真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

天道略説~(一)天道の主神

2024-04-27 22:55:05 | 天道略説

今回から六回に渡って「天道略説」を配信いたします。文中

老〇(ラウム)の〇の字が根源創造主独自の字で中国古典的な漢字源にもありません。下図の永遠の極楽浄土(弥勒浄土)にある「ラウム」の字ですのでご承知置きください。

天道略説

私達は日常生活によく「偶然(ぐうぜん)」という言葉を使います。亦そういう出来事が屡々(しばしば)起こるものであります。只今、あなた方が友人から天道を紹介され、本書を贈られ頁を開く気になられたのも、その一つに算(かぞ)えられるかも知れません。ただその動機がどうであったにせよ根本的に極めてみると、「偶然」は決して断片的に、突破的に起こってくるのではありません。何かの原因があってその結果へ至りつつある過程にあるのです。縁と云う見えない長い糸が私達に結びつき導かれたつつあるからです。今、あなた方はこの御縁に導かれて真理の門口に近づきつつあります。一歩ずつ天道に帰りつつあります。この幸運な機会はあなた方に神様から与えられた特別の恩恵と愛情であると共に予(あらかじ)めあなた方に蓄積された善因善行があるからです。天道は民族的、国家的観念を越えて世界人類をみな一大家族と見做しています。お互いの霊魂は兄弟姉妹である事実を認識することができます。神の子である誇りと、真の幸福と歓喜を与えて頂けます。人類の良心と真諦と明らかにし、生命の由来と源を示し、天の理と正しい信仰を刻明に教え、私達が閉ざされた一切の暗黒から脱(のが)れ輪廻(サンサーラ)と因果の業縁を究明し、それを解脱して、より高い不死の境地、光明の涅槃(ニルバーナ)に至る大道であります。すべての宗教を超越した最高の存在であり、異教、異宗と雖(いえど)も共存できる大本であります。どうか宗派、教別の組織と構成に固執することなく、小局的、差別、排他的思想を除去し、雄大なる勇気を抱いて斯道に進まれることを希望いたします。

(一)天道の主神

天道に於いて礼拝しております神様のお名前は

老〇(ラウム)と申します。この神様は普通一般の宗教で拝んでいる神様と違っています。宗教に於いて最大の教祖として奉られているお方は、その昔必ず一度は人間として生まれ出でたことがあります。しかし、

老〇(ラウム)は全然(ぜんぜん)過去にお姿を現わせられたことはないし、現在、未来を通じても決して人間としての形体を顕されることもありません。

老〇(ラウム)の大霊は限りなく大きく亦、限りなく緻密(ちみつ)であり微小でもあります。天地宇宙が未だ形成されない永遠の大昔から已(すで)に御存在の唯一の神様であります。

宇宙の森羅万象をなんらの他力の援助を受けずに、総て御自分の御智慧と御能力で設計し創造されました。そして万物万類を一定の秩序と調和と法則で正しく運転し造化し養育して下さっています。年々歳々、寸分の違いもなく変わることもありません。人間は科学文明の進歩に伴って大宇宙の一切は自然現象でありとし、物質面の豊富はいかにも人類だけの能力で発見、発明、製造できるものと思い込んで人力の技術を過信しているようです。

然しながら、

老〇(ラウム)は一団の大霊であり、一大真理であり、その妙理は至尊至霊、至神至明であります。

春夏秋冬の循環、昼夜、陰陽の交替は整然として

老〇(ラウム)の運行に俟(ま)つものであります。動物、植物、鉱物の根本も均しく

老〇(ラウム)の造化、主宰に基づくものであります。従って一切現象を自然作用というのは、神を冒涜(ぼうとく)することであり、

老〇(ラウム)を無視すること、これより甚(はなは)だしいものはありません。日光を浴びて太陽のあるのを知り、家屋があるのを見て建築者があることが分かります。それなのに人間に霊(たましい)のあるのが分かっても、これを生んだ親のあることを悟らず、さらに天地宇宙を見て何故これを創造したもうた主宰神のあるのを信じられないのでしょうか。素直に物事を認めるのをどうして憚(はばか)るのでしょうか。美しい山河、洋々たる大海、緑の広野、色彩々(色とりどり)の百花、大小の樹木、空の浮雲、雨の滴下(しずく)、凡(あら)ゆる私達の感覚に及ぶすべての自然界の繊細、広大な物と事はみな

老〇(ラウム)の御手(みて)の業(わざ)にあらわされた愛の賜物(たまもの)であります。広漠(こうばく)な天空に散在する無数の星雲から、いと小さき原子、電子に至るまで、整然と神の御旨(みむね)と摂理に遵(したが)って運行されるものであります。更に生きとし生ける諸々の霊(たましい)を生みたもうた親神様も限りない慈愛をもたれる

老〇(ラウム)であります。凡(およ)そ私達が生を受け、霊気と智慧を具備(そな)えるのもみな

老〇(ラウム)によって賦与(ふよ)されたからであります。髄脳と神経の働きは心と精神に由るものであり、心と精神の働きは天性、すなわち霊魂(れいこん)に原因するものであります。美しい品性、純潔な心、高尚な理想、善と愛これは

老〇(ラウム)の生みたもうた私どもの元の姿であります。現代の人も過去の人も未来の人も一様に

老〇(ラウム)から霊(たましい)を授けて頂かなくてはなりません。人間だけではなく、聖賢(せいけん)、仙(せん)、仏(ぶつ)の霊も同じことです。聖(せい)、賢(けん)、仙(せん)、仏(ぶつ)として尊ばれ、慕われるのも、曽(か)つては天道を求めて、これを得たからであり、誠心(まごころ)を以て

老〇(ラウム)を拝み、信仰したからこそであります。

老〇(ラウム)の御心を心とし、御意思を意志として人類に貢献したからこそ、人々から尊敬と称賛を得られたのです。結局、最後の勝利者は自らの罪を隠さずに認め、功徳を積まれた人です。道と徳を無上の法として考え、天の意、天の心を最高目標として遵ったからこそ斯様に永久に不朽の名声を揚げられたのであります。

天道の主神を

釈迦は「阿弥陀(アミタ―バ)」(無量寿:かぎりないいのち、無量光:かぎりないひかり)「西天仏母(せいてんぶつぼ)」「瑶池金母(ようちきんぼ)」と申し上げております。

キリストは「神」或いは「天に在(いま)します父」と申し上げています。

孔子は「上天」或いは「明明上帝(ミンミンスワンティ)」と申し上げています。

老子は「万霊真宰(ばんれいしんさい)」或いは「無極聖母(むきょくせいぼ)」「天地生育之母(てんちせいくのはは)」と申し上げています。

マホメットは「アラー」或いは「天主(てんしゅ)」「大神(おおかみ)」と申し上げています。

日本の神道では「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」あるいは「国常立尊(くにとこたちのみこと)」と申し上げております。

インドのヒンズー教では「ブラウマン」と申し上げ、シーク教では「ラーマ」と申し上げ、ギリシャでは「ゼウスの神」と申し上げ、埃及(エジプト)では「オシリス」とそれぞれ異(ちが)ったお名前で申し上げております。しかし斯様に尊称が違っていても結局は同一神である

老〇(ラウム)の御神体であります。民族と時代の相異によって多少地方化、風俗化されてはいますが、総ての人類の霊の親神様に違いはありません。

老〇(ラウム)と云う御尊称は神様自体がお名付けたもうたので天道では統一して

老〇(ラウム)と申し上げています。各宗教でのお名前は聖人が名付けたのです。

先に述べましたように人間がつけたお名前を用いても差し支えありませんが、宗教以前の天道を一般の宗教と混同されない為に、亦、誤りを避ける理由で神様の示したもうた通りの尊称を使っています。天道は

老〇(ラウム)の天命によって直接に降された唯一(づいいつ)の大道であります。末法の年、末世に降された只一つの救いの法船であります。宗教によって到達する最終目標は天道であり、

老〇(ラウム)の在(いま)します理天(極楽、天国)であります。

続く


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