以前このブログエッセイでも書いたことがあるが、とあるコミックのワンシーンで、10年ぶりに友と再会した主人公が「もうオレはお前の知っているオレじゃない」というようなことを言われた時に「10年も経てばいろんなことが加算されて当然だ。しかし俺にはお前がお前でなくなるほどの何かを失ったようには思えない。」というような台詞があった。良きにつけ悪しきにつけ人間の本質と言うものはそう簡単には変わるものではない。
身内の青年が興味を持って買ってきた心療内科を題材にしたコミックの番外編が「アドラー心理学」を取り上げていた。本編の後に解説文的なコラムのページがあるのだが、その1ページが気に入って写メを撮り、SNSにも載せたが同じように心の闇を潜り抜けた経験のある友にも送ったら喜んでもらえた。いろいろ思い悩むことがあった時期で非常にタイムリーであったようだ。今はすっかり壮年となっていても少年時代の繊細さは今も変わらない。コミック本編の1巻にあるように頭が良くて真面目な人ほど鬱になりやすい。私も友もどちらかというとその部類なのだろう。勝手気ままでちゃらんぽらんな人には心を病むなどということは理解できないのだろうなと思うと、そういう性格は周囲には迷惑でも本人は楽なのだろうなと時に少し羨ましくさえある。
そのアドラー心理学の写メしたページの一説に「60点でも70点でも発表しよう」という部分がある。
文章でも絵画でも音楽でも何でもよいのだが、世の中には発表して批判されるのが怖くて発表できないという人も居るが、それでは成長に繋がらない。ここの表現はつまらないとか、ここのデッサンが狂ってるとか言われるから次はそんなことのないようにしようと思えるのであって、万人が文句の付けどころのない作品になるまでは恥ずかしいから発表しないというのは間違いであり、過去天才と言われた芸術家の多くは多作であったと書かれている。
白状すると少女時代からこそこそと漫画もどきイラストもどき小説もどきを描いてはいたが、心を病んでいた頃は全てがネガティブ思考になり、一時は「こんな出来の悪いものを」と恥ずかしくなって、描くことすらも出来なくなっていた。闇を抜けて「うまかろうが下手だろうが関係ない。自分の描きたいものを描いて何が悪い。」と開き直れるようになり、SNSなどでも作品を公開するようになった。お世辞でも褒めてもらえれば嬉しくて励みになるし、まだ今のところ直接批判を受けたことはないが受けたら反省材料にはなるだろう。
身内の若い女性二人には作画したら直接見せて意見を訊くが、勿論褒められることばかりではない。暫く作画をサボったりして腕が落ちていたりすると「いつもの画風じゃないね」などと言われることもある。発表はしなくても修行だと言っていつも自分のスケッチブックに作画の練習をしているので歳は若くても遥かに腕は上であるからその意見は真摯に受け止め謙虚に反省する。彼女らとはそれぞれ画風が違うが、それぞれに味があるので喧嘩にはならない。
小説の方は執筆中に意見を求めたり、完成後に物語や登場人物についての話などをすることはあるが、彼女らが直接物語を読むことは今までほとんどなかった。アナログ下書きの頃の手書きノートは断片的に読んで意見を訊いたことが一度か二度あったかなかったかくらいである。完成したら一応プリントアウトしてファイルはしているが読むことはない。読むと言われたら読むなとは言わないが、読みたいと言わないのに読めとも言えない。自分が死んだらそのまま捨ててもらっていいと彼女らには言ってある。
というようなことで、今次回作の原稿を執筆し始めたところである。以前からずっと書きたいと思っていたネタなので満を持して登場、と言いたいところだが、構想は紆余曲折、なかなか苦労した。まだ見切り発車的な部分は否めないが、物語はなまものというのが持論であり、こうして流れに任せて書くのが自分なりのスタイルなのでこれはこれでいいと思っている。
作画の方も父の日が近いので、以前SNSにも上げたが、自主的に投稿を削除した若い頃の亡父と幼い自分のツーショット画像が2枚SNSのタイムラインアルバムに残っていたのを発掘してスマートフォンに保存してある。これを基にして「父の日イラスト」を描こうと企画してはいるのだが、ここ数日は精神的に少々ダメージを受けることが起こったり、仕事が思いのほか大変で疲労が蓄積していたりして未だ手付かずである。今日も作画しようと思っていたができないまま既に夕刻である。しかしこういうものは気が乗らないとできないもので、先日来はまっていたアニメのような「クリエイター」であれば期日期限にも追われるし、自分が描きたいものを描くのではなくあくまでもクライアントの指定する通りのものを描かねばならない。ツイッターでフォローしている現役クリエイターさんの言葉のように、「好きでこの仕事をしているけど、自分の描きたいものを自由に書きたいならクリエイターでなくアーティストになるべき。」自己満足で絵を描く分にはいつどんな作品を書こうが自分の自由なのだから、趣味は趣味で仕事にはしない方がいいのかもしれない。…そもそもプロになるほどの腕前は持ち合わせてはいないが。
今回の題名「感話究題」。言わずと知れた「閑話休題」のもじりである。
「ちょっと感じたことを話す。自分の求めるテーマ(第)を究める。」みたいな造語である。
前述部分は最近感じたことをお話ししてみた。
自分なりのテーマを究めるのは小説の方であり、これも以前エッセイにも書いたと思うが、昔流行った洋楽の歌詞のように「ずっと探し続けているものがまだ見つからない(But I still haven't found what I'm looking for)」のである。
過去の作品をお読みいただいた方にとってはいつも同じような物語ばかり、と思われているのかも知れないが、ブログ開設から3年、自分の中では劇的変化もあり、作品に込めた思いも変わってはいる。今回はまた今までとは少し違う重要ポイントがあると構想段階の今自分では思っているのだが、出来上がってみて果たしてそれがどれだけ表現できているかはわからないし、まだまだ答えに辿り着くには程遠い気がする。もしかしたらその答えを知るのは自分の寿命が尽きる時かもしれないし、或いは最期までわからないままかもしれない。それでも1年前、2年前、3年前と比べればほんの少しずつでも答えに近づけているのだとすれば、ここで歩みを止める訳にはいかない、そんな気がする。
自分には現実世界の生活もある。仕事もあり、家事もあり、友人もいる。それでもこちらのバーチャルの世界があることで支えられている部分はあるから、それぞれを大事にしたい。スポーツやトレーニングに頑張る友や音楽活動に頑張る友、料理や手芸をする友もいる。趣味があるから仕事も頑張れる。
というか仕事でも趣味でも止まったら窒息して死ぬ回遊魚みたいな自分故に、いつも何か動いてないと落ち着かない。
とはいえ、寄る年波には勝てずたまには何もしないでぼーっとしている時や長時間爆睡することもある。
それでも知らないことは知りたいし出来ないことは出来るようになりたい。仕事でも新しいことをしなければいけないと言うと心を病んでいる時は「無理だよう、出来ないよう」と避けてばかりだったが、今はボケ防止のために(笑)積極的に若い人に教わってチャレンジしている。
向上心がなくなったら終わり。そんな風に思っている。これもアドラー心理学の言うところの「レベルアップ」。他人と比べるのではなく、過去の自分と比べて、何かが出来るようになったとかうまくできるようになったというのはRPG(ロールプレイングゲーム)に例えれば経験値が溜まって技や魔法を覚えてレベルが上がり、攻撃力や防御力などが高くなったということ。HP(体力)もイマイチだがMP(精神力)が低いからちょっとでもレベルアップせねば。
「閑話休題」と言いたいところだが、現実世界の夕飯時なのでここで終了する。話の続きはまたいつか。