけにしようとして本を返すからまた会おうと言ったことに何故もっと早く気づかなかったのだろう。
そして今こうしてあの頃の二人を見ていて改めて思うのはもしかしたらあの頃も今も水本が静佳に好意を持ってくれているのではないかということに思い至らないほど静佳が鈍感だったということだった。
もしも元の世界に戻れたら、もう一度水本に会えたら、ちゃんと彼と向き合おうと思った。
お互いを認め合える関係が心地良かったのに、どうして気づけなかったのだろうと後悔した。
水本とならわかりあえる、そんな気がした。心安らぐ穏やかな時間を過ごせた。飾らず、偽らず、何でも本音でものが言えた。
長い時間を経てやっと再会できたのもきっと運命に違いない。
元の世界に戻りたい。水本に会いたい。顔を見て、声を聞いて、言えなかったこと、聞けなかったことの全てをいっぱい話したい。
そんな思いが涙となって溢れたその瞬間、見えない流れは再び静佳を押し流して行った。
窓の向こう側に居る過去の自分に知らせたかったが、過去の静佳には窓の外の今の静佳は見えていなかった。
今の静佳がいくら声を限りに叫んでみても、その声は決して過去の静佳には届かない。
後ろ髪引かれる思いで懸命に過去の時空間に向かって手を伸ばすが、見えない流れに抗うことは叶わなかった。
見えない流れに体を運ばれながら静佳はあの同窓会の日のことを思い出していた。
「白林さんに借りた金木悠治短編集の『昔話』の中に『狐と狸』という話があったよね。
若い美少女の白兎に翻弄された冴えない中年男の狸が昔なじみの狐に出会うって話。
最初に読んだ時は単なるコメディで表現の面白さや文章の巧みさにしか目がいかなかったけど、こうして今自分が冴えない中年男になってみると狸の気持ちがよくわかるというか、読み方が変わってくるね。」
水本はそんな話をしていた。
静佳がそれに答えようとした時、
「ツネ!やっぱりツネだあ。見つけたぞお。」
酔った同級生の男子の一人が水本に大きな声で呼びかけながら彼に抱きついてきた。
お、おう、と水本はちょっと困ったように応えて酔っ払いの体を支えながら静佳に向かって言った。
「ごめん。続きはまた今度。連絡するよ。」
そして水本は酔った友人を支えながら壁際まで連れて行って空いた椅子に座らせるとウェイターに水を頼んで介抱していた。
その日はそれきり彼と話すこともないままにお開きとなり、気づいた時は既に会場には水本の姿はなかった。
水本の話の続き。
今日彼に会えばそれを聞くはずだった。
若い美少女に酷い目にあわされた狸が昔なじみの女狐に出会った話。
ただの友達同士としか思っていなかった狐が狸にとっていかに大切な人であったかをしみじみと思うという結末だった。
水本はその物語に何を感じ、静佳に何を伝えようとしたのか。
元の世界に戻ってそれを訊くことはできないのだろうか。
もう二度と水本に会えないのだろうか。
3章
〈…真っ赤にただれた背中にひんやりとした膏薬を塗ってくれるおコンに向かってたぬ吉は言いました。
「すまねえな。おコン。面倒をかけちまって。」
ふっと笑っておコンは答えました。
「なんだい。およしよ。水臭いねえ。お互い若僧と小娘の頃からの昔なじみじゃないか。あたいに遠慮なんかいらないよ。」
「ありがとよ。おコン。…うさ美の奴と来たら綺麗な面してとんでもない根性悪だった。年がいもなく若い娘にのぼせ上がった罰が当たったってもんだな。構わねえから可笑しけりゃ笑えよ。」
たぬ吉はひきつったように口角をひん曲げて自虐的な笑顔になりました。
「あの娘(こ)に酷い目にあわされたことは悪い夢でも見たと思って忘れちまいなよ。でもさ、たとえいっときでも本当に惚れてたんなら、相手はどうだろうとあんたの気持ちだけは嘘じゃなかったんだ。その思いまでなかったことにしちゃあいけないよ。」
おコンは膏薬を塗る手を止めずにそう言いました。それはまるで自分自身に言い聞かせているようにたぬ吉には思えたのです。
「誰だって長く生きてりゃいろいろあるのさ。…さ、もう済んだよ。しばらくは痛むだろうが日にち薬さね。体の傷も心の傷もね。」
おコンはそう言うとたぬ吉の背中にふわりとガーゼを被せて油紙を当てると包帯を巻き始めました。
「薬師(くすし)のおめえの見立てなら間違いなかろうさ。」
おとなしく包帯でぐるぐる巻かれて木乃伊のようになりながら、神妙な面持ちでたぬ吉はそう言いました。
「けどよ、おコン。どんな人生だってみんなてめえがそれまでに選んできた道にはちげえねえんだがよ、間違ったとしても戻ってやり直すことはできやしねえ。これだけは確かだ。
だがよ、過ぎたことはもうどうにもできねえが、先のことはいつだってその気になりゃあ道は選び直せるじゃねえか。
一番大切なのはよ、てめえ自身に嘘をついちゃあいけねえってことだ。
おいらはてめえに嘘をついてるのがわかっていながらうさ美に好かれたい一心で無理をし続けたばっかりにこんな目にあっちまったのよ。
ガキの頃は毎日のようにつるんでいたおめえと長いこと離れることになっちまったあと、おいらの知らねえ間におめえがどんな人生を送って来たのかはわからねえが、なあ、おコン、本当の幸せってやつはよ、胸がどきどきするような激しいもんじゃなくてさ、もっと穏やかで安らぐ、春のお日さまみたいに優しいもんじゃないかと思うのよ。
うさ美と居ると胸がどきどきして目がぐるぐる回りそうだったが、おめえと居るとほっこりして気持ちが落ち着く。
なあ、おコン。怪我が治ったあともずっと昔みてえにおいらの側に居ちゃあくれねえか。」
おコンは切れ長の目をもっと細め、何とも言えない寂しげな微笑みを浮かべて静かに答えたのです。
「たぬ吉っつぁん、ありがとうよ。あたいもあんたとおんなじ気持ちだよ。あの頃みたいにあんたと居られたらどんなにかいいだろうけど、ごめんよ、ちょっと遅すぎたよ。」
たぬ吉はきょとんとしておコンを見つめています。おコンが何を言いたいのかをはかりかねて不安な気持ちでおコンの次の言葉を待ちました。
「あんたがあの性悪娘に騙されていると知ってあたいは慌ててあんたを追っかけたけど、あたいが来た時にはもうあの娘は姿を消した後で、あんたは背中に火傷を負わされ、薬だと言って辛子をすり込まれた上に塩水をかけられて一人で死にかけていたのさ。
それまで神様なんて信じてなかったあたいはその時生まれて初めて神様に祈ったのさ。
『 かわりにあたいの命を差し上げますから、どうか たぬ吉っつぁんの命を助けておくんなさい。』とね。
そしたら神様が仰ったのさ。
『たぬ吉の命を助けて怪我を治す膏薬をあなたにあげましょう。そのかわりたぬ吉の怪我が治ったらあなたの命はなくなります。それでもよいのですか。』ってね。
あたいは『よろしゅうございますとも。あたいの命と引き換えにたぬ吉っつぁんの命が助かるなら喜んでこの命は差し上げます。』って答えて、神様と約束したのさ。
さっきあんたの背中につけた膏薬がそれさね。
あんた一人じゃ自分の背中に膏薬は塗れまいから、怪我が治るまで神様には待っていただかなきゃいけないけど、長くてひと月もかかるまいよ。」
たぬ吉はあんぐりと大きな口を開けたまま凍りついたように固まっていました。やがてたぬ吉は我に返り、にっこりと笑って答えました。
「なあに、ひと月でもいいさ。一生分の思いをぎゅうっと詰め込めば、ひと月でも十分じゃねえか。」
「ありがとうよ。たぬ吉っつぁん。」
おコンは糸のように細い目からはらはらと大粒の涙を流しました。…〉
深淵に落ちて極彩色の光の迷宮の回廊を見えない流れに運ばれながら、静佳は水本に貸したままになっていた金木悠治短編集『昔話』の中の『狐と狸』という物語の終盤の一節を思い出していた。
水本と同窓会で再会した時に話題にして、水本が最初は単なるコメディだと思っていたが、歳を重ねるとまた違う読み方があると言いかけたまま中断した話の続きを彼から聴く約束だった。この深淵に落ちてさえいなければ。
彼はどんな話をするつもりだったのだろうと考えたらふと小説の一説が頭の中に浮かんできたのだった。
見えない流れは徐々にゆっくりになり、静佳は次第に先ほどとはまた別の、極彩色の光の額縁にはめ込まれた窓のような3次元空間への接点へと近づいていた。
4章
静佳が窓の前まで来ると見えない流れは止まり、静佳は窓の向こうに広がる3次元空間を覗き見た。
見覚えのある喫茶店。
今は経営者が変わって別の喫茶店になっている駅前の珈琲専門店だ。
地元だけに店の前を通ることは多くてもわざわざ入ることは滅多になかったからはっきり覚えている。
これはもう長いこと会ってはいないが数少ない親友の一人と言ってもいい慶子とこの店に来た日なのだと静佳は確信した。
案の定窓を背にして手前の席には過去の静佳が座っていて、向かいの席には慶子が居た。
間違いない。やはりこの窓の向こうはあの日につながっているのだ。
慶子は静佳が社会に出て最初の職場の同僚だった。同い年ながら高卒で就職した慶子は四年制大卒の静佳よりも少し先輩であり、仕事の内容は違ったが同じ部署に所属していた。慶子とは共通点も多く気が合ったので、その後それぞれが別々の事情で別々の時期にその職場を辞めた後も交流は続いていた。
「ごめんね。呼び出した上にわざわざ私のうちの近くまで来てもらって。」
静佳はウェイターが注文を聞いて去ると慶子に言った。
「ううん。そんなの全然気にしなくていいのに。…それより、しずちゃん、すごく痩せたね。」
慶子は本当に心配そうに眉根を寄せて静佳を見つめていた。
「電話じゃ話せないだろうと思ったから会いに来たの。しずちゃん、体は大丈夫なの?」
「…うん、まあ…。」
静佳は言葉を濁した。
大丈夫じゃないからこそ慶子に電話をしたのだし、慶子もまた大丈夫じゃなさそうだと思ったからこそこうして訪ねて来たのではあるが。
「…やめなよ。ね、しずちゃん。」
慶子はウェイターがアイスコーヒーを二つ運んできて二人の前に置いて去るとそう言った。
「今ならまだ間に合うよ。中止が無理ならせめて延期。ね、そうしたら。」
アイスコーヒーを見つめたままの静佳の目からつうっと涙がこぼれた。
「…無理だよ。けいちゃん。今さらやめるなんてできないよ。そんなこと言えるわけないよ…。」
「しずちゃん…。一生の問題なんだよ。こんなに痩せちゃうほど辛いのにこのまま結婚しちゃっていいの?」
慶子は心底心配そうに言った。
「…式場も日取りも決まっちゃったし…やめたらみんなに迷惑をかけてしまうから…。」
「しずちゃん…。」
静佳の答えを聞いて慶子も言葉を失った。
静佳だって本当はやめたいのだ。だから慶子に電話したのだし、静佳のただならぬ様子を心配して慶子は会いに来てくれたのだ。
でももし今静佳が結婚をやめると言えば短気で粗暴な婚約者の反応が恐ろしすぎてとても言えなかった。それに周囲に迷惑をかけてしまうのは申し訳ないという気持ちもあながち嘘ではなかった。
静佳は結婚したら婚約者も変わってくれるかも知れない、子供でもできたら変わるかも知れないと自分に言い聞かせていた。それが単なる希望的観測に過ぎなかったと静佳は結婚後に嫌と言うほど思い知らされることになるし、この時も既に心のどこかではそれに気づいてはいたが、静佳は自分の気持ちをごまかしていた。本当は誰かに止めて欲しかったのだ。慶子にそれを期待したからこそ悩みを打ち明けて相談したいと言ったのだ。
今ならわかる。
この結婚は間違いだった。
だが、あの時慶子が言った通りにせめてもう一度考え直すことができたら間違わずに済んだのかどうかはわからない。
ほんの少し時期が遅れただけで、やはり静佳は間違いを犯したのかも知れないが、それは誰にもわからないことだ。
静佳は窓の向こうの過去の自分と慶子に向かって声を上げたが、どんなに声を振り絞って叫ぼうとも決してその声が届くことなどないのだ。
「だめ!私を止めて!お願い!誰か止めて!けいちゃん、止めてよ。お願いだから私を止めて!」
確かに全て自分で選び、決めたことには違いない。他の誰のせいでもないのだ。
それはわかっている。
でももしもこの時思いとどまっていたら、と思わないではいられなかった。
今ならわかることが、この時の静佳にはわからなかった。
あの時慶子が静佳を止めてくれていたら、もっと必死になって何が何でも止めてくれてさえいたら。
逆恨みするのではないが、ついそう思ってしまう。
「結婚するのもそれを決めるのもしずちゃん自身だから私には何も言えないけど…こんなに痩せてやつれたしずちゃんを見ていられないよ。本当なら今が一番幸せなはずなのに、花嫁がこんなに哀しそうに泣いてるなんておかしいよ。…しずちゃん、悪いことは言わないからもう一度よく考えてごらん。無理は続かないよ。」
「うん、けいちゃん、ありがとう。ごめんね。」
あの時慶子に諭されたのに結局静佳は思いとどまることはなかったのだ。
涙を拭いて無理に笑おうとする静佳は半ば諦めたような表情の慶子と共に席を立った。
「行かないで…帰らないで…けいちゃん…。」
窓の向こうの慶子に聞こえるはずもないのに静佳はそう呟いた。
あの時もっと強く激しく慶子が止めてくれていたらなどと慶子のせいにしようとする自分は狡いとわかってはいたが、結局結婚後親友だったはずの慶子とは次第に疎遠になっていった。
予想通り不幸な結婚生活を送っている静佳を見るに忍びなくて慶子は去っていったのかも知れなかった。
「けいちゃん、ごめん。…ごめんね。」
静佳は過去の慶子には聞こえないと知りつつも涙を流しながら詫びていた。
断じて慶子のせいではない。悪いのは静佳自身なのだ。
それを痛いほど思い知らされて静佳は泣いていた。
大切な友情までも失うような大きな過ちを自分が犯してしまったことを今さら後悔してもどうにもなりはしない。
全ては過去の静佳が決めたことだったのだから。
そもそもどこからボタンをかけ違えてしまったのかわからない。
気づいた時にはもうどうにもならないくらいにずれていた。
修復のしようのないほどに事態は深刻だった。
それでも自分の本心に見て見ぬ振りをして、強引に押し進めて来た人生は完全に詰んでいた。
息が詰まって呼吸すらできないような結婚生活は早かれ遅かれ限界だったのに、それでも酸素不足の水槽の魚のように口をパクパクさせてもがき苦しんで毎日を暮らしていた。
誰か別の人とならこんなことにはならずに済んだかも知れなかったのにと思い始めた時、静佳の前に現れたのが水本だった。
(きっと彼のような人となら幸せになれたんだろうに。どうしてそんなわかりきったことに気づかなかったのかしら。)
ふとそんなことを考えている自分に驚いた。
中学時代はただの友達だった。恋愛対象として見たことなどなかった。
憧れの人に対するどきどきするような気持ちなどなくて、ただ一緒に居ても気を遣わなくて済む楽な関係だった。
静佳には男兄弟は居ないが、きっと兄が居たらこんな感じなのだろうと思っていた。
安らかで暖かい、全てを柔らかく受け止めて大きな心で包み込んでくれる、春の日射しみたいな人。
でも今さら気づいても遅すぎる。
例え元の世界へ戻れたとしても、辛い現実は何一つ変わりようがないのだ。
それなら永遠にこの不思議な光の迷宮に留まり、見えない流れに身を任せて漂い続けていた方がどんなにか幸せなのかも知れない。
5章
どこか遠くから地鳴りのような音が聞こえた気がした。実際には深淵には音はない。完全な無音。全ては静佳の脳内に直接流れ込んでくるテレパシーのようなものであって耳に聞こえる音ではない。地鳴りのように感じたのは見えない流れのうねりのようなもの。津波のような大きな波が渦巻き、透明な龍がのた打ち回っているような気がした。
(飲み込まれるっ…!)
静佳は思わず息を飲んだ。見えない流れは水とは違い、流されても飲み込まれても溺れることはないにしても、この世界では次に何が起こるか予測がつかない。静佳は体を固くして警戒する以外になす術がなかった。
極彩色の光はうねる流れに散りばめられてきらきら輝きながら渦を巻いて一点に向かって吸い込まれて行く。深い深い暗い穴の底を覗き込んだみたいな、闇よりももっと暗い黒い球体が遥か下方に見える。見えない流れはそこに向かって吸い込まれて消えてゆく。
[残念だなぁ…もうおしまいかぁ…もうちょっと楽しみたかったのにぃ…。]
深淵に落ちてすぐ脳内に聞こえた声にならない呟きの主と思われる言葉だった。それは静佳に語り掛けたという訳ではなく独り言のように思われた。
その黒い球体は何らかの原因で突然時空の歪みが生じた時に現れる特異点。静佳が3次元世界から吸い込まれてこの深淵に落ちて来た時にもこの特異点を通ったのだが、気を失っていた静佳にはその記憶はない。
そして再び現れた特異点から放出された時、運よく元の世界に戻れるとは限らない。それどころか、深淵という時空の狭間の異空間から出られても、その先にある時空間が生存に適した場所であるという保証はどこにもない。重力によりあっという間に引き延ばされたり押し潰されたりするかもしれないし、呼吸に適した大気があるとも限らない。生存が可能であったとしても同類の生物が存在せず、その世界の生物に捕食されて命を落とすかも知れないし、孤独のうちに寿命が尽きるまで待つだけかも知れない。
運よく元の世界と波長が合致して戻ることが出来たとしても、深淵では時間は流れることなく積み重なるが、元の世界ではその間も絶え間なく時間は流れている。
それ故俗に「神隠し」と言われるように、時空の狭間に迷い込みそこから戻った者はさながら浦島太郎のようにその間歳を取ることがない。どれくらいの時間が経っているのかはわからないから、もしかしたら全ての生物が死滅した後の世界かもしれないし、惑星そのものが消滅しているかもしれないのだ。
(ここは…?)
眩しい光に手を翳し目を細めた静佳はゆっくりと目を開けた。
真っ暗な球体に吸い込まれたと思ったら急に明るい所へ出たので一瞬目が眩んだのだ。
「大丈夫ですか?…え?そんな…もしかして、しず?…白林さん?」
聞き覚えのある声。深淵に居る間どれほどこの声が聴きたかったか。間違いなくそれは水本の声だった。
「…水…本…君?」
段々と光に順応し始めた目で見るとそれは確かに水本…のはずだった。静佳は違和感を感じたが、ぼんやりした頭の中ではその違和感はどこから来るのかすぐにはわからなかった。
そして水本もまた驚いたような懐かしいようないろいろな感情の入り混じったような複雑な表情で静佳を見つめていた。ちょうど中学時代のあの日の部室の窓の向こうを見ていた時のような、そして同窓会で再開したあの時のような。
「…本当に、しず…白林さんなんだね。…よかった。無事で、生きててくれて…。」
(?)
静佳は今にも泣き出しそうな水本を見て戸惑った。
あの深淵でのことは全部夢で、あの約束の日に暑さのあまり失神している間に水本が来て介抱してくれたのか、などと考えていたが、ようやく回り出した頭が違和感の正体を暴き出した。
街の風景も水本の容姿もどことなく違う気がしたのは、静佳が深淵を彷徨っている間にこの世界では随分と時間が経ってしまっていたからだということに。
水本が同窓会の時に「寂しくなった」と自虐的な冗談を言っていた頭髪には白髪が目立ち、額には深い皺が刻まれている。
「水本君、私は…?今は何年?」
動揺する静佳の両肩に大きな掌を置いて水本は答えた。
「落ち着いて聴いてください。あなたは『神隠し』にあって10年間行方がわからなかったんです。だからもうあなたは死んだことになっています。
でも僕はあの日あなたとの約束に遅れたばかりにこんなことになったのではと、そんなことを考えたところでどうにもならないとはわかっていましたが、毎年同じ日にこの約束の場所へ来てあなたを偲んでいました。
あなたの鞄だけがベンチに残っていて、友達みんなに声をかけて長い間方々手を尽くして探しまわったけれどあなたを見つけることができなくて、とうとう今日が10年目だったんです。
もうここへ来ても辛いばかりだから今年でやめようと思ってお別れのつもりでやってきました。
…あなたが居なくなって、あなたが辛い結婚生活に酷く悩んでいたから失踪したのだとか、自殺するかもしれないとか言う人も居て、随分心配しました。
あなたのご主人ももう亡くなっていますよ。最初は、あなたが居なくなったのは自分のせいではない、と虚勢を張っておいででしたが、あなたの失踪宣告がなされて死亡が確定した後、気落ちしたのか体を壊してあっという間に亡くなったそうです。
僕はあなたが死んだなんて信じたくなくて、毎年ずっとここで一日を過ごしてあなたを待っていました。
…やっと戻って来てくれたんですね。あの時のままの姿で。」
「え?」
静佳は怪訝な顔をして水本を見つめていた。
水本は笑って静佳の手を取り、近くの店のショーウインドーの前に連れて行った。硝子に映る静佳はあの日のままの姿だった。青色のパフスリーブの半袖ブラウスに膝丈のタイトスカート。水色のウエッジソールのサンダル。髪に白髪もなければ顔に皺もなかった。
「え?」
静佳は我が眼を疑った。何故自分だけが10年前の姿のままなのか。いや、むしろ静佳にとってはほんの数時間か長くても数日だと思っていた間に10年の時間が流れていて、同い年の水本が遥か年上になってしまっているとしか思えなかったのだが。
静佳は混乱していた。 これが真実だというなら、にわかには受け入れ難かったが認めざるを得ない。
静佳はこの先自分はどうしたらいいのかと途方に暮れたが、その瞬間静佳の心の中で水本の存在が真夏の入道雲のようにみるみる大きく膨れ上がった。
「水本君、 今があの日の続きだったらどんなによかったか。
私はあの日あなたに会いたかった。話の続きが聴きたかった。
…信じられないでしょうけど、私はあの時暑さのあまり気を失ったと思ったら不思議な世界に迷いこんでいて、過去の自分を覗き見してきたの。
そしてわかった。あなたはとても暖かくて優しいわ。どうして気づかなかったのかしら。あなたと一緒に居ると心が安らぐの。
今の私は幽霊みたいなものだけど、それでもできるならあなたの側に居たい。」
静佳の言葉を黙って聴いていた水本は寂しげな微笑みを浮かべて答えた。
「ありがとう。しず…本当はずっとそう呼びたかった。中学時代はただの友達の一人だと思ってた。そのくせ何故だかいつもしずのことが気になってた。
あぶなっかしくて放っとけないっていうか、真面目でしっかり者だと思われてるけど、意外に脆いところがあるのがわかってたから。
再会した時は嘘ではなく本当に運命だと思ったよ。
僕は中学時代に文芸部の部室の窓に映る綺麗な大人の女性の幻を見たんだ。
そんなことを言ってもどうせ誰も信じてくれないだろうから誰にもに言ったことはなかったけど。
同窓会の日、その女性と同じ姿で現れたのがしずだった。だから声をかけたし会う約束もした。
あの約束の日からずっとしずの本は肌身離さず持ち歩いてたよ。しずに繋がるたったひとつのものだから。
…ありがとう。しずも僕のことを思っていてくれたことがわかったのは嬉しいけど
…ごめん。せっかく戻ってきたしずにまた会えたのに、僕の余命はもうあとわずかしか残っていないんだ。
だからここへ来るのも今日が最後だと決めていた。残念だし悔しいけど仕方ない。」
静佳は驚いてすぐには答えられなかったが、やがて穏やかな微笑みを浮かべて、ふわりと水本の手に自分の手を重ねて言った。
「じゃあせめて最期まであなたと一緒に居させてくれませんか。」
水本は笑顔を作るのに失敗したようにほんの少しだけ口角を上げて答えた。
「…ごめん。妻が迎えに来るから…もう行かなくちゃ。」
するりと静佳の手から水本の手が離れた。
水本は上着の内ポケットから古びた文庫本を取り出して静佳に手渡した。
金木悠治短編集『昔話』。
「ずっとしずが好きだった。できることならしずと一緒に居たかった。伝えたかった話の続きはそのことだったんだ。でも、もう遅すぎたよ。」
通りの向こうからクラクションが聞こえる。軽自動車の運転席から水本の妻であろうと思われる女性がこちらを見ている。
「最後にしずに会えてよかったよ。ありがとう。しず。」
そう言って水本は静佳の側を離れ、ゆっくりと軽自動車の方に向かって歩き始めた。
助手席に水本を乗せた車が走り去るのを静佳はただぼんやりと見送るしかなかった。
今まで意識していなかったが、気が遠くなりそうなほどの猛烈な熱気が静佳を襲った。
あの日のようにこのまま気を失って再び深淵に落ちたいと思った。あれほど恋しくて戻りたかったこの世界なのに、静佳は戻ったことを後悔しどこか遠くへ行きたいと思った。
行く宛もないまま静佳はふらふらと歩き出した。その姿はまさに足のある幽霊そのものだった。
6章
静佳は絶望に打ちひしがれてとぼとぼと炎天下の街を宛もなく歩き続けていた。静佳の知っているはずのその街並みはまるで見知らぬ街のように様変わりしていた。
暑さに気を失いそうになり疲れ果ててもう歩けないと思った時、静佳の目の前に公園が見えてきた。誰も居ない公園。古びて使用禁止の札の下げられた遊具にも朽ちかけたベンチにも見覚えがある。
ああ、やはり夢や幻ではなく、本当に10年経ってしまったのだ、と静佳は思い知らされた。
倒れ込むようにベンチに座ると沈む夕陽に染められていた茜色の空が次第に青みを帯びてきて、まだ真昼の猛暑が少しも衰えてはいないのに宵闇迫る無人の公園は熱帯夜へ向かって急降下しようとしていた。
涙が頬を伝う。
この世界に戻りたくて、もう一度水本に会いたくて、それが叶ったというのに、時間の流れが静佳に用意していたのはあまりにも残酷な現実だった。
戻るのではなかった。これからこの世界で一人、どうやって生きて行けばいいというのだろう。
「泣いてるの?」
静佳はそう話し掛けられて声の主を探したが、周囲に人影はなく、ふと気づくと静佳の足元に一匹の猫が居てじっと静佳を見上げている。
「え?」
まさかこの猫が声の主だなどということがあるはずはない。が、それ以外に考えられなかった。
「あなたについて来たの。彼との話は全部聴いていたわ。辛かったわね。きっともう生きる望みもない、なんて思っているんじゃない?」
間違いない。猫が人間の言葉で静佳に話し掛けているのだ。
「だったら、わたしの話を聴いてちょうだい。あなたのためにもわたしのためにも悪くないお話だと思うの。」
静佳はもう怪しむ気力さえ失っていた。
「この体はわたしにとってはただの器。あなたたちが乗り物に乗るのと同じようなもの。
でもこの体はもう長くは持たないわ。体を交換しましょう?生きる望みを失ったあなたがもうその体が要らないのならわたしにちょうだい。その体に乗り換えてわたしは次は人間として生きるの。」
そう言う猫に静佳は訊ねた。
「私はどうなるの?」
猫が笑う、というのも可笑しいが、静佳には微笑んでいるように思えた。
「あの男性、猫好きなのね。あの場所へ来る前にわたしは彼と一緒だったのよ。勿論普通の猫の振りをしたわ。優しい眼をして抱き上げて頭を撫でてくれた。
だからあなたは猫になってあの男性のところへ行くといいわ。その体ももう長くはないけれど、どのみち彼ももうすぐ死んでしまうのでしょう?それなら最期の時まで少しでも彼の側に居られるわ。
ただ、残念ながらあなたは猫になったらわたしのように人間の言葉を話すことはできないわ。彼の眼には普通の猫にしか見えない。でもその方が怪しまれなくていいでしょう?
お察しの通り、わたしはこの世界の者ではないの。今まで何度も器を乗り換えてこの世界に紛れ込み、いろいろなものに姿を変えながら生きて来たわ。器が死んだらわたしは行き場を失う。わたしはまだまだ生きたいの。
あなたは猫としてでも彼の側に居られたら死んだっていいと思うでしょう?彼の居る場所はこの体が覚えているわ。それを辿って彼のところへ行ける。
どうかしら?悪くない話だと思うけれど。」
確かに水本は猫が好きだった。少年時代から野良猫でも見つけたらすぐに抱き上げて頭を撫でていた。彼に抱かれて触れてもらえるのなら、優しい眼で見つめられて声をかけてもらえるなら、そして残り少ない命が尽きるまで一緒に居られるのなら、猫の姿になってもいい。静佳は猫の提案を受け入れた。
目を閉じた静佳が再び目を開けた時、目の前には自分の姿があった。自分の体は既に猫になっていた。
「ごきげんよう。」
静佳が体を与えたものはそう言うと微笑んで立ち上がった。その笑顔はさっきの猫の表情と同じだった。
静佳は猫の体が覚えている彼の居場所へと向かった。窓から見た彼はベッドの上で半身を起して文庫本を読んでいた。金木悠治の『落日』。静佳が中学時代の文化祭で文芸部の論文発表の題材にと提案した小説だった。
「水本君、水本君…。」
静佳が彼に呼びかける声はにゃあ、にゃあという猫の鳴き声にしかならなかった。
水本はふと顔を上げ、気づいて窓を開けてくれた。
「おや、おや、追いかけて来ちゃったのかい。」
水本は野良猫に懐かれたとしか思っていないのだろう。それでもそっと抱き上げて窓から中へ入れてくれた。水本の胸に抱かれて顔を見上げると、優しい眼で見つめてくれた。頭を撫でてくれる彼の大きな掌のぬくもりを感じて静佳は幸せだった。水本もまた何となく心を和ませてくれる猫を愛おしく思っているようだった。
「懐かれちゃったな。ここが気に入ったなら僕と一緒にここに居てもいいんだよ。気が変わったらいつでも好きな時に好きなところへ行けばいい。僕には子供はいないし、妻は僕には無関心だからね。」
「水本君、嬉しい。あなたと居られて私は幸せよ。」
静佳はそう言ったが、水本にはにゃあん、にゃあんという猫の鳴き声にしか聞こえていなかった。
「何故だか放っておけないような…君はどことなく僕の大事な友達に似てる気がする。…そうだ、名前を付けてあげよう。『しず』って名前はどうだい?」
猫がにゃあ、と鳴いたので水本は微笑んで頷いた。
「名前は気に入ったかい、しず。」
そしてそれから猫のしずは片時も水本の側を離れようとせず、彼と共に暮らした。
水本の言う通り、妻はほとんど家には居ないようで、彼も必要以上に妻に頼ることはなかった。
往診に来る医師や訪問看護師が診察や治療をしてくれて、薬は在宅療養で薬剤師が届けてくれるし、時々ヘルパーが来て彼の世話をしてくれているので、妻が居なくてもさほど不自由ではないのだと彼は猫のしずに話した。それは水本の彼自身に対する暗示に過ぎなかったのかも知れないが。
水本の病状は徐々に悪化し、薬が効いて少し元気そうな時もあったが、苦しそうにしていることが多くなり、苦痛を和らげるための薬で眠っていることも多くなった。しずはいつもずっと側についていて心配そうにじっと水本を見ていた。
「しず…。」
水本は目を覚ますといつもしずの名を呼んだ。しずがにゃあん、と鳴いて答えると安心したように微笑んでまた眠ってしまうのだった。
ある日少しだけ体調が良さそうな水本がしずを呼んだ。
「しず…。おいで。」
にゃあん、と鳴いてしずが水本の側にすり寄って来ると、水本は手を伸ばして掌で頭を撫でた。
「しず…僕はもうすぐ居なくなってしまうんだ。ごめんよ。もうしずを抱いてあげられない。…短い間だったけど、しずが居てくれて楽しかったよ。もししずが居なかったら、病気が辛くて一人では耐えられなかったかも知れない。ありがとう、しず。」
泣かないはずの猫のしずの眼から涙がこぼれた。
にゃあん、にゃあん、と哀しげな声を上げてしずは水本を見つめていた。
最近は随分痩せて顔色も悪く、落ちくぼんで隈のできた、もうこの世のものを見ていないかのように虚ろだった水本の眼が、この時だけは涙に濡れてきらりと光って一瞬だけ生気が戻ったように見えた。
この上なく優しく美しい笑顔で水本は微笑んだ。
次の瞬間操り人形の糸が切れたようにぱたりと水本の手が力なくベッドの上に落ちた。
その後すぐに水本は息を引き取った。苦しむことなく、安らかに眠るような最期だった。
しずもまた既に肉体の限界はとうに越していた。
水本の亡骸にぴったりと寄り添って最期に一声にゃあん、と鳴いてそれきり動かなくなった。
猫は死ぬところを人間には、とりわけ飼い主には見せないという。
水本は猫のしず以外の誰にも看取られることなく亡くなり、しずも水本の後を追って逝った。
人間だった時はずっとすれ違い続けてきたけれど、心の中ではずっと互いを想い続けていた。
人間の体を捨てて猫として最愛の水本の側で暮らした静佳は幸せだった。
わずか数ヶ月の短い間だったが今までの人生の中で一番幸せだった。
そんな幸せがこのまま永遠に続けばいいのに、と思っても、それが決して叶わないということはわかっていた。
ならばせめて死ぬ時は一緒に。そんな静佳の願い通り静佳は最期まで水本と一緒だった。
過ぎ去った時間は戻すことはできなくても、これからの生き方は選ぶことができると気づいたから。
柔らかな春の日差しがベッドで寄り添う一人の男と一匹の猫を温かく包んでいた。
(おわり)