10日ほど前に第二子(娘)が生まれた。名前もようやく決まり、女房から「お七夜までに命名書を書いておいて」と頼まれた。
さてと。字がヘタクソな私にはあまり気が進まない役目である。
今回はなかなか名前が決まらず最後に私の案と女房の案との一騎打ちになった。どちらも捨てがたいが、最終的に音の響きと新旧両方の字画が良い女房の案を選択した。~という訳で自分の意見が通った長男の時に比べて思い入れも少し弱い。更に男兄弟の中で育ったせいか女の子と言われてもピンとこない自分がいる。うまく書けるかな?
正攻法で書いてみてもどうせ格好がつかないので、かつて自分の身体感覚を意識したドローイングのシリーズを作っていた頃を思い出しながら下手なりに始めてみる。すると不思議なことに何枚か書いているうちに「優しくて」「おおらかで」「堅実で」みたいなイメージがどんどん湧いてきて、十数枚書いた後にシンプルな書体に落ち着いた。長男の時は男らしい奔放な字になったのに随分違うなあと思った。
書いている時、奇妙なことに原始の呪術的な儀式をやっているような錯覚をおぼえた。
まだ軟らかくて固まりきっていない生命体に何かしらの名前を「つける」ことで、初めて人間としての体裁が整う。私が命名書を試行錯誤しながらイメージを固めていくにつれ、フワフワ生命体だった彼女(娘)は徐々に現世に縛りつけられていく訳だ。良く考えるとこれは凄いことで、彼女の人生はまず最初にここである一つの方向へ決められてしまったのだ。現実的には赤子は一人では生きてゆけないから、不可抗力で決められた自分の名前から出発して運命を切り開いてゆかねばならないのは当然なのだけれど。。。(極端な話、将来自分の意思で変名できるし。)全てのものから切り離されていられるというのが自由であるとすれば、自分の名前まで切り離してしまったら、自分は自分でいられるのか?などとへ理屈を考えてみる。
先頃読んだ本の記述によれば、万葉集には当時の少女たちが自身の名前を殿方に知られることをひどく恐れている歌がいくつもみられるという。その時代はまだ名前に呪術的な力があった。厳密にいえば名前は「私」の唯一といってよい持ちものであり、それを知られてしまうことは精神的にも肉体的にも相手の男性の所有物になってしまうというのだ。現代を生きる私たちからみると全くもってナンセンスな話だが、情報が極端に少なかった万葉の時代を想像してみる。特に娘の命名書を書いていて奇妙な感覚にとらわれた私としてはむべなるかなと思わないではない。当たり前に使っている自分の名前には自分の運命まで封じ込まれているということか。
命名書を書いていて面白いなと思ったのは、もともと象形文字で字面に意味が込められている漢字には表情が現れやすいということ。同じ文字でも書き方によって全然違うイメージになってくる。同時に書き手の「思い」みたいなものを込めやすいように思う。娘の名前をつける時、今回も白川 静 著作「字統」を参考にした。この大漢和辞典は本当に素晴らしい。それぞれの文字(漢字)の意味、由来を中国の古典、象形文字の時代から追っている。「字統」なんかをパラパラ眺めていると、やはり漢字には今でも呪術的な意味合いが色濃く残されているようだ。(それにしても「道」という字が、異部族の首を切って持って歩いた、というところから由来しているなんて怖すぎます。)
ともかく子供が無事に生まれてくれて名前も決まってやれやれです。早く役所に出生届出さなきゃ。