[この物語はフィクションであり特定の個人・団体及び地域・時代とは一切関係なく、現実の制度・法律及び医学的・科学的事象とは異なります。]
『我等流浪の民の始祖なる女神は言われた。
「何時(いつ)如何なる時も万難を排して只管(ひたすら)生き延びよ。
種(しゅ)の存続の危機あらば躊躇(ためら)うことなく故郷(ふるさと)を捨て去りて遥かなる宇宙(そら)へと旅立て。
新天地に胤(たね)を蒔(ま)いてその地に根付き、産めよ、増やせよ、地に満ちよ。
その地こそ我等が新しき故郷となる。」』(失われし惑星ヴェスパの聖典)
流星雨が夜空を彩り恋人達が華やかな天体ショーを眺めながら甘い言葉を囁き合う夜。
流れる星に紛れ宇宙からの招かれざる客が密かにこの惑星(ほし)に到着したことに気づく者は居ない。
それは宇宙という大海(うみ)を漂流してこの惑星に辿り着いた小舟。
この惑星が無人島のような場所ではなく生命に満ち溢れた豊かな地であることを知っていたのだろうか。
何処(どこ)から来たのか、どのくらい長く宇宙を彷徨(さまよ)い続けたのか。
冷凍睡眠(コールド・スリープ)カプセルの中には唯一の乗組員が眠っている。
自動操縦の宇宙船はどう見てもただの隕石にしか見えない。
何処の惑星に漂着しどんな知的生物と遭遇したとしても滅多なことでは見破られることはない完璧な「擬態」だった。
カプセルが開き宇宙から飛来した惑星外生命体は終(つい)にこの惑星に降り立ち、黒い影は夜の闇に紛れて何処かへと姿を消した。
賑やかな都会の一角にありながら1本の橋だけで繋がる大河(かわ)の中州の小さな孤島(しま)。
万が一の事故や災害に備えると共に近隣住民への配慮からまるで世間から隔離されたようにその研究所は存在していた。研究所の職員は早朝や深夜に及ぶ実験等がある時には、街では交通機関の運行していない時間帯でも24時間自家用車で自由に橋を往来することが可能で、騒音を気にする必要もなかった。
通勤と日常生活の利便性から対岸の街の比較的橋に近い場所に住居を求める者が多い中で、橋から道なりに直進すれば自然に到達する街の中ではなく、敢えて橋を降りてすぐに左折する脇の細い側道の奥へと進み、他人(ひと)との関わり合いを避けるように、人家も疎(まば)らな街外れを選んで住む者も居た。と言ってもそんな酔狂な者はたった一人に過ぎなかったが。
その変わり者の科学者の名は喜多條(きたじょう)。
まるでカートゥーンに登場するマッドサイエンティストそのもののような中年男である。
伸ばしっぱなしの黒い蓬髪(ほうはつ)は櫛を当てたこともないのかうねってもつれあい、前世紀の遺物のような黒色の太いセルフレームに分厚い硝子レンズが嵌め込まれた強度近視眼鏡をかけ、死んだ魚のようにどんよりと濁った目の下には青黒い隈、肌は土色で、無精髭の生えた頬はこけている。
背は低く筋肉の乏しいひょろりと痩せた体はまるで白衣を羽織らせた木乃伊(みいら)のようだった。
これまでいろいろな研究に手を出しては見たが、どれもたいした業績を上げないうちに、似たような研究をしていた他の誰かが成果を上げたと聞くとすぐに放り出しては別の研究を始めてしまうのでいつまでたってもものにならない。
それでも当の喜多條本人は自分のことを天才だと固く信じて疑わず、今は周囲から正当に評価されていないが、そのうちに皆を見返すような画期的な大発見でもしてやる、と本気で考えていた。
(…そうしたらきっと君だって俺を見直すだろう。もう害虫でも見るような嫌な顔をして俺を冷たい目で見ることもないはずだ。
尊敬のまなざしでうっとりと俺を見つめ、俺の才能に惚れ込む。科学者としての俺への尊敬はいつしか男としての俺への愛情に変わる。
きっとそうなるに違いない。いつかそんな日が来るまで俺は決して諦めないからな。ああ…カザリン。美しい。何としても君を手に入れたい。)
喜多條は携帯端末のディスプレイを見つめながら心の中でそう呟いていた。
その視線の先には盗撮と思(おぼ)しき白衣姿の女性の画像が映し出されている。
喜多條の指先が拡大した画像の胸のネームプレートの文字は辛うじて「カザリン・牟田(むた)博士」と読める。
栗色のミディアムストレートの髪に灰緑色の瞳、ブルーライトカットグラスをかけた美しい横顔のその女性はこの研究所で勤務している科学者である。
広い意味では喜多條と同僚と言えなくもないが、実際にはこの研究所内にはいくつもの研究室があり、それぞれが独立した研究を行っているので、別の研究室に所属する職員との接点は殆どないに等しい。食事や休憩の時に全ての職員が利用出来る共同のスペースはあるが、それぞれが独自のスケジュールに従って作業をしているので、24時間365日開放されている共同スペースであっても、うまい具合にタイミングよく同時にその場に居合わせるという偶然は滅多には起こらない。普段から交流のある親しい間柄ならいざ知らず、喜多條は一匹狼であり、他の職員も誰一人として彼に対して好印象を持つ者は居なかったから、仮に共同スペースで誰かと出会ったとしても、会釈でもされればまだしも、相手にまるでそこには何ものも存在しないかのように完全に無視されるのが普通だった。
勿論最初からそうだった訳ではない。かつては皆も喜多條に挨拶したり話し掛けたりしたこともあったが、少しでも構うと旧来の友の如く馴れ馴れしくなり、聞きたくもない喜多條のつまらぬ自慢話や独断と偏見に満ちた不満を延々と語られて面倒なので、今では野獣同様の扱いで喜多條とは目を合わすまいと誰もが避けるようになってしまったのである。喜多條の方もそんな気配を察知してか、別にこんな奴等と群れなくても結構、と気にも留めなかったが、カザリンにだけは無視されても冷たくあしらわれてもめげることなく執着し続けていて、こうして毎夜一人で盗撮した彼女の画像を眺めては、いつか彼女に認められて好意を持ってもらえるようになるという妄想に酔いしれていた。
一人暮らしの喜多條は自宅へ戻っても同じだからとさしたる用もないのに深夜まで研究室に残っていることが多かったが、その夜もまたいつもと同じように研究室で一人妄想にふけっていたので気づきもしなかった。
何処から入り込んだのか珍しい一匹の蟲(むし)。蜂のようにも蜘蛛のようにも見えて、頭の部分には闇の中でもギラギラと光る黄金(きん)色の4つの眼と4本の牙が突き出た大きな顎があり、8本の黒い肢(あし)が生えた胴体部分には毒々しい赤色と紫色の禍々(まがまが)しい斑(まだら)模様がある。何とはなしに不吉な感じのする蟲がまるでじっと喜多條の様子を窺(うかが)っているかのように暫(しばら)く彼からは死角の位置に停まっていた。
誰かに見られているような気がして喜多條が振り返った時にはもう蟲は何処かへ行ってしまったようで、喜多條は目に見えない誰かに自分の心の中を覗(のぞ)き見られたような不気味な悪寒に身震いしたあと、気のせいか、と一人ごちた。
その夜研究所に深夜まで残っていたのは喜多條一人ではなかったが、一人去り、二人去り、殆どの職員は研究所を後にして帰路につき、偶然にも喜多條とカザリンの二人だけがそれぞれの研究室に居た。
365日24時間常に全職員が各自の研究に専念できるように研究所は最新のセキュリティシステムによって管理されていた。
飲食物の提供や衣類等のクリーニング、施設内の掃除等もロボットやアンドロイド、クローンを利用したサイボーグ等それぞれの職能に特化した人間以外のサービススタッフにより行われていたが、施設内のあらゆる場所にはセンサーやカメラ等AIによる監視が行き届いており何等かの問題が発生した時には人間よりも遥かに高い戦闘能力と防御能力を兼ね備えたサイボーグの保安要員が現場に急行するようにプログラムされていた。
あらゆる事案を想定し、如何なる場合にも十二分に対応可能なように設計され、万が一システムに不具合が発生したとしても、即座に幾重にも準備されたバックアップが起動するように設定されていて、誰もが完璧だと確信していたセキュリティシステムが、その夜に限って全く機能しなかったのは全く想定外のことが起こってしまったからだったに違いない。後に検証を行った時もどこにも全く異常はなく、何故その夜突然機能停止し翌朝になって何事もなかったかのように自然に回復したのか幾ら詳しく調べても全くわからなかったから、そう結論付ける以外になかった。
実際、非科学的な言い方ではあるが、大昔の童話のように魔女の呪いで時間(とき)を止められてシステム全体が眠らされていたのではないかとさえ思いたくなる。
センサーやカメラ等の機器が正常に作動している間は常時点灯しているはずのランプが全て消え、機器の故障等があればエラーを表示するはずのランプは全く点灯せず、鳴り響くはずのアラームも沈黙したまま、まさにセキュリティシステム全体が突如として深い眠りに落ちたかのようだった。
それでもセキュリティシステム以外は全て正常に機能していたし、仮に停電が起きたとしてもこの研究所は常にバックアップとして即座に自家発電による非常電源に切り替わるようになっていたし、そもそも停電が起きたという事実もなかった。
まさかそんな異常事態が起きているなどとは喜多條もカザリンも気づくはずもなかったのである。
セキュリティシステムが完全に沈黙した研究室でデスクトップのディスプレイを見つめ入力されたデータの数値を目で追っていたカザリンの背後にどこからか入り込んで来た件(くだん)の蟲がそっと忍び寄って来ていた。夥(おびただ)しい数字の列に集中しているカザリンの傍らで小さな蟲が音もなくむくむくと巨大化し、体長2mほどの大きさになった時初めてディスプレイに映り込む影でカザリンはその侵入者の存在に気づき、驚いて振り向いた刹那、人間のように2本の肢で立ち上がり胸と腹に相当するであろう胴体から伸びた4本の肢が素早くカザリンの両手足を捕らえ、肩の位置から出る2本の肢が左右からカザリンの頭部を挟み込むようにしてがっしりと押さえて蟲の目線の高さまで持ち上げた。
どういう訳かカザリンは声を立てはしなかったが、仮にあらん限りの声を振り絞って叫んだとしても防音壁に囲まれた研究室の外にその悲鳴が届くことはなかったし、体の自由を奪われて緊急通報ボタンを押すことはできなかったが、例えそれが出来たとしても全てのセキュリティシステムがダウンしている今その通報に応答があるはずもなかった。
蟲がカザリンの首筋に噛み付くと麻酔にかかったように体が痺れて感覚が失われて行った。
恐らく即効性の毒なのだろうが、不思議と目がかすむことも意識が遠のくこともなく、触覚と痛覚が完全に失われただけで、逆に視覚・聴覚・臭覚は研ぎ澄まされたように鋭敏になったために、蟲のグロテスクな姿の細部に至るまで鮮明に目に飛び込んで来たし、幽かな呼吸音のような音さえもはっきりと聞き取れたし、何とも言えない生臭い蟲の体臭が鼻をついて吐き気を催しそうだった。
蟲は頑丈な顎でカザリンの右腕を喰いちぎり、大量の血液が飛び散ってディスプレイもキーボードも血まみれになったが、カザリンは自分の腕が喰いちぎられるのを目の当たりにしても全く感覚がないため現実のような気がしなかった。
蟲が右腕を咀嚼し嚥下すると失われたカザリンの右腕を捕らえていた蟲の肢は退化して胴体に吸い込まれ、同時にカザリンの頭部を押さえつけている右の肢が人間の女の右腕に変化した。同じように蟲が左腕を喰らえばそれを捕らえていた蟲の肢がなくなって頭部を押さえつけている左の肢が左腕に変化し、カザリンの両脚を喰らえばそれを捕らえていた2本の肢がなくなって床に立って体を支えていた2本の肢は人間の女の脚に変わった。
(…妾(わらわ)がこの惑星の高等生物の雌と同化するために、汝(うぬ)の体を申し受ける。汝は知能水準も高く、雄が欲情する資質を備えていると判断した。これより汝の躯幹(からだ)を喰らえば、全ての内臓が、頭(かしら)を喰らえばその貌(かお)も脳も全てが妾と一体化する。汝は妾となり妾は汝となり、妾は汝の肉体(からだ)を得てこの惑星の新しき世の母となる…。)
蟲はカザリンの脳に直接話し掛けて来た。カザリンは口角を歪め皮肉な微笑のようにも見える表情を浮かべた。
(私の身体(からだ)が欲しいのなら奪うがいいわ。身体なんて所詮ただの器よ。)
蟲はカザリンの思考を読み取ると大きく顎を開いてカザリンの腹に喰らいつき腰から下をもぎ取って下半身が人間の女になった。次に頭部だけを残して首から胸を喰らうとあたかも全裸の女性が蟲のマスクを被って仮装したかのような不気味で滑稽な姿になった。
普通の人間ならいかに触覚や痛覚を失っているとはいえはっきりとした意識が残っているのに自分の体が徐々に喰われていくさまを見るなど到底耐えられるはずはない。片腕を失った時点で既に正気を失ってもおかしくないところだがカザリンは全く動じることがなかった。
いよいよ頭を喰われる瞬間カザリンの魂が自ら死を選んだかのように彼女の自我は完全に消失し、誇り高く安らかな笑みを湛(たた)えてそっと瞼を閉じた。
「体は奪われても心も魂も決して譲らない。」
カザリンの表情はそう言っているように見えた。
完全に人間の女性の姿に変化した後の蟲の足元には引き裂かれたカザリンの白衣や割れたブルーライトカットグラスなどが散乱し壁には夥しい血飛沫(ちしぶき)のしみが残され、床一面が血の海と化していた。
栗色のミディアムストレートの髪はゆるくウェーブのかかった血のように赤い色の髪に、灰緑色の瞳は闇の中でもギラギラと輝く黄金色の瞳に変わった以外はまさにカザリンそのものの姿になった蟲は満足そうに笑いながらゆっくりとカザリンの研究室から歩み去った。
いつの間にかデスクに突っ伏して転寝(うたたね)していた喜多條は自分の研究室のドアが開いた音で目を覚ました。
安全上研究所の職員であっても各研究室の入室前には各個人の生体認証によるセキュリティチェックを受けた上でその研究室の責任者の携帯端末に送られる入室許可申請に了承を得なければ無断では入室できないようにプログラムされているはずだが、それもなしにドアが開くのはセキュリティシステムが今は作動していないということだ。そんなことは考えられないし、仮にそうだとしてもこの深夜に研究所に残っている人間は殆ど居ない上に、居たところで喜多條の研究室に用のある者など居るはずはない。
顔を上げた喜多條の視線が捉えたのは全裸の女性のシルエット。最初は陰になっていてよくわからなかったが、光の当たる場所まで歩み寄ったその女の顔を見て喜多條は心臓が止まるかと思うほど驚いた。
「カザ…牟田博士?…いや、違う…。」
喜多條は混乱した。
(俺はまだ夢を見ているのか?)
喜多條は掌で自らの頬を思い切り叩いてみた。
(夢じゃない!?)
女は妖艶な笑みを湛えて喜多條の目の前まで来ると、カザリンの声色で話し掛けて来た。
「どうしたの?喜多條博士。あなたは私のことが好きなのでしょう?隠したってわかっているのよ。だったら私のお願いを聞いて下さらないかしら。私は子供が欲しいの。あなたと私の子供を作りましょう。…ねえ、いいでしょう?」
「違う!…彼女がそんなことを言うはずはない。…貴様は誰だ?何故彼女とそっくりの姿をしている!」
喜多條はぶるぶると首を振りよろよろと後退(あとずさ)りをしながら震え声で言った。
何が何だか訳がわからないが、万全なはずのセキュリティシステムが完全に沈黙し、惚れた女そっくりの姿をした得体の知れない何物かが自分を誘惑しようとしているということだけは確かだった。
女は薄笑いを浮かべて答えた。
「それは誤りではないが正しくもない。妾はあの雌と同化したのだ。汝がカザリン・牟田博士と呼んでいたあの雌の肉体を喰らい、妾はあの雌と一つに融合した。『彼女そっくり』なのではない。妾は彼女、彼女は妾。妾は『彼女そのもの』なのだ。あの雌は自らの魂を滅し肉体を放棄した。よってこの肉体はもう妾だけのもの。ならば妾と契り、仔を生そうではないか。汝が喉から手が出るほど欲していたあの雌の肉体は今汝の目の前に、手を伸ばせばすぐに届くところにある。妾はこの惑星の雄と交尾して仔を産むためにあの雌と同化したのだ。そうすれば妾の望みも汝の望みも同時に叶えられる。お互いにとって損のない話だとは思わぬか?」
喜多條は改めて目の前の女の裸体をまじまじと見た。
細い首、華奢な肩、綺麗なデコルテの下の二つの丸いふくらみ、くびれた腰、すらりと長い手足。
他人に触れられるのを拒むかのようにぴんと固く張りつめた若い娘の肌とは違い、触れれば掌に吸い付くようなしっとりとして滑らかな肌と熟れた果実のような柔らかい肉感。中味は別物とはいえそれは紛れもなくカザリンの体だと思えた。
白衣に包まれたその体を舐めるように見つめ続け、触れたい、抱きたいと願い続けてきた体だった。
どうせ今まではいくら憧れてもカザリンが振り向いてくれることはなかったし、彼女の魂が消えた今となってはもう二度と本物の彼女には会えないし、永遠に彼女の心に想いが届くこともないけれど、せめて魂の抜け殻のこの体だけでも得られるならそれでいい。もしもこの女の誘いを拒めば、他の男にカザリンの体を取られてしまうだろう。それだけは何としても許せなかった。
喜多條は今すぐその裸体にむしゃぶりつきたい衝動を辛うじて抑えた。
今はセキュリティシステムがダウンしているがいつ機能を回復するかわからない。
カメラに裸の彼女と一緒に居る画像でも残っていたらあらぬ疑いをかけられるのは目に見えているし、この女が侵入しカザリンを捕食して彼女の体を奪って俺を誘惑したのだなどと言っても誰も信じないだろう。
「わかった。とにかくここに居てはまずい。俺の家に行こう。まずはこれを着ろ。」
喜多條は白衣を脱いで女の肩に羽織らせ、サンダルを脱いで女に履かせた。男としては小柄で痩せた喜多條の服や靴のサイズは女性としては少し背が高いカザリンの体になら大きすぎることはないはずだ。喜多條は通勤用のジャケットと革靴と鞄をロッカーから出して来て自家用車のキーをポケットに入れると左手で女の右の手首を掴んで言った。
「一刻も早く研究所を出なければ!」
喜多條は研究所の職員用駐車場に行き、自分の車の助手席に女を座らせて車を発進させた。
車が橋を渡り左折して側道に入ると喜多條は少しだけ安心した。
「お前、名前はあるのか。」
喜多條が正面を向いたまま女に訊ねた。
「妾には名などない。生まれてすぐに冷凍睡眠カプセルに入れられ、カプセルの中で脳に直接流れ込む教育プログラムを聞かされながら自動操縦の船で宇宙を彷徨ってきた。我が種族と失われし惑星ヴェスパの歴史や次の女王となるために必要な知識を習得し、妾の使命を果たすためにこの惑星に来た。」
女は幼女が自らのことを問われたように真顔で教育プログラムに刷り込まれたままの口上を答えた。
「名前がないと不便だな。…ケイト…カザリンがごく親しい者にだけ呼ばれていた愛称だ。今からお前の名はケイト。それでいいか。」
「ケイト。よかろう。名など単なる個体識別のための符号に過ぎん。汝の好きなように呼ぶがいい。その名を妾のこの惑星での呼称としよう。」
喜多條は張りつめていた緊張が解けたのか急に笑いだした。
「何か可笑(おか)しいか?」
「もう少し女らしい喋り方をした方がいい。彼女に化けて俺に近づいた時のようにな。」
喜多條は真顔で答えた。
女はふっと笑った。
「なるほど。雌らしくないとこの惑星の雄は欲情しないということなのね。あなたの思考や感情は読み取れるから嘘や隠し事をしても無駄だし、回りくどい建前も必要ないわ。口に出さなくてもあなたの本音は筒抜けだと思っておくのね。」
ケイトはカザリンの声と口調でそう言った。
喜多條はあやうく今助手席に座っているのがケイトではなくカザリンなのではないかと錯覚しそうになった。
しかし本物のカザリンなら「雌」だの「雄」だのという単語は選ぶまい。残念ながらこの女・ケイトはやはりカザリンではないのだと今更ながらに思い知らされた。
喜多條の自宅は街外れにぽつんと一軒だけ建っていて、近隣の家ともかなり離れていた。まるで世間に背を向けた隠れ家のように。
喜多條はケイトを浴室に連れて行き返り血を浴びた体を丁寧に洗ってやった。
きめ細かな肌はぴちぴちと水滴を跳ね返し、入浴後の肌の上を転がるように水滴が流れた。
髪から落ちた雫は肩から胸の谷間を滑り落ちて行った。
「欲しい?」
ケイトが目を細めて喜多條の表情を窺いながら訊いた。
「私が欲しいのでしょう?」
喜多條は言葉が出なかった。どうせ心の中は読まれているから何も言わなくてもケイトにはわかっているはずだ。
ケイトは喜多條の体が既に反応していることもわかっていると言いたげに視線を喜多條の下半身に向けた。
「子供を作りましょう?」
ケイトは裸のまま両腕を喜多條の首に巻きつけ胸の谷間に喜多條の顔を押し付けた。
「私とあなたの子供が欲しいの。」
喜多條にはケイトが惑星外生物であることなどもうどうでもよかった。
「ケイト…。」
それはケイトと名付けたこの女を呼んでいるのか、カザリンの愛称を呼んでいるのか喜多條自身にもわからなかった。
「おいで。ベッドルームへ行こう。」
喜多條はケイトの手を引いてベッドへと誘った。
ケイトをベッドに仰臥させて喜多條も全裸になった。
ケイトは妖艶な笑みを湛えて喜多條を見上げて艶めかしい声で囁いた。
「来て。あなたは私が欲しかったのでしょう?私もあなたが欲しいわ。さあ。」
喜多條はわあっと叫んでケイトの上に覆いかぶさった。
柔らかなケイトの唇にかさかさに乾いた自らの唇を押し当てると、ケイトの尖った長い舌が喜多條の舌に絡みついて来た。
2つの丸い膨らみの先端は硬く隆起している。
手を伸ばして下腹部を探るとケイトは大きく開脚して湿潤した粘膜が顕(あらわ)になった。
もう理性は働かない。ただ本能のままにケイトの体を貪(むさぼ)った。
喜多條が果てたあと疲れきってぐうぐう鼾(いびき)をかいて眠ってしまった喜多條の寝顔を見ながら勝ち誇ったような笑顔を浮かべて呟いた。
「妾が孕(はら)んだのが雄の仔ならばこの喜多條という雄も用済み。餌にして喰ろうてしまおう。
その仔が生まれれば我等ヴェスパの民とヒトとの間にこの惑星の新しい種が誕生する。
雄の仔とこの惑星の雌どもとを交尾させてたくさん仔を産ませる。
不用の者は皆我等の餌にすればよい。
仔の遺伝子が皆同一では環境変化や感染症等に見舞われて全滅するやも知れず甚(はなは)だ心許(こころもと)ない。
妾は他の遺伝子を求めて別の雄を探して交尾し、その仔がまた雌と交尾して仔を産み、この惑星に我等の仔たちが根付く。
この惑星の新しき世の母・最初の女王となる妾の使命がもうすぐ果たされるのだ。」
ケイトの腹が見る見るうちに膨らみすぐに臨月の妊婦の腹ほどの大きさになった。
ケイトはベッドを降りて何かを探すように辺りを見回しながら家の中をうろついていたが、ふとリビングルームの何かに目を留めてニヤリと笑った。
ケイトの視線の先には分厚い本が山積みにされたソファー。本の重みで座面と脚の下の絨緞が凹んでいる。恐らくは簡単には動かせないほどの重量になっているのだろう。
肘掛けのついた側面の下に覗いているソファーの脚の幅はケイトの肩幅よりも少し広いくらい。ケイトはその脚の間から半ばソファーの下に潜り込むように仰臥して両膝を立てた状態で開脚した。両肘を曲げて頭の斜め後方にあるソファーの脚をぐっと握ると少し背を反るようにして思い切りいきんだ。苦痛に顔を歪め、額に脂汗を滲ませながら歯を食いしばり何度かいきむうちケイトの両脚の間から赤黒い丸いものが覗き始めた。
呻(うめ)き声を上げ終にケイトが産み落としたもの。血と粘膜にまみれたそれは長径が30cmほどの楕円形で、表面に張り付いたぬめぬめとした膜がところどころ破れかけていて、毒々しい赤色と紫色の禍々しい斑模様のついた卵。擦り硝子のような半透明の殻の中にぼんやりと映る仔の影は人間の胎児のように体を丸めたままもぞもぞと体を動かしているように見える。
荒い息をしながらケイトは薄く目を開けて自らの胎内から床の絨緞の上に産み落とした卵を見つめ満足気に微笑んでいた。
「宿命(さだめ)の仔よ。母と共に我等の新しき世、新しき故郷を作り上げようぞ。」
(つづく)