オバマ国賓訪日を分析する:そもそも「国賓」とは何か?
23~25日にオバマ米大統領による国賓訪問が行われた。そもそも米側が「1泊2日」の実施を要請する中、日本側の粘り腰で「2泊3日」になったと報じられた今次国賓訪問であったが、その後の報道を見ている限り、マスメディアによる皮相な分析が後を絶たないように見える。私は元キャリア外交官として各種マスメディアより、今回のオバマ訪日の最中に取材依頼を受けた。しかし、これらについては基本的にお断りさせて頂いた次第である。なぜならば外交とは結局のところ最後にまとめられる文章こそが意味を持つのであって、そのテキストが明らかになっていない以上、あれやこれやと述べたところでそれは無意味な評論に過ぎないからである。そこでこの場を借りて、外交実務の現場にいた「プロ」の目線、そしてグローバル・マクロ(国際的な資金循環)とそれをベースとしたマーケットとそれを取り巻く国内外情勢の分析者としての視線に立って、オバマ米大統領による国賓訪日のポイントを述べてみることにしたい。
先ほど「外交は最後にまとめられる文章のテキストが一番」と書いた。それと相矛盾するようだが、今回のような国賓訪問の場合、そのプログラムに何が盛り込まれていたのかにまず注目する必要がある。なぜならば国賓訪問とは訪問先の国の「国家元首」が招いて行われるものであり、首脳会談とはいえ、事務作業のために行われる「実務訪問」とは全く意味合いが違うからだ。
それがどれほどの意味があるのかと言えば例としてこんなエピソードがある。かつて国賓(state guest)として迎えられる際、その国の領土に入って来ても当該「国賓」の命を出迎える側の国家元首が保証しますよという意味で、国境をまたいだところから騎士団が派遣され、隊列を外側から守るという習慣があった。実はこの習慣、現在でも守られており、領空に入ったところから訪問先の国のジェット戦闘機が国賓の乗っている飛行機を空港に着陸する寸前まで護衛することになっている。今回で言えばオバマ米大統領の乗った「エアフォース・ワン」が我が国の領空に入った瞬間から航空自衛隊のジェット戦闘機が護衛したことになる。儀礼的にように思えるかもしれないが、このように国賓訪問とは国家元首同士の間接的な挨拶から始まるものなのである。
西洋における外交(diplomacy)はかつて各地に群雄割拠していた諸侯が相互に経済利権を認め合ったことから始まった。そしてそれを守るために外交使節団(diplomatic mission)を派遣し、出迎えた側の諸侯は使節団の団長以下構成員たちの「生命」を保障することを約束したのである。これがいわゆる外交特権の起源となっている。裏を返せば相手国に全幅の信頼を置いていることのジェスチャーとして外交使節団、とりわけその団長である大使(ambassador)が派遣されるのであって、その延長線上にあるのが国家元首自身の訪問ということになってくるのだ。
オバマが「迎賓館宿泊」を断った本当の理由
ところが今回はそもそもそこから米側の対応が違った。国賓訪問の場合、出迎える側の国(接受国)の国家元首が「宿」を国賓に対して供するのが決まり事となっている。そして我が国の場合、そのような目的のため迎賓館を提供するのがならわしとなっているのである。それを米側からの申し出によって取りやめざるを得なくなったのである。外交実務のセンスからいうとこれは「トンデモナイこと」「信じられないこと」に他ならない。
我が国では憲法の講学上、天皇は果たして国家元首なのかという議論が未だ行われている。だが外交実務上はそれは当然視されているのでここではあえてそれを無視するとするならば、要するに今回の米側の対応は(1)極端なことを言うと日本側が米側の国家元首であるオバマ大統領の生命を守る意思と能力が無いと判断されたのか、あるいは(2)そもそもオバマ大統領は形式的にはともかく、今回は何等かの理由から「国賓」には値しないと自らを評価していたのか、どちらかを意味することに留意しなければならない。いずれにしても正に前代未聞であり、ここからまずは重大なサインが米側から示されていたというわけなのである。
米国は世界随一のインテリジェンス大国である。しかも未だに在日米軍を駐屯させている。その二つを考え合わせるならば、この(1)の判断であったとは考えにくいのである。なぜならば「その気」になるならば、米側は事前及び現場において実力行動に出ることは可能だからである。むしろ今回の「異例さ」が持つ本当の意味合いは宮中晩さん会にあったと私は考えている。その際、オバマ大統領はスピーチの中でこう述べたのである。
私は第44代アメリカ合衆国大統領ですが、陛下は日本の125代目の天皇陛下です。日本の皇室は2000年以上の長きにわたり、日本人の精神を体現してきました。今夜、その精神を、陛下の平和への思いの中に感じることができます。またこれまでの困難な日々や、3年前の東日本大震災の悲劇にもかかわらず、その強さと規律正しさと高潔さで世界の人々に影響を与え続けている日本国民の立ち直る力の中にも感じられます。 私は本日、この精神に触れました。荘厳な明治神宮では、日本の古来からの宗教的儀式の美しさを体験しました。・・・(中略)・・・ 日米両国民は、太平洋という広大な海を挟んでいますが、日々あらゆる分野で協力しています。・・・(中略)・・・3年前のようなつらい時にも、私たちは共にいます。 そのつらく苦しい日々に、天皇陛下が皇居から直接、日本国民に語りかけたことを、私たちは決して忘れることはありません。最後に、当時の陛下のおことばの精神を思い起こして、私のあいさつとさせていただきます。なぜなら、この精神は、日米両国の友情と同盟に対する、今夜ここに集まった私たちの願いでもあるからです。決して希望を捨てることなく、互いを大切にし、明日も強く生きていけますように。
一見すると当たり前のことを述べているように思うかもしれないが、ポイントは2つある。一つは歴史学的に実証されているか否かを問わず、米大統領として我が国の皇室が「2000年以上の長きにわたり」存続する、唯一無二の存在であるとオバマ大統領がはっきり認めていることである。いわゆる「アメリカ通」が語らないことの一つとして、米側のエスタブリッシュメントたちが我が国の持つ圧倒的な歴史性に対する畏敬の念がある。米国とは、建国前のピルグリム・ファーザーズによる北米移住(1620年)を勘案したとしても、たかだか400年ほどの歴史しか持たない国なのである。欧州各国にしても結局は同じであり、中国などアジアの周辺諸国にしても君主とそのファミリーを中心とした国制が我が国ほど長きにわたって存続してきた国はないのである。そのことが持つ圧倒的な力への尊敬と驚異の感がこの一言に含まれているのである。
そしてもう一つは、そうした天皇が語る「言葉」の威力について、同じように畏敬の念をはっきりと表現している点である。我が国では「グローバル化」を理由に英語教育の徹底を官民挙げて励んでいる。だが、天皇の「お言葉」は他ならぬ日本語によって語られるものなのである。そしてその精神は「日本語」によって刻印されているのであって、これが我が国だけではなく、アメリカをもカヴァーするものだとはっきりオバマ大統領は断言しているのである。しかも、「明日も強く生きていけ」るようにと述べるということは、それだけの困難(hardship)が実はこれからの時代、待ち構えていることを意味している。しかしこれを乗り越えるための糧となるものを述べたのは、天皇の「お言葉」であると普遍化した上でオバマ大統領は述べているのである。「change」を掲げて颯爽と登場し、その巧みな演説で選挙民を魅了して瞬く間に合衆国大統領の座に駆け上がったオバマ大統領は学生時代、詩人を志す文学青年であった。それだけに天皇の「お言葉」、そして「日本語」に対するこのような熱いメッセージを発したことにまずは注目すべきなのである。我が国のマスメディアによる報道ではまずもってこうした視点が決定的に欠けている。
「ロン・ヤス会談」「ブッシュ・小泉クロフォード会談」の意義
マスメディアたちが盛大に報じたのはむしろ銀座の名店「すきやばし次郎」における安倍晋三総理大臣主催の夕食会であった。通常、こうした「場所の選択」は外務省より総理官邸に出向している秘書官が、総理大臣自身の事務所に所属する公設秘書でもある秘書官と相談して決定するのが慣例だ。なぜならば首脳同士がその場所で会食したとなると抜群の営業効果をもたらすのであって、国内政治的にも大きな意味合いを持ってくるからだ。
「本当はすきやばし次郎ではなく、都内の有名てんぷら店に招こうとしていた」かどうかは別として、今回の安倍晋三総理大臣の選択は決定的に誤っていた。なぜならば「国賓」クラスとなる世界の「根源的な階層」(王族)やそれに付き従う「番頭格」(大統領など)にとって重要なのは、一般大衆からのその店の評判云々ではないからだ。それでは一体それは何かといえば、率直に言うと「土地」である。相手方に対する最大のもてなしとして自らが「居所」として選んだ場所を提供し、相手方もこれを有難く押し戴く。意外に想うかもしれないが、これがそのレヴェルにおける「もてなし」の基本なのだ。各国のリーダーたちはそうなるべくしてなるような教育を幼少時から徹底して受けている。私たち日本人は「英語を学べば良い」と少しカネがあると子供たちを通学制のインターナショナル・スクールに国内で通わせようとするが、これは全く無意味なことなのである。なぜならそこに米欧の本当のリーダー候補はいないからであって、それではそうした子たちがどこにいるかというと全寮制で徹底した時間管理をされ、しつけられる学校に通っているのだ。そしてそういった場で彼ら明日のリーダー候補たちは「目に見えないルール」の一つ一つを体を通じて学んでいく。
日の出山荘にレーガン大統領を招いた中曽根総理(出典:Wikipedia)
「自分がリーダーになるにあたってこんな土地で暮らしてきたのだ」ということを相手にだけ示すということの意味をはっきりと解っていた我が国最後の総理大臣は中曽根康弘総理大臣であった。1983年、国賓訪問したレーガン大統領を中曽根康弘総理大臣は自らの別荘である「日の出山荘」に招き入れ、もてなした。そしてその場で日米首脳会談まで行ったのであり、それが日米蜜月の「ロン・ヤス関係」につながっていったことは言うまでもない。同じことは米側についてもいえるのであって、2003年にブッシュ(子)大統領は小泉純一郎総理大臣をテキサス州クロフォードにある私邸に招き入れ、歓待した。その場の一部始終に立ち会った人物から両首脳のやりとりの仔細を私は聞いたことがあるが、実に信じられないほどの「打ち解けた話」であった。いずれにせよ自らをリーダーにまで押し上げた「土地」にまで招き入れ、これを相手とシェアするということほど、米欧の「国賓」レヴェルが喜ぶことはないのである。
今回、迎賓館での接遇を辞退したオバマ大統領が天皇と並ぶレヴェルではないと自らを考えていたとするならば、本来、同じレヴェルとして残されている安倍晋三総理大臣がこうした意味での「接遇」を行うべきであった。もっとも安倍晋三総理大臣が所有する別荘は山梨県河口湖町にあり、「親友」でもないオバマ大統領がわざわざ出向くには遠すぎたと言える。しかしそうであればなおのこと、自身が総理官邸での寝泊りを拒否してまで住んでいる都内・富ヶ谷にある私邸を開放し、そこでオバマ大統領を接遇すべきだったのである。ガイジンたちは日本人の住居が小さいことなど百も承知である。それは問題ではないのであって、リーダーともなれば彼らが関心を持つのは、相手方が一体どのようなところで寝泊まりし、だからこそこうした発想と行動になるのだという、その淵源が示されるかどうかなのである。しかも実務的に言っても仮に都内・富ヶ谷の私邸を開放すると米側に通告すれば、これをオバマ大統領が拒否するのはかなり困難であったはずだ。なぜならばインテリジェンス的に見てもこれほどまでに「友好的ジェスチャー」はなかったはずだからであり、その結果、安倍・オバマ会談は実に打ち解けたものになったはずだ。それを単にどこかの他人が星付けをした評価だけを頼りに選ばれた場所で、かつ相手方の「糟糠の妻」でもない人物が握った寿司を20個も供されてしまってはオバマ大統領でなくても、この「レヴェル」「ランク」の米欧のリーダーたちは「その程度の人物だ」と判断してしまうのである。その結果、「仕事の話ばかりになってしまった」のも当然なのだ。
アメリカ、そしてオバマは何を日本に伝えたかったのか?
以上の2点から見ても、今回のオバマ国賓訪日は安倍晋三政権という「事務方」から見ると全く違う意味合いを持っていたのであり、そうしたズレをもはや認識しない日本側の当局が取り仕切ったところに最大の悲劇があった。そしてその「ズレ」は今回の訪日の結果、作成された公開文書の中でも手に取るように見えるのだ。
オバマ大統領より気候変動について提起があったのに対し、安倍総理より、COP21において2020年以降の枠組みにつき合意したい旨述べた。
日米両国民は、太平洋という広大な海を挟んでいますが、日々あらゆる分野で協力しています。私たちは共に創造し、つくり上げることにより、世界を変える新たなイノベーションを生み出します。共に学び研究して、病気を治療し命を救う新たな発見をします。平和を維持し、空腹の人々に食べ物を提供するため、共に世界の果てまで出かけます。宇宙の神秘を理解するため、共に宇宙にも行きます。
我が国のマスメディアは今回のオバマ訪日に際して口を開けば「TPP(環太平洋経済連携協定)」について、しかも日米合意の可否ばかりを論じてきた。つまり米国といえば日本と一対一で話をしてくれ、しかも合意してくれるものとどこかしら我が国全体で信じ込んでいるのである。マスメディアの論調を見ても、このTPPというものを通じて我が国がグローバル社会が危機に瀕していることに対してどのように対処し、未来に向けた代替案をどうやって提示していくのか、そのフレームワークやコンセプトには全く関心が無いことは明らかなのだ。そのことに米国をはじめとする「西洋」は非常に苛立っている。
我が国外務省が発表した日米首脳会談の「概要ペーパー」を見ても、その前半には日米二国間関係においてこれまで最重要課題とされてきた日米安保問題について延々とまとめられている。だが、ワシントンD.C.における率直な雰囲気を伝えるならば、米側はこうした日本側の「固定観念」に正直辟易しているのだ。ところがそんなことを日本側は露知らず、現下のグローバル共同体の中で最大の課題となっている(少なくとも米欧の「根源的な階層」「番頭格」のレヴェルにおいて)気候変動問題(及びその大前提としての「太陽活動の異変」)について話を振られても、安倍晋三総理大臣の側からは非常に事務的な対応に終始したことがこのペーパーからは手に取るように分かるのである。だからこそオバマ米大統領は天皇の面前で「私たちは共に創造し、つくり上げることにより、世界を変える新たなイノベーションを生み出」すとまで断言したのである。それは決して日米間の個別案件の積み上げではなく、ましてや特定の経済利権をどうこうするといったTPPを巡る日米間の事前交渉の延長線上にあるものでは決してなく、そもそも未曽有の危機の時代を今後5年間は迎えていくことになるグローバル共同体に対して一体どのような「フレームワーク」「コンセプト」を打ち出していくのか、これを話し合おうではないかということだったのである。だが、安倍晋三総理大臣は米側から明らかにその相手を見なされず、他方でオバマ大統領からすれば畏れ多くもこれは天皇に直訴するしかないと考え、「遊び」ではなくその本気度を示すべく夫人も帯同せず、単身乗り込んで来たというわけなのだ。「迎賓館での宿泊拒否」にもかかわらず、「明治神宮参拝」を行い、しかも「宮中晩さん会でここまで我が国の本質を突いたスピーチをする」といった相矛盾した対応を見せた理由はここにある。要するに追い詰められた米側は「本当のところ、日本はどう考えているのか、何をしたいのか」お伺いを立てに来たというわけなのだ。
程なくして「安倍降ろし」が始まる
明らかに相手とはみなされず、またその「レヴェル」の持ち主と考えられなかった安倍晋三総理大臣は、今後、どこからともなく吹き始める「安倍降ろし」にさらされることになる。もっとも安倍晋三総理大臣は第2次内閣の組閣へと至る道のりの最初にあってかなり逡巡していた。それを一部の「保守派」政治評論家たちが説き伏せ、立ち上がらせたという経緯がある。だが、本人こそが「そのレヴェルではない」ということを、今回のオバマ訪日を予期するかのように知っていたはずなのだ。その意味で安倍晋三総理大臣は「悲劇の宰相」であり、同時に我が国にとって人柱でもあるというわけなのである。
今回のオバマ国賓訪日は以上のような視点で読み解かなければならない。米欧から相手にされている間が華である。期待が裏切られ、結局、我が国からは何も出てこないということになれば、彼らは我が国を木端微塵にするはずだ。今後5年間は続いていくそうした流れの出発点にあって、私たち日本人自身が考えを改めるべき分岐点。それが今次国賓訪日だったのである。