石原延啓 ブログ

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末の松山波こさじとは

2011-06-24 23:13:17 | Weblog


もう一週間以上前になるのだけれども、やっぺし祭りで一緒だった遠藤一郎君が30歳前後のアーティストたちに東北の現状を報告するという会合に同席させてもらう機会を得た。そして311今回の東北大震災についてそれぞれが何を感じているか、アーティストとして何ができるのかを皆で話し合った。

彼らは既に各所で活躍中なだけあって、震災をかなり深いところで受け止めていてとても繊細に自分の心情を語った。
若いアーティストたちの感性に触れ、彼らと比べると自分は何とステレオタイプな受けて取り方をしているのだろうと思う。
世代の違いからなのか、それとも彼らはアーティストとして純粋に「個」として未曾有の事件を受けとめているからだろうか、うまく言えないのだけれどもとても興味深い。
柄に似合わす人に内緒でガテン系のボランティアに入ったクールなビデオアーティスト、コミュニケーション系ですぐにも被災地入りしそうなタイプでありがなら何故か関西を原チャリで放浪しているアーティスト、初めてアートが何を出来るのかを真剣に考えたと涙ながらに吐露するアーティスト(彼は震災二週間後には被災地入りした)。。。誰よりも素早く現地に入り被災地の方々と交流している活動家系の遠藤君みたいなタイプもいる。

十人十色で当然。
ただ確実に言えるのは我々は千年に一度の震災、そして原発という現実を前にしているということ。
ここでかつてアジアから奇跡を起こした日本人がどんなアクションを起こすのか?世界中が固唾を飲んで見守っているところだろう。
私たちアーティストには今感じていることが風化してしまう前にあるがままに感じた事柄を率直に表現して後世に残す義務があると思う。

えらい昔の話になりますが千年前の貞観の大津波の後に清少納言のお父さんが歌に詠んでいる。

契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山波こさじとは

この歌が詠まれたのは大津波の百年後。
当時、東北の大災害が人々の間で伝わって、熟成された情報が京の都でアートになるのに百年の月日を費やしている訳だ。
当時の情報の伝達するスピードを考えればむべなるかな。
そして今年私たちはほぼリアルタイムでその衝撃的映像を目にした。
現代に於いては一般人でさえ世界の裏側の悲劇まで抱え込まねばならないほど世界が狭くなり、逆に人々の対応のやり方もまた多様化複雑化してきている。
私が「私」であるため、今ここで何をすべきかを考えさせられた二ヶ月であった。



浪分神社、再び

2011-06-17 11:47:35 | Weblog


6/1
深酒した翌日は台風一過の晴天、Sさんに仙台の被災地を案内してもらう。
まず度々話題に出ていた浪分神社を訪ねる。
写真で見ていた通り決して古い社殿ではないし、元ある場所からこの地へ移されたのもそんなに昔のことではないとの話だった。
帰京後再度ウェブを調べて分かったのだけれども、この神社の由来は平安時代の貞観大津波ではなく、江戸時代初期のものだった。
以下毎日新聞とある人のブログより

●東日本大震災:「伝説」の神社、脚光 仙台・浪分神社、江戸時代も今回も津波免れる

江戸時代に津波被害を免れたことにちなんで命名されたといわれる、仙台市若林区霞目(かすみのめ)2の「浪分(なみわけ)神社」が脚光を浴びている。
宮司がいない小さな神社だが、震災以降はインターネットなどで関心が高まり、参拝者が訪れている。【伊藤一郎】
地元の言い伝えによると、神社は江戸時代の元禄16(1703)年、海から約5キロの地点にほこらが建てられ、「稲荷(いなり)神社」として信仰を集めた。天保6(1835)年に発生した津波は目前まで迫ったが不思議と南北に分かれ、のみ込まれなかった。そこから「浪分神社」と呼ばれるようになった。
この津波と冷害による飢饉(ききん)を鎮めるため、約500メートル内陸の現在地に移されたとされる。今回の震災では、波が分かれたと伝わる元の場所にも、現在地にも津波は到達しなかった。
参拝に訪れた仙台市宮城野区の団体職員、磯田淳さん(50)は「今まで存在に気づかなかった。先人が名称に託した意味を大事にしていく必要がある」と語った。
現在、神社を管理している霞目町内会の荒神暁会長(67)は「興味を持たれた方からの問い合わせもあるので、説明看板を立てることを検討している」と話している。
毎日新聞 2011年5月20日 東京夕刊

●浪分神社[なみわけじんじゃ](霞目)
元来は元禄16年(1703)に霞目の八瀬川に建てられた稲荷社だったが、天保6年(1835)に現在地に移されて浪分神社という名になった。
七郷一帯は標高が低く、昔から津波や洪水の被害が大きかった。
慶長16年(1611)の慶長大津波では霞目まで水が押し寄せ、1700人を越える死者を出している。
天保期に、慶長の大津波が二つに分かれて引いた場所に稲荷社を移し、津波よけの神社とした。
この神社には、白馬にまたがった海神が大津波を南北に分けて鎮めたという伝説がある。

~ということでした。
諸説あるようだが、慶長の大津波は被害が大きく、仙台に移ったばかりの伊達政宗は始めたばかりの領内経営に大打撃を受けたらしい。
天保6年にも実際にここら辺りまで津波が来たらしいので、津波の要注意ラインであることは間違いなさそうだ。但し、仙台東部道路が防波堤の役割を果たさなければ、あるいは今回は危なかったかもしれない。

興味深かったのは拝殿の後ろ、本殿の軒下に石製の祠が置いてあったこと。
この祠が妙に存在感がある。
Sさん曰く実はこの祠が本来のもので、ご神体だけ本殿に入れて、石製で重すぎる祠を仕方なしに軒下に置いたものではないかと。。。
石の祠も珍しいのだが、Sさんによれば、例えば川が氾濫するような地域では水神を祀るためのものとして稀に見られるそうだ。
水が来ても重みで流されないからではないだろうかとのこと。

次に被害の大きかった荒浜地区や名取川沿岸部に向かうが予想通り深刻な被害を被っており、未だ通行止で作業中であった。
遠目で見ても残った家々の一階部は全て浸水している跡が見受けられた。
先にも書いたけれど、今回の津波で仙台東部道路が果たした防波堤の役割は大きい。道路の海側内陸側とでは雲泥の差だ。
ここに登って何を逃れた人々も多かったと聞く。今後東北の復興に際して役立てて欲しいものである。

道中自分が今渡っているのが震災当日にテレビ中継で観た「あの」橋であることに気づく。
家屋や車、ビニールハウスなど全てを飲み込んで津波が押し寄せた。逃げ惑う車と迫り来る濁流を前にこの橋で停車したトレーラーの上で呆然と立ち尽くす一人のお巡りさん。
この方は助かったのだが、その恐怖はいかばかりであっただろう。

16年前に「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う! 」という本を書かれた飯沼勇義さんという方が、当時の浅野知事へ新たな防波堤の設置など、津波対策を強化するように陳情したということが話題になっているらしい。
その時は全く無視されたらしいが、今回の経験は後世にきちんと伝えていかなければならないだろう。

昼食後にSさんに別れを告げて東京へ向かう。
元気そうなSさんと会えた喜びとともに、今回の東北行では原発の問題と切り離して東北の現状を観ることとなった。
一月前とは問題点が推移してきている。
原発の問題も深刻だ。
私たちは東北の復興という問題も忘れずに総合的に対処していかねばならない。

45号線

2011-06-11 22:16:52 | Weblog


5/30
やっぺし祭りの翌朝は仙台へ向けて45号線を南下。
遠藤君の未来号を送り出した後に公民館を出発する。
まずは早朝バスに乗りそびれた酒井君、清水君を乗せて陸前高田経由で気仙沼まで同行。
二人とも東北出身のアーティストでイベントでは献身的に働いていた。
今回のボランティア参加もそれぞれ思うところが大きかっただろうと思う。
行程が順調だったので両君と気仙沼市内を回ってみると、それぞれの町によって被害状況が違うことに気づかされる。
駅から沿岸部へ向かうと古い商店街一階部分に浸水した跡が認められた。
清水君が「ここら辺りはそんなに、、、」と言いかけたら車が海岸線に出て瓦礫が山の光景が広がり皆絶句した。

両君を気仙沼駅で降ろして私は大谷海岸、歌津、南三陸経由で仙台へ。
45号線は三陸海岸沿いを南北に結んでいて、気仙沼線の線路も平行している。
やっぺし祭り開催が危ぶまれる原因となった台風もいよいよ北上してきて波濤が防波堤を越えて打ち寄せてくるのが見える。
やはり地盤が沈んでいるのだろうか、海が高く感じられる。
大谷海岸まで来ると浜辺は水没していて、高波が国道にまで押し寄せてきそうだ。
とにかく海が高い。

二ヶ月前に打ち寄せた津波を想像してみる。
多分今日の台風の高波みたいに激しく打ち寄せるのではなくて、最初は静かに、そしてそれがあっという間豹変して一気にやって来たのではないだろうか?
容赦はなかったろう。たんたんと海が持ち上がり、そのまま襲いかかってきただろう。
日々の生活は一変して地獄絵と化した。
国道を走りながらのアップダウンの繰り返しは津波にやられた瓦礫、その地獄絵の繰り返しになる。
昨日の鹿踊りの太鼓のリズムが頭に甦る。
ドン、ドン、ドン。
生と死の繰り返し。いや、この道沿いでは死の光景の繰り返し。
なぜ私は今ここで一人車を走らせているのだろうか?
頭が麻痺してくる。

いよいよ風雨が強まり、道路が冠水している場所は迂回したが、南三陸町の通行止であきらめて内陸へ向かい三陸道へのる。
ここら辺りではまだまだ自衛隊の車両を頻繁に見かける。それだけ遺体の捜索と瓦礫の撤去に難義しているのだろう。
ラジオでニュースを聞いていたら石巻は大々的に冠水してしまっていた。
台風の高波は私にそれなりの危険を感じさせる。
しかし津波が襲った状況は一体どれほどの恐怖だったであろうか。
比較にもならないだろう。

「あの」遠藤さんが最期まで人々を避難させるべくアナウンスをしていた南三陸町防災対策庁舎を左に見ながら志津川沿いを遡る。
宮城に入ると岩手に比べてデコボコが激しい。地震そのものによる被害も大きかったようだ。
ニュースで津波が押し寄せる映像を見せられた「あの」若林地区に入りジャンクションで仙台東部道路へ。
左手に津波にやられた田園を眺めながら走る。
道路を境に右手はほとんど被害がない。
なるほど仙台の知人が言っていたとおり、この道路が防波堤として大いに活躍したのが良く分かった。

自然と共生していたこの美しい海岸線に暮らす人々を襲った災害について考えている。
実はこれは明日私の身に起こりうることなのではないのか?
もちろん千年に一回の津波がしょっちゅう発生する訳はない。
ただ、ここで起った現実、生と死の境目は私たちの日常が高度に濃縮されて顕在化しているのではないかという疑念が頭から離れない。
ならば、突然に命を濁流の中へと飲み込まれてしまった人々は一体何だったのか?
あまりに酷い自然の摂理の前に呆然としてしまう。
そして瓦礫と共に残された被災者の方々がいる。

仙台に着くと知人のSさんを訪ねる。とにかく話しは尽きない。
夜は飲みに連れて行かれたが、当たり前の話、飲み屋の大将から何からすべて被災者。皆淡々と話すが結構な被害に遭っている。
でも、家族が命を落とした訳でもないし、家一軒くらい。。。といった具合にそれぞれのレベルで「我慢」しているように感じた。
復興まで、被災者の方々が癒されるまではまだまだ時間がかかりそうだ。

長いことお世話になっていたSさんと再会して元気そうな様子にホッとしたのか、東北の地酒を少々飲み過ぎた。
酩酊した頭の中にどんな酷い目に遭おうとも立ち直ってきたのが東北人なのだという三軒目(?)のバーのマスターのセリフがかすかに残った。

原発も大変だけれども、同じ東北でひとくくりにしてはいけないと思う。東北で起っていることは重層的で複雑だ。
それぞれの問題を見捨てることはできない。

浴室にて

2011-06-06 11:23:26 | Weblog


台所でお茶を飲んでいると「きゃ~っ」っという叫び声が聞こえた。
すると下の娘(1歳10ヶ月)とお風呂に入っていた家内が浴室からひょっこり顔を出し、真っ赤になって笑いを堪えながら手招きをする。
何事かと思い見にいってみると、、、
浴槽の底に娘の使用済み燃料棒が二つほど沈殿していた。

大量なお○っこに気づかぬままウ○チをされるとオムツ内でメルトダウン、更にはチャイナシンドロームでズボンまで、という苦い経験が何回かあったけれども、これにはさすがにビックリ。
家族の皆に大笑いされてプライドを傷つけられた娘は不満そうな顔をしていたけれども、こちらの廃棄物はゴミに出せるし汚染水もそのまま流すだけだから大事ない。
天ぷら用の網ですくって処理しました。

やっぺし祭り(2)

2011-06-03 12:20:55 | Weblog



5/29
やっぺし祭り当日は朝から雨。
公民館のミーティングルーム兼食堂兼作業部屋兼ベッドルームでは40人の大人が寝袋で雑魚寝した。
お酒と共に遅くまで熱く語る人、作業する人、とてつもないいびきをかく人などなど皆一緒とあって、さすがに眠りが浅くなった。
前夜京都より参加のうら若き乙女(美大生)二人から「ここまで来たからには陸前高田の状況を見ておきたいので車を貸してもらえないか」とのオファーを頂いたものの私の車の保険は30歳以上、仕方ないので運転手を買ってでる。
朝食が7時ということで6時に出発して一月ぶりの陸前高田へ。
以前と比べれば随分と片付いてきてはいる印象だが全てが流されてしまった惨状に変わりはない。
「(震災後)二ヶ月たってもこの状態ですか。。。」
乙女1号がポツリともらす。
新たに道路が舗装されていたので、前回入れなかった海沿いも行ってみる。
この辺りには大きな鉄筋コンクリートの建物も多いのだが、もちろんメタメタにやられている。
印象的だったのは被災した5階建てのマンション。
最上階以外の全ての階の窓が波で破壊されていた。
「この建物の住人全員が別の場所に避難することができた、なんてことはありえませんよね。。。」
と乙女2号が嘆く。
彼女たちは関西ではやはり震災は遠い場所の出来事だと感じられているという。
だから少しでも何か出来ることはないかとイベントのボランティアにかこつけて無理をしてここまで来たとのこと。
私たち他所の人間に被災した方々の本当の気持ちが分かる訳がない。
けれども少しでも心を合わせようとしている、次世代を担う頼もしい乙女たちであった。



朝食後、弱雨の中、各人イベント会場となる猪川小学校へ移動。
アーティストブースや伝統芸能は体育館内、炊き出しは屋外テントということに決まり準備開始。
幸いなことに準備を進めるうちに空が明るくなり雨が上がった。
私は体育館内で子供たちと仮面を作るワークショップを行ったのだが、10時になると早くも人がぞろぞろ入ってきた。
被災された方々へ1分間の黙祷の後にアーティスト・遠藤一郎君の「やっぺし、やっぺし」のかけ声で祭りが正式に11時にスタートする。
あとは、いやはやノンストップで外に出る間も食事する間もあーりませんでした。
子供はどんな状況下でも元気で本当に可愛い。
皆とまたどこかで会えたら良いね。



他のイベントはほとんど見れなかったんだけれども、最期のメイン二つは充分に堪能できた。
体育館内のトリは鹿踊り。
これには本当に感銘を受けました。
自ら打ち鳴らす太鼓のリズムに乗って鹿(獅子舞に似ている)の面をかぶり角に見立てた長いのぼりのようなものをつけた男たちが勇壮に踊る。
衣装と太鼓を考えると大変な重労働だろう。これでもかこれでもかと踊る様はいつしか私に幾度も再生する命の炎を連想させていた。
そうだ、ここ東北の人たちは、いつでもこうやって繰り返し繰り返し甦ってきたのだ。
厳しい寒さを乗り越えてやがて春を迎えるように、地震、津波、冷害、さらには政治的な疎外を受けながらも決して挫けずに甦る、それが東北人の魂なのだ。
見ながら当然私は泣いていた。
周りの人たちも泣いていた。



大トリは遠藤君の連凧上げ。
午前中から会場にやってきた子供たちに自分の夢を描いてもらった30cm四方の黄色い凧を連ならせ、空へと浮かび上がらせるプロジェクト。
実際に参加させてもらって、ふわーっと空に舞い上がった凧を見た時、何とも言えない柔らかな空気に包まれる気がした。
皆で協力しながら夢を一斉に空へと飛ばす。
落ちそうになると糸を引いて誰かが走る。もうそろそろ終了と分かっていても誰も終わらせたくないのだ。
スタッフの信長君が思いっきりスッ転んで笑いが起きる。
本当に雨が上がって良かったよ。
良いイベントでした。



お疲れさまでした。
東北大震災で被災された方々が一日も早く癒されますように。


http://anpoap.org/?p=1199

やっぺし祭り(1)

2011-06-02 13:45:09 | Weblog


5/28
4月末に引き続いて二回目の東北行き。
今回は被災した子供たちを元気づけようと大船渡サポートネットワークセンターが主催した「やっぺし祭り」に参加。
福島・いわきへ行く可能性もあった(結局時間切れで断念)ので、試しに友人からガイガーカウンターも借りた。
0.3μSv/hに設定されていたカウンターは東北道・西那須塩原高原あたりから警戒音(?)が鳴り始め、郡山~二本松辺りで数値がピークに。
最高は1.0μSv/hだった。仙台辺りで東京と変わらない数値に戻る。

東北道では前回(一月前)に比べると自衛隊の車両や救援物資のトラックがほとんど消えていた。
今回は二つ先の水沢Icで降りた。
一関の時と同じように岩手の風光明媚な風景が続くがやたらと道路が良いことに気づかされる。
そうこうするうちに車は山越えに入って深い谷間を進むが道は相変わらず良好だ。
そして山もかなり奥深くなって峠を越えて下り始めた時に何やらもの凄い巨大建造物が出現した。
こんな山奥に高速道路!?と驚いたが、何とそれはダムを建設した際に使用する代替道路なのだそうだ。
そう、累々と続くこの深い美しい谷は整備された道路や点在する村と共に近い将来ダムの底に沈む訳だ。
あー、ここら辺りが小沢一郎センセ関連で問題になってるダム予定地だったのかー。う~むなるほど。

午後四時、大船渡に入り宿舎兼本部の公民館へ着くと既に参加アーティストたちが準備に余念がない。
前回であった消防士関係の方々への挨拶もそこそこに私も慌てて看板等の政策にとりかかる。
途中このイベントの発起人の石鍋さんが戻り手伝いの女の子を二人つけてくれた。
いや~助かった。ありがとう小枝さん、森川さん!

夕食は大人数でカレーライス。その後最終ミーティング。
皆が何より心配なのは天気でしょう!
小学校校庭を利用してのイベントなのに「猛烈な台風」が日本列島に接近中なのだから。。。
ここで雨天時どうするかという質問に対して、やはり発起人の一人のアーティスト・遠藤一郎君曰く
「『万が一』雨が降ったら、体育館を使う予定ですが、細かいことはその場で考えましょう。どうせ晴れるけど。」
思わず爆笑の私。
遠藤君とは初めて会うのだけれども、想像していた通り超ポジティブ野郎だ!
さすがに人に元気を与え続けることに全情熱をかけているだけあるなあ。
果たして翌日、降水率70%の予報を裏切り、夜通し降った雨はイベント開始前に上がった。
そしてイベント終了後夕方より再び雨脚は強くなっていった。
発起人の石鍋さん、千葉さん、遠藤君たちの被災地を思う「気合い」が巨大台風の出足をも鈍らせたのだった。
(写真はやっぺし祭りポスターとミーティングの様子)