少し前になるけれども「大津波と原発」という本を読む。
4/5にUstreamで放送された内田樹 x 中沢新一 x 平川克美の対談を文字に起こしたもの。
内田さんは人類学者兼武道家。
雑誌で村上春樹のロングインタビューを読んでいたら、偶然に内田さんの身体論のシリーズが連載されていてえらく共感して以来ちょここちょこと著作を読んでいる。
(身体論に影響されて合気道の教室にまで体験入学しちゃったのだが極度の運動不足からか膝を痛くしてしまって入門するか否かは思案中。)
中沢新一の著作は愛読してきたから、まあこのメンツだったら象徴的、観念的な話になるだろうと思ったら予想通りで大変興味深かった。
震災後の政府による対応には大いに不満を感じつつも、実務的なことが苦手な私としてはあれこれ言うことが出来ない。
震災後の推移を雑誌やネット等で読みながらくらくらしていた私にとって、この手の本は硬直した頭を転換させるのに役に立つ。
原発というものは思想的に一神教なのだ、という話は面白かった。
中沢氏曰く「インドの原発なんてシバ神の男根のかたちしてるんだから」という意見にそそられてウェブで写真をさがしてしまった。
(写真参照。確かに神殿だわこりゃ。)
内田氏曰く「鬼神を敬して遠ざける。」
八百万の神々、多神教の国である日本は原発という猛烈に荒ぶる神さえも身近なものとして取り繕ろってしまおうとしていたのではないかと対談の中で語られている。
確かにテレビの放映では爆発で吹き飛んだ原発の建家の壁には呑気に青空に浮かぶ雲が描かれていた。
つまり、思想としての「原発」がどういうものかキチンと認識されずにやれ経済とか安全性とか表層的なことが論じられているのが問題だと。
何を訳分からん抽象論を論じているのだ、現実はもっと切迫しているのだと生真面目な方々に怒られそうなのだが、私は大いに納得するのだ。
何か大切な根本的なものがズボッと抜けてしまうのが日本人なのだとつくづく思う。
結局、憲法だの原発だのを論ずる時に意見がまっぷたつに分かれた後に全く話が噛み合なくなるのは、両者が乗っかるプラットフォームを作るベースとなるその「何か」がボコッと抜けているからなのだろう。
うまく説明できないけれども、猪瀬さんの「16年夏の敗戦」でも語られていた「変わらない日本」を今度の原発事故の報道等を通して感じるのである。