四十九、因果の二字
因とは原因であり、果とは結果であります。
天下の人々が種々の悪を作(な)さず、諸々(もろもろ)の善を行う事の出来ないのは、すべて因果応報の理を知らないからであります。
天理が鏡のように、少しも違(たが)わずして、因が善なれば善を報い、因が開くなれば悪を報いる事を知らなければなりません。
邵康節(しょうこう)夫子は『或人が来て、如何なるものを福と言い、禍と言うかを占って下さいと問われるので、われが人を虧(か)けば禍となり、人がわれを虧けば福となるのである。
大廈(だいか)が千間あれど夜は八尺に眠り、万頃(ばんけい)の良田があれど日に升合を食うに過ぎないのである。
何の運命を占い、何の卜(うらな)いを問うのであろう。
人を欺(あざむ)けば禍となり、人を饒(ゆたか)にせば福となる。天網の目は恢々(かいかい)として漏らすことなく、その応報は迅速(じんそく)である』と申されました。
太上老子様は『瓜の種を蒔けば瓜を得、豆の種を蒔けば豆を得る。
種蒔く時期を失なわざれば、十年の根に芽が生じ果を結び、豆は豆、瓜は瓜として、その通りに借債を還さなければならない』と申されました。
仏教の経典には『前世の因を知りたければ今世受けるものがこれであり、来世の果を知りたければ今生作(な)すものこれである』と申されました。
総て一切は因があればこそ果があるのであり、果があるのは必ずその因があるからであります。
苦因は必ず苦果を得、楽因は楽果を得るのであって、この真理は少しも疑う余地がありません。
続く