石原延啓 ブログ

seeking deer man

nobuhiro ishihara blog 

大阪の二幼児死体遺棄事件

2010-07-31 09:39:28 | Weblog
育児が嫌になった23歳の母親に3歳と1歳の幼児が置いてきぼりにされて餓死したという。
殺伐としたニュースが続く昨今だけれども、これほどショックを受けやるせない気持ちにさせられたことはない。
語弊はあるけれどもDVで殺されてしまった子供達の方がまだ少し救いがある気がする。
多分に歪んだ形にせよコミュニケーションが存在し、少なくとも最後まで目の前に親がいて懇願することができたから。
いや、いずれにせよ救いはないか。。。

件のアパートでは尋常でない泣き声が続き、やがてなくなり異臭が漂うようになったという。
近隣の人々が何度か通報したというが、なんとかならなかったものだろうか。
子供達が食べものも空調もない中、飢えと暑さに苦しみながら徐々に死んでいく様を地獄絵と言わずして何だろう。
同じような年頃の子供を持つ親として想像だにできない、あまりに酷い。
胸を痛めながらただただ成仏を願うのみです。
天国があるのならば、せめてその場所で安らかに過ごして欲しい。合掌

オープニング×2

2010-07-24 00:28:38 | Weblog


W杯予言タコのパウル君に引き続き、今度は北九州地域に猛毒を持つヒョウモンダコが来襲ということでタコネタには事欠かない昨今ですが、今日は森美術館「ネイチャー・センス」展とncaの「石黒屋」展のオープニングへ。

森美の方は吉岡徳仁、篠田太郎、栗林隆による大がかりなインスタレーションの三人展。
栗ちゃん、やったね!
昔ながらの仲間がこれだけの規模の展覧会を実現するってのは本当に嬉しいです。
評価を受けていた既成の作品の焼き直しではなく、重圧のかかる中で新しいチャレンジをした栗林に脱帽。
ただし片岡さんを始めスタッフはあせっただろうな~。
その心労を想像すると頭が下がる。



石黒屋には昨秋の自分の展覧会を手伝ってもらった。
彼にとっては東京での初個展。真面目だがごっつう頑固な男で色々悩んだようだが間に合って何より。
朝に電話をもらって「何とかやり切ることができた」と言うから、それに越したことはない。
職人芸とも言うべきインスタレーションは圧巻。


東京だけでも数多の展覧会が同時進行していて、美術関係者にとってもそれぞれがアッという間に過ぎ去っていってしまう。
しかし展覧会当事者にとっては悲喜こもごも人生の大きな節目な訳です。
一観客ながらアーティストと直接の関わり合いがある私にとってもまた然り。
それにしても、ネイチャー・センスみたいな展覧会が森美みたいなところでどーんと催されるようになったのには隔世の感がある。
ワンダーサイトの「アウト・オブ・ブルー」展などが少しでもその先駆けになったのだとしたら嬉しい限り。
オープニングは相変わらず苦手だけれど久しぶりに会う人もいるので、そこは嬉しい。

「ネイチャー・センス」展>> http://www.mori.art.museum/contents/sensing_nature/index.html
「石黒屋」展      >> http://www.nca-g.com/exhibition/

twitterに登録しました

2010-07-22 15:09:23 | Weblog


先日ブログのアクセスが増えたのは、たまたま友人がtwitterに私のブログをリンクして、彼のフォロワーが覗いてみたというのが原因らしい。よく考えたらタコのパウロをパウルに書き換えただけでアクセスが増える訳ないか。
社会についていけてない自分にあきれます。

twitterってのはどういうものなのか知らなかったのだけれども、友人に誘われたのを機会に他の友人たちの分も含めて覗いてみた。
有名人のつぶやきをフォローするのは分かりやすいけれども一般の人はどのように使っているのだろう?
つぶやきでは短文だけれども、フォローする人される人が増えると画面上には複数の情報が氾濫することになる。それ等を取捨選択しながらコミュニケーションを続ける(あるいはそれっきり)のだろうけれども、ある程度話題を共有している人たち同士や普段忙しくて会う事の少ない者同士が気軽に通信するのには便利なんだろうな。

以前に能のナラティブについて調べていた頃に勧められた谷崎潤一郎の「芦刈」を今読み始めたのだけれど、冒頭に主人公が古典「増鏡」などの記述をたよりに後鳥羽上皇に思いを馳せながらその別荘のあった京都近郊を歩く。
鎌倉幕府にたてついて承久の乱を起こした、あの後鳥羽上皇ですよ!
ほとんど中学高校の日本史の授業の世界だけれど、一昔の日本人はそんな昔にあった人物や出来事に親近感、臨場感を持ち合わせていたものなのだろうか?
松岡正剛が「日本流」の中で、昔の日本の教養人たちは万葉集とか古今和歌集とか限られた数冊の古典から引用を繰り返しながら無限の世界観、宇宙観を紡いでいた、みたいなことを書いていた覚えがあるけれども、対して現代日本人はどうであろうか?
確かに情報は横へ横へと無限に広がりをみせてはいるけれども、それは大部分表層的なもので深いところに井戸を掘って行くような行為とは別物だろう。

人々を支配し、また人々が頼っていた旧いシステムから解放され、個人が個人として本当に独立する方法を探求している時代をモダンとするならば、同時に今、人々は深いところで結びつくことのできる新しい「何か」を模索しているとも言える。
それにしても「アバター」のように髪の毛をピッと樹木のどこかに差し込めば惑星全体と繋がってしまうっていうのは解決方法としてはイージー過ぎるよなあ。


夏といえば海、ですか?

2010-07-16 14:51:57 | Weblog



ここ二日ほど更新もしていないのにブログへのアクセスが平均の倍くらいに増えている。
私のへたくそな文章にお付き合い下さる奇特な方は限られているので不思議な現象。
そこで思い当たるのが予言タコのパウル君。
相変わらずW杯関係のニュースをチェックしていたら、日本語表記はパウロ君ではなくてパウル君らしい(どっちだって一緒だと思うけれど。)そこでもって三日前に1週間前のブログを直しておいたんだけれど、きっと世の暇人(私の同類)たちが旬の話題である「パウル君」を片っ端から検索して、ウェブ末端の私のブログまで辿りついたのではないかと推測する次第。
なんだか凄く不毛な話だなあ。

そういえば今朝テレビを見ていたら、来るべき海の日にちなんで「海は好きか?」というアンケートをとったらしい。
大体70%の人が「好き」と答えたらしいのだけれど、68%の六十代の人が海好きであるのに対して、海好きの十代の若者は58%にすぎなかった。
司会者が「近頃の若いものは、、、」という含みを残してCMに移ってしまったわけなのだけれども、そういえば俺って若かりし頃は海好きだったかな?
どうだろう?
学生時代は水球をやっていたので休みにプールや海に行きたいと思わなかった。
悲しいかな女の子と海に泳ぎに行った経験もない。
いや待て、ドライブとかで海には行ったな。やはりデートにウォーターフロントは欠かせない、そういう意味では嫌いなはずはない。
質問は「海で泳ぐのが好きか?」とすべきだな、ここははっきりさせた方が良い。
すると自分の場合はとたんに怪しくなる。
芋洗いは嫌だし、ベトベトするのも嫌だし。
南の島のリゾートとかなら完璧yesなんですけれど。。。
ここで先のアンケート結果を聞いて「近頃の若いもんは」と一瞬でもちらりと思った自分を反省。齢をとって嫌なオヤジになりつつあるかも。
今の若者は「夏=海」みたいなムードに流されず、意外に自分の好き嫌いをはっきりと持っているだけかもしれないからね。

そもそも海辺で生まれて海を見ながら育ったので、海があるのが当たり前だった。
そしてどんなに暑くても疑いなしに夏は大好きだった。
30過ぎて東京に越すまでの数年間は波乗りにはまっていたのだけれど、たまに海に入って沖合で波待ちしながら陽の光を浴びていると、思わず「気持ちイイな~」と声に出してしまうくらい海は常に何かを与えてくれた。
そう、すっかり忘れていました。波乗りした後にポリタンクの水被るのも気持ち良かった。
海で泳ぐのは最高です。

親父や兄貴たちが「潮気が抜けたらいかん」と忙しい中でも無理に時間をつくって海へ赴いていたのも分かる気がする。
梅雨も明けたようだし、息子を海へ連れていってやることにするかー。

聖パウル

2010-07-09 23:47:39 | Weblog



ワールドカップ関連のニュースから目が離せません!
聖書の神から解き放たれ、封建制の呪縛から逃れた個人が新たに繋がれる何かを探す旅がモダニズムの歴史とするならば、帝国主義やらファシズム、二度にわたる大戦や冷戦を経て私たちは新しい神を得た!
名前はパウル君。
それにしてもドイツ戦の勝敗当てクイズで全勝は凄すぎる。
明日の3位決定戦はドイツの勝利、明後日の決勝はスペインの勝利とのご神託、その真偽は如何に!?
それにしてもサッカーは凄い。
経済学者がドイツのW杯優勝に世界経済回復の望みをかけたり、パラグアイの美しすぎるサポーターが(なぜだか)胸の谷間にノキアの携帯を挟んでチームの動向に熱狂したり、それを見て世界中の男どもが興奮したりと、一体なんだってんだ。
確かにWBCイチロー松坂の活躍も良かったけれど、やはり野球は世界のマイナースポーツ、所詮アメリカングローバニズムの傘下にすぎん。サッカーはシンプルなスポーツだから世界的に盛り上がるのかな?
個人的にはメッシが新しい神になってマラドーナ伝説を引き継ぐのを期待していたのだけれど、パウル君に会えたから、まあいいか。
あとは何とかドイツに3位入賞してもらって、新しい神様がサメの水槽に放り込まれたりサラダにされたりしないようにお祈り申し上げるばかりです。

日本代表ベスト16で散る!

2010-07-01 13:29:27 | Weblog


ボイスの本に関連して河合隼雄と村上春樹の最初の対談における近代的自我の話やらネットで拾った「中世後期の戦士的領主階級と狩猟術の書」という論文、更には「ケルトの宗教 ドルイディズム」や未読だった「聖地の想像力」、ハイネの「流刑の神々」などなど活字中毒でもないのに読みたい本が山のような昨今。おまけに2月にオーダーしたユングの「赤の書」(重さ3kg?)がやっとこさ届いてドカンと机に積んである始末。

しかし今、日記に書いて記憶しておかねばならないのはサッカー南アフリカW杯日本代表の戦いぶりと日本国内の熱狂についての考察でしょう!
PKを外した駒野を抱きしめる中沢や松井の姿に涙し、父親も観たことがないというクールな遠藤の涙にもらい泣きした後にうむむと考える。
サッカーオタク的に検証したいことは数多いけれども、ここで注目したいのは今回の熱狂を通して見える私たち「日本人」です。そしてこの日本代表チームはいみじくも、沈滞してしまっている現在の日本が目指すべき方向性、可能性について、ヒントを与えてくれているのではないかと勝手に思う訳です。

今回は2回も勝ってしまい決勝Tに進んだことが列島熱狂の一番の要因だけれども、やはり皆が胸を打たれたのは日本代表チームの団結力と燃え尽きるまで戦い抜いた姿勢でしょう。

以前私は中田英寿という選手が大好きだった。彼は湘南ベルマーレの若手選手の頃から誰よりも頑張っていたし、現役最後となった2006年独W杯ブラジル戦でも一番最後まで戦い抜いていた。しかしリスペクとされつつも一人浮いてしまっていた印象だし、最終的に皆が納得する結果が出なかった。
なぜだろう?
思うに彼は欧米人と同じように(良い意味で)個人主義者であり、自分の為に戦い抜くのは当たり前であり周囲にもそれを要求していた。
ここで98年仏ワールドカップの思い出。イタリアーフランス戦だったかな、凄い緊迫した試合で確かPK戦で決着がついたのだけれども、90分終わると足がつる選手が続出して、それでも延長に入る時に彼らは内なる闘志をみなぎらせながらひとりひとりで淡々とピッチへと戻っていった。この光景を観たTVの解説者が感銘を受けながら「こちらの選手は戦うのが当たり前だから円陣を組んだりする必要がないんですよね」と言ったセリフが忘れられない。
中田はこのような姿を理想としていたのではなかろうか。
しかし残念なことに岡田ジャパンの団結力と比較して2006年のチームが内部で崩壊していたという各報道を通しても想像できるけれど、それが受け入れられていたとは言いがたい。
日本人にとってはやはり今回の代表チームのように「円陣」を組んで「皆」で戦う方が力を発揮出来るのだ。
「自分(個人)」の為よりも「チーム(組織)」の為により頑張ることが出来るのだ。
そして人々は無私の心でチームの為に戦う姿に熱狂する。

今回の躍進は多分岡田監督によるチームへの精神的なマネージメントの成功によると思う。
この、チームの「団結」こそ日本人が輝きうる特性のひとつではなかろうか。
観客である私たちもまた自分を殺して「チームの為に」戦い抜いた選手たちに拍手を惜しまない。中田のような突出したヒーローの出現を待ちつつも「彼のお陰で」という図式より「皆で勝ち取った勝利」とか「あのヒーローが献身的に」みたいな方を好む傾向があるだろう。

ここ数年の間「自由」とか「リベラル」とかについて考えることが多い。
特に目から鱗だったのが華道家・故岡田幸三先生との出会いだった。先生は池坊という伝統でがんじがらめの塊みたいな場所で人生の大半を過ごされながら、常にチャレンジングでクリエイティブであり、その魂は本当に自由であられた。
自由とは誰かが用意してくれた体制やら論理ではなく、各々の内側から醸し出される躍動したエネルギーのようなものだとすれば、人間が輝いて見える状況こそ重要だろう。
自由を唱った2006年のジーコジャパンが消化不良に終わり、攻めを捨てて規律を守ることに重点をおいた超守備的な岡田ジャパンに魂の躍動を感じたのは皮肉だが、学ぶ点は多い。

友人のエドガーは、日本人は個人の成功とかに対してではなくて社会的なファンクションが機能することに忠誠を尽くすと言っていたけれど、それは昔は「家」であったり「殿様」や「藩」であったり、一昔前は「会社」であったりした。今の日本人は何に対して自分の人生を捧げるべきか?
個人の幸せを誰もが求めるが、「自由」にそれをやっても良いと言われると意外に難しいものだ。
どうも日本人のイメージする「自由」「リベラル」「個人」などの言葉の意味は西洋人の考えるそれとは似て非なるものであるような気がしてならない。

福澤諭吉は「独立自尊」を唱えたけれども、グローバル化した現在の世界を眺めるにつけ、今改めて何と言う素晴らしい言葉だろうかと驚いてしまう。
試行錯誤しながらも「日本らしさ」を見つけつつあった岡田ジャパン。もう少し観たかったけれど、私たちに何かを残してくれたのは確かだろう。
繰り返しになるけれどサッカーオタク的には突っ込みたいポイントは多々ある。でも良いもの見せてもらって多謝多謝。

冒頭のように読みたい本が目白押しなんだけれども、このにわかサッカーブームで何故だか実家に前代表監督のオシムさんの本が置いてあってついつい手に取ってしまう。
何なに?リスクを負って攻めるべき? う~ん