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石原延啓 ブログ

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「翁」と正月

2010-01-13 15:10:39 | Weblog


成人の日、1月11日にここ数年の宿願であった能「翁」鑑賞を果たした。
数年前に正月元旦の朝NHKで「翁」を放映しているのをTV番組欄で発見してはいたのだが、
大晦日に飲み過ぎて起きられなかったり、VTRを撮り忘れたりで見損ねていた。
昨年の元旦は見事に朝目覚めて勢いテレビをつけてみたならば、残念ながら演目は「高砂」に変更されていた。そして今年の正月は「屋島」ときたもんだ、残念。
それならばいっそ観にいってやるぞとネットで調べて本日の梅若研能会の主催の演目を観世能楽堂へ赴くという運びになった次第。
開演を待ちながら能関連書籍の売店を冷やかしているといきなり和服の女性から声をかけられる。誰かと思えば旧知の大倉正之介(大鼓・大倉流)さんのご夫人だった。ネットではただ翁と日時で検索して予約をしたもので出演者の名前までチェックしておりませなんだ。なんだ大倉さんも出演されているのか。
さて、演目の方はと言うと、やはり期待通りの摩訶不思議なものであった。
事前に調べたところによると「翁は能にあらず」と言う通り、ストーリー性はなくて多分に儀式めいている印象を受けた。現存する能楽の演目の中では最古のもので申楽の名残を強く残すと言われているが、確かに超越したものに対する奉納の意味があったというのもうなずける。中世の日本では、今では想像出来ないくらい神と人との距離が近かったのであろう。
しかしながら相変わらず能というのはまったりとしていて眠たくなる(誤解がないように付け加えるが鑑賞すること自体は面白いのだ、本当に。でも、どうしても、必ずどこかでもの凄い睡魔に襲われる。それが能なのです!)
そこで一発目覚めの一撃。我が大倉正之助大兄の大鼓がカーンと鳴り響く。私のような素人が偉そうに言うことは憚られるが、久しぶりに聴く大倉さんの演奏は、以前と力強さは変わらぬにせよ、のしかかってくるような迫力がそのまま腹の中に収まって、より熟練されてきたように思われた。(私の狭い視界の中だけでも、大倉さんのカーンで居眠りから目覚めた人が三人、居住いを正した人が五人はいた。)
面白かったのは三番叟で狂言師が舞うところと、彼がかぶる黒い面。ここら辺りにも深ーい意味がありそうだ、調べておこう。
いずれにせよ楽しみにしていた「翁」には年の初めに観るにふさわしい「祈り」のようなものを感じて、新年の能楽鑑賞を毎年恒例化しても良いかなと思うほどに満足した。

先じて出かける前に自宅のトイレで朝刊を読んでいて日本の正月の持つ意味について興味深い記事を読んだ。
筆者である経済評論家・佐伯啓思氏曰く『少し前まで正月三が日は店という店は全て閉店して神社寺院以外は全く人一人歩いておらず、家々には門松が飾られ日の丸が立てられていた。そういうひとっこひとりいない死んだような町に出るのが好きで、すべてが一瞬にして凍結されたような町の真っ白な感触が好きだった、そしてすべてが停止した正月三日間のみそぎをへて、確かに年が改まりすべてがリセットされる気がしたものだ』という。
『年が改まるということに何の意味があるのかと言えば、特別な意味は何もない。時間は何事もなく流れ、日常生活はただ続いて行くだけだ。それにもかかわらず、人はあえてそこに新たなものの始まりと、それを始める決意を与えようとした。そのためには正月三日間の空白という「けじめ」が必要だったのだ』と筆者は言う。
『我々の生活の中にはさまざまな「型」がある。正月には正月の「型」があり、盆には盆の「型」がある。「型」を守るところに「けじめ」がでてくる。「型」はたいていの場合、慣習であり、特別に合理的な理由は存在しない。』
けれどもそれは形式的な約束事に過ぎないとは言い切れず『この慣習を守ることで人々は昔の人が持っていた思いを追想し心を正すことができるのである。』
そして『その「型」がどんどん崩れつつある。それを崩してしまったものは近代社会の合理的発想であり、個人の自由から出発する近代的価値であり、さらには便利さを追求する我々の生活意識とそれに便乗する経済的利益主義である』と筆者は嘆いている。

若い人の誰もがそうであったであろうが、私もまた、実家で過ごす正月休みの数日間が苦痛であったくちだ。おせち料理で食べられるものはごまめと卵焼きくらいで雑煮ですら普通の餅で食べた方が美味いと言って食べなかったし、観るテレビ観るテレビ面白くなくて心底退屈仕切っていた。成長して運転免許を取得してからは友人たちと大晦日から出かけて帰らず、一人暮らしを始めてからは正月早々飲んだくれ、佐伯氏が「正月の真っ白な空白をモノで満たそうとする経済的利益主義」と忌み嫌う大規模店舗のスーパーが正月二日から営業開始した時には「まともなつまみが買える!」と拍手喝采したものだ。

しかし今、おせち料理が美味く感じるこの齢になり、佐伯氏の言いたいことは良く分かる。かつて宮古島の伝統的な祭「イザイホー」の記録映画を観た時にも似たような感覚を味わった。理屈では説明出来ないこと慣習に大真面目に倣うことで確実に空気は変わる。
変わるのは気持ちなのかもしれないし、大脳の中を流れる電気の方向かもしれないが、まあその辺りはどうでも良い。とにかく空気とか場が変わるのがポイント。

私はかつてアートをやってみたいと思い始めた時に、既成の旧いものに唾を吐きかけるとは言わないまでも、その全てを否定し、そこから切り離されて自由になりたいという衝動にしばし陶酔したことがある。当然そこでは「型」など真っ先に捨て去られるべきものであった。
でも、本当はそんなことはどうでもよいのだ。「型」に倣うとか「型」から開放されることが重要なのではなくて、大切なのはその時その場に確実に存在する感覚を掴むことなんだよね。但し、そういうことを感じる慣例や機会が失われつつあるというのならば、それは非常に残念なことである。
佐伯氏のコラムは自由主義経済による世界のグローバル化は正月休みという日本人にとって貴重な非日常という空白までもモノ(拝金主義)で満たそうとするのか!?(怒)というひとつの警笛なのでした。

しかしながら若い頃は元旦の朝に何か面白い番組やっているかとテレビをつけたならば能楽の「イョ~ォ」が流れてきて閉口したものだが、今では同じ自分が正月の能楽鑑賞を楽しみにするようになった。「嗚呼、やはり俺も齢をとったのかなあ」と改めて思った。

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