「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
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タツミヒメの話

2019-02-11 07:30:59 | 日記
タマヨリヒメの次は、タツミヒメの話ですね。


京都の旅の1日目に行った鞍馬寺の放生池(ほうじょういけ)の白い鯉が、タツミヒメだとスサノオノミコトに言われました。
タツミヒメも、スサノオノミコトの子供だという話でしたね。

タツミヒメは、巽弁財天(たつみべんざいてん)のことだったようです。


2月2日にそのことを聞いていました。


タツミヒメです。

今はどこにいますか?

今はあくえりと一緒にいますよ。

祇園白川にいたのですか?

白川にいたのです。
巽弁財天は、後からです。
白川にいて、(源)義経様が好きでした。
静(御前)の中にいました。
京の五条の橋の上に、いつもいた義経様はカッコ良かったです。
欄干の上に乗って、ヒラリヒラリと飛んでいました。
弁慶は、それを見て敵わないと思ったようです。
弁慶にはサナトクマラが入っていましたからね。


地図で見ると、五条大橋と祇園白川は、近いのです。



源義経と弁慶の出会いは、やっぱり五条の橋の上だったのでしょうか、、、


調べると、五条大橋はこの時とは違う場所のようですね。



『義経記』を基に書かれたとされる御伽草子『橋弁慶』や謡曲の『橋弁慶』には“五条の橋”が登場するのですが、どうも童謡はこの『橋弁慶』を参考にして作られたようで、それで“京の五条の橋の上”というフレーズになったわけです。
『義経記』よりも、童謡『牛若丸』や謡曲『橋弁慶』の方が広く知られているので、通説として義経と弁慶の出会った場所は五条大橋だということになったのでしょうね。



現在の五条大橋と河原町五条交差点の間の中央分離帯に義経(牛若)と弁慶の立ち回りをイメージした石像が置かれていますが、五条大橋は1590(天正18)年に鴨川の上流にあった橋を豊臣秀吉が今の場所に移築したもので、義経と弁慶が生きた時代には五条大橋はまだ存在していなかったのです。


調べると、今の松原橋の辺りだということで、祇園白川からはもっと近いですね。



五条大橋を今のところに移したのは、京都の旅の2日目に行った、方広寺にあった大仏のために、豊臣秀吉が作ったそうですよ。


タツミヒメの話の続きです。


(義経が)東北に行った時は、淋しかったです。
私は、京都御所の辰巳の方角ということで、辰巳大明神と言われていましたが、鞍馬寺の巽弁財天になってから放生池の底にいました。
だから、待っていたのです。
静(御前)のカケラの入った人が来て、伏見の酒をくれたら出られると、言われていました。
今回のことは、かつて何度も伝えられてきたのですが、何かが足りなかったのです。
強くなったのは、友達の輪が出来たからですよ。
一昨年のサナトクマラのことがなければ、今回はなかったでしょう。
全部が繋がりの話ですよ。
連携が大事ですね。
ありがとうございます。
M子さんが、繋いでくれたから、、、
疑いがないのが、いいです。



私は、やっぱりずっと続きの話だったのだと思いました。
Iさんが、命懸けのように行った一昨年の7月7日の鞍馬寺の話は、私が行くことで完結したようです。

🐷鞍馬徒然 2


ただ、私が一人で行ってもダメで、あくえりさんとミワンちゃんが行くことが大事だったみたいですね。

今までも、そしてこれからも、神様達が言ったことを、みんなに伝えて新たな物語を作っていければと、思っています。
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