四十六、初めは精進し、後に怠る
先哲が常に『道を得るは容易にして道を修めるは難し、道を修めるは容易にして道を了するは難し』と申されました。
これは人の終始一貫し難いことを説かれたのであります。
古の人が世を教化するのに、元来先に覚(さと)ったものが後覚者を覚らし、後覚者は先覚者を效(なら)う所の法を用いました。
普渡された今日、各地の成敗は、皆伝道に携(たずさ)わる者が全責任を負わなければなりません。
俗に『金鐘(きん賞)は敲(たた)かざれば響かず、世人は説かざれば醒(さめ)ず』と申されます。
また古聖は『人能く道を宏む。道人を宏むに非ず』と申して、人の努力によって道を宏める事が出来るのであるともうされました。
昔の仙仏や文士も、なお師の導きを待たれたと申されるのに、まして今日の多くの俗人においては、より以上の導きがなければなりません。
領道者はすべて衆生を化せんと欲れば、身を以て則(のり)となさねばなりません。
例えば、学ぼうとしても教えねばならず、教えを受けずして自らなし遂げた者は万中一人もおりません。
故に各引保師へ教導を催促して“道を立てて命を守り、嗜好(しこう)を除き、姦淫(かんいん)を戒め、人道を尽くし、天命を畏(おそ)れ、意志を堅め、坐工(ざこう:静坐の行)をし、勤倹(きんけん)でお燈を点じて焼香し、節険(せつけん)して、斎戒(さいかい)を持ち、徳を立て、非を除き、過ちを改め、参悟(さんご)する”などの十六宗旨を勤めて講和し、均(ひと)しく人々にこれを遵守(順守)せしめて変えぬようにせねばなりません。
前人が申されるのに『功なければ、果を結ばざるなり』とありますが、人を育てて成就(じょうじゅ)せしめることが、実は己を成就せしめることであります。
故に終始一貫して修行せねば結果を得られないのであります。
続く