
月曜日に東北大震災に見舞われた大船渡にボランティアで入り、昨日遅くに帰宅。
今回はご本人のご実家も被災されたワンピース倶楽部の石鍋さんの呼びかけもあり実現した。
アーティストとして現地で何が起っているか知らなければならないと思いつつも、
自分個人が現地で被災した方々に一体何ができるのか?それはただの野次馬だろう、という葛藤があり躊躇。
しかし、石鍋さんの「報道だけでは復旧すればいずれ忘れられてしまう。今、現地で何が起っているかを実際に見て欲しい。
とにかく思い切って来て下さい」という言葉に後押しされて東北へ向かう。
かつて何度か訪れた東北行では白河の関を越えると空気が妙に澄んできて「ああ、陸の奥に足を踏み入れた」と思ったもの。
しかし今回は突然東北道の路面がデコボコしだしたことに気づかされた。
仙台を過ぎると道路と道路を繋いだ部分が盛り上がり、ちょっとしたジェットコースター気分を味あわされる。
まだ全線開通して間もないから2車線のうちひとつを工事している箇所も沢山。
あと、自衛隊の車と物資を輸送する大型のトラックも多く目についたかな。
ジェットコースターのモワンを繰り返した後、東北道を一関インターで降りて国道を気仙沼、大船渡方面へ向かう。
スーパーも開いているしライフラインも戻っているので食事等の心配はないとのことだが、途中念のために最低限の食料や水を購入。
ところどころで壁が崩れたり道路の補修工事が見とめられるものの、目立った異常はないように見える。
道中の牧場や満開の桜をみていると、あまりののどかな風景に本来の目的を忘れて観光気分になってしまう。
石鍋さんからは住所と大まかなアクセスしか聞いていなかったので、7年前のボロカーナビに従い車を進めると、
いよいよ気仙沼、陸前高田、大船渡などの地名を見つけ緊張する。
すると遠目にいきなりオレンジ色に錆び付いた鉄骨の瓦礫が目に入ってきた。
後で聞いた話では、気仙沼では大きな火事があったとのこと。
火事後の鉄骨は塩気にさらされてすぐに錆びが来てしまうらしい。
時刻は5時を過ぎて自衛隊の車が続々と引き上げてくる。
その量に事態の深刻さを垣間みるが、道に不案内な私はともかく先を急いだ。
明らかに水が来たと思われる地域を通り抜けるとすぐに、国道は山へ登ってゆく。
気づくといつのまにか車は私だけになっていた。
ボロカーナビはこの先通行止めを標すが、対向車が来るのを頼りにとりあえず進んでみる。
そして陸前高田に入り、開けてきた風景に私は絶句させられた。
大きな建物のない陸前高田の津波被災地は広大な更地になっていた。
そこら中に転がる車は破壊されつくして原型を留めていない。
全てが徹底的に流された彼の地では人の姿は見とめられずに、カラスやカモメが空中に円を描いていた。
私は何となく疫病で亡くなられた人が打ち捨てられた日本の中世の河原を思い起こす。
これはもはや現実の世界ではなく、死の世界との境界に足を踏み入れているのは間違いないと思った。
カーナビが標す湾を横切る大橋は津波で見事に寸断され、それを避けて車を奥へ進めても川を越えて向こう岸へ渡れそうにない。
心細くなりつつも他の車が瓦礫を無理矢理寄せて出来た一方通行路を行くのについていくと、上流で大船渡側に渡る事ができた。
高台から大船渡の湾を見下ろす石鍋さんの山荘につくとあまりに美しい風景に驚かされた。
被災した場所まではかなりの距離があり、これから見ることになる惨状などは想像できぬ絶景。
そうこうするうちに石鍋さんたちが戻って合流し、一緒に大船渡の被災エリアへ向かう。
大船渡の被災状況は陸前高田とはまた違って瓦礫の山、山、山。
昭和35年に石鍋さんのお父様が設立した産婦人科の病院を見る。
「これは2階部分だけれど、あそこに見える線路の向こう側から流されてきたのよ」
という言葉に思わず息を飲んだ。
(写真右部分が被災した石鍋さんのお父様の病院。瓦礫の奥では例年と変わらずに桜が美しい花を咲かせている。)