
春にウィーンに滞在して以来、今まで敬遠していたヨーゼフ・ボイスに大変興味が湧いた。
本棚から「ヨーゼフ・ボイス~国境を越えユーラシアへ」を引っ張り出して読んでみる。
以前ワタリウムで気まぐれに購入しながら手つかずだった本だ。
もう20年近く前に出版された本だけれども、現在私たちが抱えている問題を考えてみても大変興味深く読めた。
何人かの識者が寄稿している中で文化人類学者・上田紀行(寡聞にして知らなかった)という人のボイス論が一番面白い。
以下まとめメモ~
今(1991年)の日本において人々は、「共感と反感の構造」とボイスに表現されている共感をするのか反感を持つのかという二元論のレベルにのみエネルギーを吸い取られてしまって、本当に自分を変革したり創造したりすることにまでエネルギーが回らない。表面的には社会的、政治的な行為をしていようとも、内部の次元では恐ろしいほと創造性の欠如をきたしている。
物には物体として存在している形態とエネルギーとして存在している形態があり、ボイスはモノとしての存在がエネルギーとしての存在にトランスフォーメーションを起こすところに創造の根源を見ていた。
ボイスは「見えないものと繋がることによって創造が可能になる」言った。
彼自身は媒介者であり、彼の作品に見られる胎盤、うさぎ、コヨーテなども「繋ぐもの」といえる。
現代に求められる「繋がりの世界」とは、旧来のファシズムやら天皇制と違って、一人一人が自分というものの中をしっかりと掴み、同時にもっと大きなものと繋がっていく「深いけれども静かな祭り」をそれぞれがやろうとすることにある。
儀式的と言われるボイスによるパフォーマンスはそのあたりを先取りしていた。
繋がる対象は地球そのもの。それは「地球を大切に」とかいった次元のものではなく、ましてや「大和魂」「ゲルマン民族」「新興宗教のなんとか教」とかでもなく創造性の根源に地球というこれ以上分割出来ないものを置くという営為。
線引きしない宇宙にも繋がる大きなもの。
ボイスのエコロジーはそこまでラディカル。
人類学的には、境界線のこちら側にいる人間は一度死んで、もう一度生まれ変わることで越境が出来る。
ボイスの越境(ポーランドへのアクション)もそれに近いのではないか。
自分の創造や創造の根源を貫く垂直軸と、現実世界という水平軸をいかに合致させるかというボイスの中心的課題に沿って言えば、越境という水平に越えて行く行為が、自分の創造性を再生させる垂直的な行為になっている。
例えばアメリカに越境してコヨーテと寝ちゃって、コヨーテのレベルまで自分を同化させるというのも通過儀礼的なこと。
つまり越境は通過儀礼としてのパフォーマンスであり、存在のメタモルフォーセスであるとともに生と死のイニシエーションである。
ボイスのパフォーマンスは自分の立っているこの場所を聖化するという宗教的なセレモニー性があるが、既存の宗教に対してはアナーキーな意味を持つ。
ボイスの仕事は見る者(観客)自身の存在のトランスフォーメーションを要求している。
ボイスが言う「創造者となることが連帯者になることに結びつく」というのは単なる政治的な連帯の呼びかけではない。
観客がボイスのワークの前に立つ時、その人は既にボイスと連帯している、ボイスとともに行動者になっている、というボイスをめぐる本質的なからくりを物語っている。
ボイスが言う一人一人が創造者たらんというところを手放して、ある創造者や救世主におすがりすればいいんだというような非常に旧い体質を現代(日本)は繰り返そうとしている。
例えば大川隆法にしても「あなたが自身があなたの創造者です」といいながら、それを高級霊やら宇宙人が上から目線で言っているからどうしてもみんな依存的になってしまう。
(*この本の出版当時は、まだオウム事件が起る前、幸福の科学全盛の頃だったんですねえ。)
世界の運動のもっともラディカルな部分は、自分自身が世界を引き受けて、「すがるものとすがられるもの」の関係を越えていくこと。それは神話的世界への遡行でもある。
つまり、私と世界との間は文化英雄によってかつて引き裂かれた。しかし混沌の世界の中に自分が再び戻って行き、自らがその神話的、文化的な英雄となり、もう一度始源の世界の本当の創造の力を味わう。そしてまた自分でそこを引き裂き、かつその行為の責任を取るという創造の始源の部分が問われている。
そこに自ら遡行しないで、借り物のパック化された創造の世界をお金で買ったり、おすがりしたりといった行為は似て非なるもの、まやかしであると今問うべき。
自分自身になんらトランスフォーメーションのない囲い込まれた世界への依存的安住では、ロボットから絶対に抜け出すことは出来ない。
~ いやー凄いアーティストですわ。あと、この文化人類学者の上田さんもスリランカで悪魔払いとかのリサーチをしていた人で少々ヤバ系ですが面白い。(続く)