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授業の実際漢字クイズ

2010-12-30 11:13:00 | 日本語教育
心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「漢字クイズ」
(12/22)
春庭のBC級ニッポン語教育研究18「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際ー漢字クイズ」

12/19、年内最後の授業。最後のクラスは初級漢字クラス。
 授業が終わったらその足で成田空港へ向かい、帰国する留学生もいて、じっくり初出の漢字を覚えるには、あまりよくない時間。明日からの冬休みを前に、皆浮き足だっている。

 本当は、字形に注意しながらゆっくり書き練習、音読み訓読み気をつけて熟語や漢字交じり文の読み練習をしなければならないのだが、どうやら、いくら練習しようとしても、右の耳から入った説明が左の耳から出ていってしまう状態。
 新出漢字の導入はちゃっちゃっと終わりにする。練習は「冬休みの宿題」ということにしてしまった。

 10月に来日して「あいうえお」から習い始めたクラス。これまでの3ヶ月、とても仲がよく助け合って勉強してきた。
 最後くらい漢字詰め込みはお休みにして、ちょっと遊びましょう。

 今日の初級漢字クラスのメインイベントは、「Five hint 」というクイズ。見たことのない漢字や、忘れている漢字を出題し、3つのヒントで答えをいう。

 3つのヒントだけで答えられたら3ポイント。当たらなかったらひとつ追加の質問ができる。ここであたったら2ポイント。当たらなかったらさらに追加の質問。ここで当たったら1ポイント。はずれたらゼロ。ポイントなし。

 最初に私がデモンストレーション。私の例題は「兎」と「象」「薔薇」など、初級クラスでは、教えない漢字。見たこともない漢字に頭をひねったあと、ヒントを言って答えさせる。

 例題第1問。「兎」と書いた紙を見せる。誰も読めない。それはそうだ。「うさぎ」という日本語は知っていても、漢字はまだ知らない。

 「First hint、最初のヒント。動物です」
 学生「?」
 「二番目のヒント。小さくてかわいいです」 学生「Cat? ねこですか?」
 「いいえ、ちがいます。最後のヒント。耳が長いです」
 学生「わかりました。Rabit」
 「日本語でどうぞ」「えーと、うー」
 別の学生「うさぎ!」
「正解です」という具合。

 ラビットはわかったのに、うさぎが答えられなかった学生はくやしそう。

 次に、クラスを半分に分け、赤チームに赤いマジックペン、青チームに青いマジックを渡す。二人ずつペアを組み、ペアワークで、正解にする漢字とヒントのことばを考えさせる。

 赤チームは、赤いマジックで紙に正解を書いておく。赤チームが考えた正解は「日本酒」「東京タワー」「鎌倉の大仏」「日本、酒、東京、大」は既習漢字だが、「鎌倉、仏」は未習。未習の漢字は、学生に聞いて私がこっそり書いておく。
 「タワー」と、カタカナで書くと簡単にわかってしますから、塔という漢字も教える。

 青いマジックを使う青チームが考えた正解は「新幹線」新は既習。幹線は未習。「年賀状」年は既習、賀状は未習。三問目の正解は「私たちは漢字、書けます」と言って、正解を見せてくれなかった。

ふたつのチームがかわりばんこに出題。

 青チームの学生が自分たちで考えたヒントを言う。
 「長いです」「とても速いです」「安くありません、高いです」
 冬休みに旅行を計画している学生から「しんかんせん」という正解が出た。3ポイントゲット。

 赤チームのヒント。「とても大きいです」「いつも座っています」「外に座っていますが、寒くありません」正解が出ない。

 青チームからの質問「動物ですか」「いいえ、どうぶつじゃありません」
 ここでちょっと私の助け船。いすの上にあぐらで座って手で印を結び「I'm a buddist」それで「ダイブツ」という答えが出た。ここでもめた。
 「ナラのダイブツは外にいません。かまくらと言わないから、正解じゃない」という赤チーム。「ダイブツ」があたったのだから、正解だという青チーム。「じゃ、1点だけ」と、仲裁。

 青チームの第二問「日本の人はこれが好きです」「フィフィさんも好きです」「飲み物です」
 赤チームの答えは、すぐに出た「お酒」「日本酒」。みんなどっと笑う。フィフィさんの日本酒好きはクラスで有名らしい。

 年賀状は、「じゅうしょとなまえを書きます」「お正月にもらいます」「郵便局へ行きます」というヒントで正解が出た。

 東京タワー。「一番高いです」「きれいです」「のぼります」というヒントで出た答えは「ふじさん」

 「ちがいます。東京タワーです」と、正解が発表されると、青チームは「ふじさんはきれいです。東京タワーはきれいじゃないです」と、ヒントの出し方が悪いとブーイング。
 「夜、ライトをつけるときれいですよ」と、私のヘルプ。

 青チーム、最後の問題。出題者はやけにうれしそう。
 「きれいです」おや、また「きれいです」というヒント。あとでブーイングがでないといいけれど。「かわいいです」ますますブーイングが出そうなヒント。
 「いつも冗談を言います」

 赤チームは、「わかった、わかった」と大喜び。声をそろえて「春庭先生」と言い、みな大笑い。
 青チーム「正解です」。私も大笑いして「春庭先生はきれいです。かわいいです。わあ、それは冗談ですねぇ」

 めでたく正解がでたところで、漢字クイズはおしまいにした。

 私の冗談好きも、クイズにしてしまう学生達の機転に、日本語の上達を確かめて、「みなさん、たのしい冬休みをすごしてください」と、ごあいさつ。

 「よいお年を」「よいお年をおむかえください」という年末のあいさつも上手に言えるようになって、今年の授業おさめ。
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2003年12月24日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/24)
春庭のBC級ニッポン語教育研究17「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール①」

 前回紹介した初級漢字のクラス。12名が、とても仲良く助け合っているので、教師としては大助かり。クラスの雰囲気がいいか悪いかは、教育効果が上がるかどうかに一番大きな影響を与える。

 教師がどれほど言語学の大家であろうと、第二言語習得理論の専門家であろうと、クラスの「助け合って学んでいこうとする雰囲気」が形成されていなければ、ザルに水を汲むような授業になる。

 最新の教授法理論の中では「ピアラーニング」がもてはやされてきた。
 ピアカウンセリング=専門家と患者という関係のカウンセリングでなく、立場を同じくする仲間同士による助け合いカウンセリング。
 同じように、ピアラーニングというは、仲間同士の「教えあい育てあい」によって教育効果を高めようとする教授法である。

 最新の教授法と聞いて、春庭「ワッハッハ、ついに時代が私に追いついてきた」と思う。

 教師と学生の関係を築くことから授業をスタートさせる、学生同士が知り合い仲良くなることで教育効果が高まる。
 15年前に日本語教師になったときから、私が実践していることだ。

 日本語教育に携わるようになったとき、私はハンディ以外もっていなかった。英語は下手。第二言語教育理論の専門家でもない。日本語学をかじったとはいえ、博士号もない。

 英語やフランス語など、外国語に携わることから日本語教師になる方が多い業界の中で、中学校国語教師から転身した私の日本語教授法の基本は、「ラポール形成」「ピアラーニング」につきた。

 クラスの中を楽しいいい雰囲気にすること。間違えても大丈夫、自分の居場所はここにあるという安心感。どんな質問をしても共に考えようとする教師の姿勢。このようなことが教育の基本であると信じてやってきた。

 教師にとって教える教科の知識は基本事項。しかし、知識だけもっていても授業は成立しない。教師が学生に関わっていこうとする態度、学生同士の助け合い学び合おうとする心を呼びおこすこと。よい授業のために必須の条項はたくさんある。

 楽しい雰囲気にするため、私は何でもやる。ときどきやりすぎて顰蹙もかう。
 これまでに紹介した日本語教授法クラス。どのように授業を行うかを実演してみせる私のデモンストレーション授業の中でも、おおいに受けたのは、すもうのジェスチャーだった。

 学生のひとりが、「日本語教師はジェスチャーの練習もしておかなきゃなりませんね」というので、「日本語教師は芸人を目指さなければ、やっていけません!」という、私の持論を披露。

 日本語の歌を歌って文法を導入するときもあるし、映画や小説の一部分を、シナリオにして、教師がひとり二役で演じてみせることもある。「朗読が上手」などは、芸のうちにも入らない。

 私がよく学生に披露する芸は、バレエのポジション。一番得意なのは、足を前後開脚して、180度に完全に開くこと。また、「パ・ド・シャ」という、「猫の足」の形でくるくる回転するのも得意。

 そんなもの披露して、日本語と何の関係があるのかって。な~んもありゃしません。
 ただ、学生の興味を授業に集中させるとき、「はい、はい、こっちを見て、集中して!」と叫ぶより、学生のひとりに「足を前後に開いてみせて」と、やらせて、開かないのを確認してから、私がぱっと開いて見せると、いっぺんに学生の注目があつまり、次の授業項目へ向かって、集中させることができる。

 留学生に対する日本語授業に限らず、教育の基本は「教室内のコミュニケーション」をいかになごやかに、いい雰囲気にするかが、重要。

 逆に、この雰囲気が壊れたときは修復がむずかしい。
 あるクラスで、全員が先週とうってかわってギスギスした雰囲気になっており、授業の進行がうまくいかないことがあった。

 連絡ノートに先週のクラスの報告があった。
 ディベート授業で、「それぞれの国の印象を話し合う」というトピックが出された。国の第一印象、私たちもよく話題にすることだ。
 エジプト=歴史の古いピラミッドの国。サウジアラビア=石油がとれる砂漠の国。フィンランド=森と湖とサンタさんの国。タイ=仏教寺院とほほえみの国。などなど。

 ある学生が、ペアになった学生の国の印象を「麻薬の輸出国」と言ったことから、ふたりが反目し合い、クラス内が対立してしまったのだという。
 結局このクラスは、仲直りできないままコースを終了する結果となった。

 私もディベートのトピックには気をつかい、国際問題になりそうな話題は避けているが、まさか、「国の印象」から対立が始まるとは、このトピックを提出した先生も予想がつかないことだったろう。

 クラスの雰囲気を作るための方法は、教師それぞれの個性。

 書道師範の資格をもつ先生が、最初のひらがなの練習のとき、筆と墨を用意し、「日本文化体験授業」として、ひらがなを半紙にかかせてクラスを盛り上げることもある。

 学生がひらがなの書き練習をしている間に、折り紙でひとりひとりに様々な形を折ってプレゼントする先生も。(私が本を見ないでできる折り紙は、つると兜だけ)
 春庭は、挫折したとはいえ、元ミュージカル役者なのだから、唄や踊りが主要ツール。

 日本語教師とは、かくも芸に精進するものなのだ。
 といっても、授業中にすもうのジェスチャーやったり、足を180度に開脚してみせたりする日本語教師は、日本で私だけである!

 春庭、「50代の日本語教師の部、餃子早食い暫定日本一(10/20『をんなとおんな』参照のこと)」の座のほか、「授業中に足を180度に開くことができる唯一の日本語教師」の座、も保持している。

 イブの夜。またもや「膝っ小僧が、寒うかあろうぉおお」の夜である。膝は寒いが、せめて、ジングルベルでも歌いながら、前後開脚180度。開き直るのが春庭の人生。

Dashing through the snow 
In a one horse Open sleigh
 
 オープンスレイ!オープンマインド!、開きっぱなし。今夜も、あなたのために、スプリングガーデン、開けてあります。
 よい聖夜を!!
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2003年12月25日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「ラポール」
(12/25)
春庭のBC級ニッポン語教育研究19「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「授業の実際・ラポール②」

 たたけよ、さらば開かれん。いつでもオープンの春庭教室。クリスマスの今日も、滞りなくオープンです。パンと葡萄酒もございます。
 おひとつワインなど飲みながら、こころと心をつなぐ授業の話、聞いてくださいな。
 

 はじめて習う言語。緊張している学生を前にして
「あなたは、この教室に受け入れられている」
「ここでは、言語の練習過程で、どんな間違いをしても許されるし、まちがえるのは当然のことだ」
「まちがってもいいから、できるだけたくさん日本語を口にしてほしい」
「教師は、あなたがまちがえながらも成長していくのを応援するし、必ずあなたの味方になる」
ということを、最初に教室内に浸透させることが、教師の仕事のいちばん基本。

 これを教育学では、「ラポール作り」と言う。

 日本語文法を日本語を使ってわからせながら、日本語の基礎を教えていく日本語教育。「文型つみあげ方式」である。

 直接法(日本語だけを用いて、日本語を教える教授法)で日本語を教えるには、教授者が日本語の文型、文法を熟知している必要がある。

 しかし、私は、日本語教授法を学ぶ学生にいう。
 どんなに言語学を修得しようと、日本語文法を完全マスターしていようと、ラポール作りができない教師は、教師ではない。

 これは、日本語教師だけじゃなく、あらゆる教育者に共通することだと、春庭まじめに信じております。

 教育の基本は、教師と学習者の間に生まれる、心とこころのつながり「ラポール」です。超まじめに、叫ぶ春庭。

 12月は、日本語教育のさわりをお話してきた。まじめに。
 日本語教育とは、何か。「日本語を母語として成長しなかった人に、第二言語としての日本語を教えること」

 日本語文法とは何か、についても、もうおわかりいただけたと思います。
 「文法」は、言葉を効率よく学ぶのに必要な、ことばの規則。
 ひとつひとつの単語を覚えることが、クラッチやブレーキの働きを知ることに相当するなら、車の構造や交通ルールを覚えることに相当するのが「文法」です。

 そして、「ことばの学習」「語学の勉強」とは。
 基本は「人と人がコミュニケーションをとろうとする、つながりあいたい、という欲求」からはじまる。

 私は、あなたと、つながりたいのです。もちろん心とこころで。あなたのこころ、受け止めます。

 場合によっては、成り成りて成り余れるところのもので、成り成りてなり合わざるところを刺しふたぐという、古事記が書き残した「あなたと私がつながる方法」も、有り得ます。ただし、この方法、春庭、辺見庸が相手の場合のみです。あんたじゃなくて、辺見庸がいいのよう!

 あなたには、春庭からの「愛」をおくるからね。
 自称マリアのごとき、慈母観音のごとき春庭からの深い愛を、今日のこの夜、あなたへ届けます。
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2003年12月26日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ①」
(12/26)
春庭のBC級ニッポン語教育研究20「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
「宿題答え合わせ」

 12月の「おい老い笈の小文」は、「へぇへぇ平成教育研究」(へぇへぇ、へぇなるきょういくけんきゅう)のBC級ニッポン語教育研究「サルでも出来るHow to teach Nipponia Nippon語」をお送りしてきた。
 前回で、ニッポン語教育研究第1段階は修了。今回は、宿題答え合わせ。宿題を出されてまじめにやってきたよい学生のための解説コーナーである。

 宿題の点検、一番たいへんなことは、宿題を出したことを忘れること。真面目な学生がいるクラスでは、級長タイプの学生が、「先生、先週の宿題、あつめましょうか」などと授業のおわりに声をかけてくれたりするが、教師も学生も宿題があったことなど、とんと忘れて、冗談に笑いころげたまま授業終了となることもよくある。

 漢字の宿題の点検。字形に注意。点や丸の位置ひとつで、別の漢字になってしまうことをわからせなければいけない。作文の宿題の点検。添削はたいへんだが、苦にはならない。それより、ひとりひとりに心をこめたコメントをつける。こちらに気をつかう。同じようなコメントになってしまうこともある。

 今回は、忘れずにきちんと宿題点検を行いましょう。宿題、やってありますか?

宿題1,象鼻文(03/12/03の宿題)
 「足跡でhawkさんが質問している「象鼻文」についても、のちほど詳しい説明をしたいと思います。」という宿題でした。

 「象は鼻が長い」という文の、主語はどれか、というhawkさんからの質問であった。
 これは、副助詞(トピックマーカー)「は」と、格助詞「が」の機能解説のところで、おおよそは理解してもらえたと思う。

 「は」は文全体の話題をしめす、文レベルの主題を表し、「が」は行為・事象の主体を表す格助詞。「は」と「が」は、同じレベルの助詞ではなく、たとえていえば「フルーツとりんご、どっちがおいしいですか」みたいな、レベルの異なるものを比べる、という一面があります。

 「象は」というのは、「私がこれから聞き手に話すことの話題の中心は象に関してです」ということを表す。

 「鼻が」は、「長い」という述語の主体を表す。長いって表現していることの主体は何か。「鼻」である。「鼻」というものが「長い」んである。

 象鼻文に限らず、「は」というトピックマーカーで表現される部分は、あえて英語に翻訳するなら「~に関して申し述べるなら」「~について説明するなら~」という意味で、「As for~」を用いる。「As for the elephant it has a long nose.」
「私は 教師です」という単純な文も、正確な翻訳をしようとするなら、「As for my job I am a teacher」と、言ったほうがわかりやすい。

宿題2 助詞「に」と助詞「で」
 「会社で働く」「会社に勤めている」を「会社に働く」「会社で勤める」と、言い換えることができなのは、どうしてか

 「に」は、存在するものや事象の状態が続いている場所を示す助詞。現在、実際に動いて活動している場所を示すのが「で」
 「タコが海で泳ぐ」というとき、泳ぐという動作を行っている場所が「海で」として示される。「タコ」は、活動している行為動作の主体。
 「タコが海にいる」というときは、活動ではなく、存在を示している。タコは「存在している」ことの主体。状態の主体である。

 「働く」は、個別的具体的な活動を表現する動詞なので「会社で」になる。「勤務する」は、その人の職業の状態、会社員としてその会社に存在していることを表現しているから「会社に勤めている」となる。

 「会社でつとめている」と言ったばあい、何か特別な活動をしていることを表現することになり「会社員として勤務している」という状態を表現するのとは異なってくる。
 「彼は最近、会社で大きなプロジェクトをまかされ、いっしょうけんめいつとめている」という場合、「勤める」ではなく「努める」という動作を表す動詞のほうがふさわしい。

宿題3「に」と「で」のちがいの教え方
 「日本語学習者が「いすに座る」と「いすで座る」というのは同じですか?と質問してきたとき、あなたなら、どう説明しますか。
 学習者は、日本語を学びはじめたばかり。ひらがなは読めるようになったけれど、日本語の文は「わたしは、がくせいです」くらいしか、習っていません。
 日本語もできない、英語もできない学生、学生が知っている言語ポーランド語もロシア語もわからない教師。
 こういう状況で教えることができるのが、「直接法=ダイレクトメソッド」という教え方です。
 春庭の場合、体をはって教えます。「いすに」と「いすで」の違い、宿題にしておきます。知ってしまえば簡単な教え方があるんです。でも、まだ秘密。」という宿題。

 別段、もったいぶって秘密にしておくほどのことでもなく、助詞の機能の違いがわかっていれば、その違いを学習者に教えられる。
 「で」は、上記の宿題2と同じ、活動の場所をしめす。
 「に」の別の機能、「目的地を示す」を思い出してほしい。(「駅へ行く」と「駅に行く」の違いについて、すでに説明した)

 以下、春庭方式文法説明。

① 教室に椅子を用意し、学生の前に置く。椅子から少し離れた場所に立つ。
② 「That chair is my goal place.」と言って、椅子を指さす。
③ もう一度「あの椅子は私の目的地です」と言って指さしてから、椅子に座る
④ 椅子の上に立つ。「Here is my action place.」と言って、椅子を指さす。「I do some action. Here is my action place」「ここは、私の活動する場所です」と説明してから、椅子の上に立っている状態から、「いすで すわります」と言って、しゃがむ。
⑤ もう一度②と③を繰り返す。

 この一連の動作で、「で」で示された「椅子で」は、「椅子」が活動を行う場所として限定されることと、「椅子に」は、椅子を動作の目的地としていることが、学習者にわかってもらえる。

 英語でスラスラ文法用語を駆使して説明する先生に教わるより、春庭が下手な英語で説明した方が、学習者に日本語文法の説明が「よくわかる」と好評である。
 これは、どのような文法説明の場合も、春庭は、具体的な動作や絵で違いを目に見える形にして教えているから。

 単純なことのように思えるかもしれないが、実際の教室で、靴を脱いで椅子の上に立ち、立ったり座ったりして体をはって教える教師は少ない。
 他の教師がしないから、春庭が好評を得ることになる。たいていの行儀のいい教師たちは、ここまでやらない。

 人前で靴を脱ぐことを行儀が悪いと感じる欧米系の学生がいるときは、ついでに、部屋へ入るときや、椅子やソファに足を載せるときは、日本の習慣として靴をぬぐことも教える。日本の生活文化だから。

 あなたの家、靴を脱いで入りますか?
 くつを脱がない文化を持つ人々にとって、靴を人前で脱ぐのは、あなたが人の家に入るときに、コートを脱ぐだけじゃなく、上着もセーターも脱いで、ステテコ一枚になってください、と言われるような気がするそうです。最初はちょっと抵抗を感じるとか。

 でも、日本には日本の生活文化があることを知らせるのも、日本語教師の大切な役割。押しつけることはしませんが、日本にいる間は、日本の文化を尊重する気持ちを持ってほしいと思っています。

 日本の「うち」と「そと」の文化のちがいも、おおきな問題。敬語もこの「うち」と「そと」の使い分けが関わってきます。
 
 「うち」「そと」の問題はまた後の課題にして、あしたは、敬語の宿題つづきを。
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2003年12月27日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ②敬語」
(12/27)
春庭のBC級ニッポン語教育研究21「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ② 敬語

宿題4,「差し上げる」は、敬語か
 「国の日本語学校では「差し上げる」は敬語だと教わったのに、来日したら、先生に対して「先生の荷物もって差し上げましょう」と言うと失礼だと教わった。

 差し上げるというのは、敬語なのか、そうじゃないのか、わからなくなった」という宿題。

 待遇表現(いわゆる敬語問題)については、また詳しく論じる機会をもちたいと思うが、とりあえず「差し上げる」について説明しよう。

 学習者は、giveにあたる日本語として、「やる」は子どもか動物に使う、と教わる。「金魚に餌をやる」など。ふつうは「あげる」を使う。「友だちに花をあげる」先生には敬語を使う。「先生にお茶を差し上げる」

 しかし、実際の敬語運用は、学習者にとって、大きな問題。学生が大きな荷物を持って歩いている教師に「先生、荷物をもってさしあげましょう」というのは、なぜ敬意の表現としてまずいのか。敬意をあらわすなら、どう言えばいいのか。

 現代の表現でいうなら、「先生、荷物をお持ちしましょうか」が、ニュートラルな表現。「先生、さしつかえなければ、荷物を持たせていただけませんか」などが、より丁寧な印象を与える。

 「荷物をもって差し上げましょう」というのは、すでに話し手が「荷物を持つ」という行為を行うことを決定し、それを前提として、それを聞き手に承知させようとしている。
 そのため行為が押しつけがましくなり、敬意表現と受け取られないのである。

 「荷物をお持ちしましょうか」「持たせていただけませんか」という表現なら、「持つかどうか」という行為の決定権は、相手にゆだねられている。そのため押しつけがましくない。

 敬語表現には、以上のように複雑な要素がからみあう。
 日本人学生でも、「先生、おりますか」など、謙譲語と尊敬語の混乱した使い方、「来週の授業、やすまさせていただきます」など、の誤用が見られる。
 (やすまさせて、という誤用、20年後には正しい表現とされそうな勢いで広まっている)

 敬語は、人間関係の円滑なコミュニケーションに必要とされるから、古来から形を変えながら生き残ってきた。
 ただし、敬意表現はすぐにすりきれるので、くるくると表現がかわってくる。

 「聞き手(第二人称)」をしめす言葉を例にしよう。
 昔は尊敬の意味を含んでいた「御前(ここにひかえている私から見て、前にいる方」「貴様(貴い方)」などの語が、現在では「オマエ」「キサマ」を目上の人に使うことはできなくなっている。

 このように、敬意表現は価値がすり切れやすいのだ。
 源氏物語ではよく使われる「給ふ」という敬語も、現代では、平社員が課長に「この仕事、仕上げておき給え」と、言うことはできない。

 敬語(待遇表現)には「丁寧語」「尊敬語」「謙譲語」がある。

 「見る」という動詞に「見ます」と「ごらんになります」と「拝見します」がある、というと、母語に敬語システムを持たない学生は「どうして、そんなにつかいわけなければならないのか」と、言う。

 なぜ敬語があるのか。
 では、逆に、敬語が発達しなかった言語を話す社会とは、どのような社会であったか。

 前近代の中国や欧州には、韓国朝鮮語や日本語のような敬語システムはなかった。
 「丁寧な表現」は、どの言語にも、多かれ少なかれ存在する。しかし、尊敬語は発達しなかった。
 なぜなら、身分が上の者と下の者は、決して会話をかわさなかったからだ

 身分が上の者と、身分が下のものが、直接会話することが許されていなかった社会では、敬語など必要がない。同じ階級の中同士で話すのだから。

 身分の上の方と直接口を利ける者は、ただひとりの伝送役のみ。あとの者は、伝送役にことばを伝え、伝送役から上の人のことばが返ってくるのを待つ。

 丁寧な言い方は必要であっても、尊敬語としての敬語(待遇表現)が必要がない社会というのは、身分の上下がハッキリし、上下は決して混じり合わない社会だった。

 日本社会が敬語を必要としたのは、身分の上下を越えて話ができたからである。

 古事記や万葉集などにも、下働きの翁媼が、天皇と直接会話をかわしているエピソードが出てくる。尊敬語を使えば、宮廷の庭掃除の翁が、たまたま御簾をかかげて庭を眺めている高貴な方に許されて、ことばをかわすことができたのだ。

 現代社会においても、敬語を駆使できれば、平社員が社長と直接会話することができる。

 この待遇表現システムさえ身につけてしまえば、相手に不快感をもたせることなく、だれとでも会話ができるのだ。

 便利な表現システムではありませんか。
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2003年12月29日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ③」
(12/29)
春庭のBC級ニッポン語教育研究22「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ③動詞のカテゴリー分類

宿題5,「が」を対象格としている動詞
 「が」格を対象格として持つ動詞。初級で扱う動詞は「みえる」「きこえる」くらい。
 「富士山が見える」「子どもの泣き声が聞こえる」、という場合、対象を示すのは「が」になる。「富士山を見る」「音楽をきく」と、どう違うのか、日本語学習者から、必ず出される質問である。あなたなら、どう説明しますか。(ヒント:意志動詞、無意志動詞)
という宿題。

 12/21に「水が飲みたい」「テニスが好きだ」など、「が」を対象格とする表現について説明した。要求や好悪など、心理的動詞の対象は、一般の対象格「を」ではなく、「が」によって対象をしめす、と述べた。

 では「音楽をきく」と「音楽が聞こえる」は、どうちがうか、と留学生に質問されたらどう答えるのか。

 動詞にはさまざまなカテゴリー(範疇)の違いがある。
 意味的なカテゴリー分類。例をあげるなら「変化を表す動詞」「移動を表す動詞」などのカテゴリー。変化動詞の例「焼く、切る、壊す」など、動作の前とあとでは世の中が変化する動詞。移動動詞の例「行く、来る、渡る」など、主体の位置が変化する動詞。

 また、文法的な違いによってカテゴリーを分ける。例として、アスペクトのカテゴリーをあげてみる。アスペクト(動詞の相)による分類では、「状態継続動詞」「動作継続動詞」のカテゴリーに分類できる。(以前は「瞬間動詞、継続動詞」と呼ばれていた)。

 「電気が消えている」は、電気を消すという動作が終了したあと、電気がついていない状態が続いていることを表す。こちらが状態継続動詞。動作は一瞬で終わってしまい、その動作の結果が残存していることを「~ている」という表現で表す。

 「死ぬ」という行為は一瞬で決定してしまい、「死んだ」と、過去形になる。そしてそのあと、「死んでいる」という状態が続くのである。

 一方、「ごはんを食べている」というのは、今現在、動作が継続していて、食べるという動作が引き続き行われていることを表す。こちらが動作継続動詞。

 日本語動詞の、過去形、非過去形、「~ている(アスペクトのひとつ)形」を、ことが起きる順に順番に並べてみると。
 動作継続動詞の場合: 食べる→食べている→食べた
 状態継続動詞の場合: 死ぬ→死んだ→死んでいる  
 と、なる。動詞のアスペクトカテゴリーによって、違いがあるのだ。アスペクトについては、またあとで。

 意志動詞、無意志動詞、という分け方もある。「みる」「きく」は意志動詞。「みえる」「きこえる」は、無意志動詞である。

 「昨日、私はローストチキンを食べた」という表現。「食べる」という動作を行った「私」はその動作を行う意志を持って、自分で口を動かして食べたのである。
 自分でも気づかないうちに、無意識で食べるということは、まず特殊な場合だけ。普通は、自分で意志をもち、自分から動作を行う。

 一方、「きのう、私は財布を落とした」という表現。文の形式は同じ「~は、~を 動詞」というかたち。
 しかし、「財布を落とした」私は、そうする意志をもってその動作を行ったのではない。知らないうちに落ちていたのだ。この場合の動詞「落とす」は無意志動詞。

 意志動詞の表現は「欲求形=~たい」にすることができる。「ローストチキンを食べたい」「ハワイへ行きたい」「彼女と結婚したい」など。

 しかし、無意志動詞の表現は要求の形が不自然になる。「財布を落としたい」と、表現したとき、知らないうちに落ちてしまった、という意味にならない。自分の意志で財布をどこかにわざと落とすことになる。

 「聞こえる」も、無意志動詞なので「音楽がきこえたい」にはならない。「聞く」は意志動詞なので、「音楽をききたい」は、OK。

 「見える、きこえる」は、その動作を行いたいという意志を持たなくても、自然の状態として、目に入ってくる、耳に入ってくるということを表現しているのである。

新幹線の車窓に偶然富士山が、という場合「あ、ほらほら、あっちに富士山がみえる」と言う。「あ、ほらほら、あっちに富士山を見る」とは、言わない。

 以上、今までに課題がでていた宿題の簡単な説明をしました。まだまだ、無意識のうちに使っている日本語で、外国人に質問されるとどう答えようかと悩む表現はたくさんあります。

 新しい宿題。
 むこうから電車がホームに近づいてくる。「あ、ほら、電車が来た、来た」と、友だちに知らせてやりました。
 留学生の友だちが「電車が来る、来る、じゃないんですか。だって、まだホームのところまで来ていないのに、来た!と過去形で言うのはへんでしょう。」

 さあ、あなたは、この「きた!」をどのように説明しますか。冬休みの課題です。
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2003年12月30日


心も頭もポカポカ春庭のへぇ!へぇ!平成教育研究「宿題答え合わせ④」
(12/30)
春庭のBC級ニッポン語教育研究23「サルでもできるHow to teach Nipponia Nippon語」
宿題答え合わせ④「ル形」と「タ形」

①日本語クイズ:動詞の「ル形」と「タ形」(非過去、過去、完了の形)。

2003/12/29 2: 3 pjtako すごく難しい宿題。
と、考えすぎるとわかんなくなるけれど、

2003/12/29 1:47 donblaco 「来る=まだ見えない」「来た=見えた!」って感じがします
と、感覚でとらえたほうが、わかりやすいかもしれない。どんぶらこさんのとらえ方、正解です。

 日本語教育では、動詞の基本形(辞書形)を「ル形」と表現する。英文法のテンスについて知識を持っている人が「現在形」と言うこともあるが、これは誤解を生む言い方。
 なぜなら、日本語動詞の「ル形」が現在を表すのは、存在をあらわす「ある」「いる」と、昨日「無意志動詞」として紹介した「わかる」「みえる/きこえる」などの」などの限られた動詞。
 無意志動詞というのは、意志のあるなしというより、「自分で制御できるか、できないか」と言い直したほうがいいだろう。

 「わかる」などは、本来は、わかるかどうか自分で制御できない動詞であったが、最近では、「理解する」と同じようにつかわれるため、「あの子の心をわかりたい」などのように、コントロールできる動詞として用いられるようになってきた。

 この存在をあらわす「在る、居る」や、「見える、聞こえる」は、「ル形」が現在の出来事をあらわす。しかし、一般の動詞は、基本的に「ル形」は未来の出来事を表す。
「オレ、昼飯を食べるよ」と言う人は、まだ、食べていない人。
 「しぬ、しぬ」というのは、まだシんでいない人がいう。「イク!イク!」も、これからイク人が叫ぶ。英文法でいえば、willやshallを用いた未来の機能を、日本語の動詞基本形は担っている。

 その出来事が実現したあとでは、現代日本語では「タ形」を用いる。「昼飯、もう食べた」など。
 しかし、「タ」の機能は、過去をあらわすだけではない。

 日本語の「過去形」とみなされている「た」の出自は、古典日本語の「たり」である。過去を表す「き」や「けり」に比して、「たり」は、完了と存続の意味を担っていた。その「たり」が現代語では「た」となっている。

 ゆえに、「た」を「過去形」と名付けてしまうと、他の機能に目がいかない場合もあるので、「過去形」と呼ばずに「タ形」と呼ぶ。

 「食べる」などの動詞基本形を「ル形」と呼ぶ。辞書形という場合もあるが、学校文法のように終止形という言い方はしない。

 現代語では、終止形と連体形は同じ形になっている。終止形と連体形を区別するのは古典文法では必要なことであるが、現代語では必要ない。それより、「食べた」を語幹「食べ」+「助動詞タ」と、とらえるのではなく、「食べた」は、動詞「食べる」の活用形のひとつ、ととらえる。活用の呼び名が「タ」形である。

動詞タ形には、過去を表すという以外の機能もある。
 「ほら、そこ、じゃまだよ。どいた、どいた」と、まだどいていない人に対して「タ形」で言うのも、古典語なら「どいたり、どいたり」であって、「そこから立ち退くという動作を完了させなさい」という完了の意味を含めているのである。

 ホームの向こうのほうに見えた電車に気づいた人が「電車が来た!」と、まだホームに着いていないのに言うのは、「完了」を前提とした「気づき」を表現している。
 「電車の到着」という事象が完了しようとしていることに、今私は気づいた!」と、言って居る。

 どんぶらこさんが「見えた!って感じがする」というのは、まさにその通り。今、現在電車の存在に気づいた人が「来た!」と叫ぶ。

 そして「電車が来る!」というとき、まだ電車の姿に気づいていなくても、「時刻表のとおりなら、まもなくホームに来るはずだ」という予測だけでも、言うことができる。

 普通はこんなふうにいちいち理屈で使い分けをしているのではない。「タ」の機能に過去の意味以外にあることなど、意識はしていなくても、無意識ではあるが、ちゃんと使い分けをしながら話しているのだ。

②日本語クイズ:自動詞に「たい」がつくか?

2003/12/29 2: 7 mysteries 「うんちがでたいんか」と群馬のおばあちゃんが言うのを聞いた

 これは、日本語の自動詞表現に関わる問題
 無生物を主体とした表現は、ふつう無意志表現になるので、欲求形「たい」はつかない。
「川が流れたい」も「山がそびえたい」「家が建ちたい」も、不自然。

 「わかる」「みえる」などの、自分でコントロールできない動詞、可能形もコントロールできないので、「富士山が見えたい」「もっと上手な文章が書けたい」などは不自然。

 群馬のおばあちゃんは、無生物「うんち」を自動詞「でる」の主体として「うんちがでる」と表現した。

 「うんちがでたい」とうんちを主体に欲求の言い方にしている。
 おばあちゃんは、うんちにたずねているのではなく、うんちをする本人に「うんちがでたいのか」とたずねている。

 おばあちゃんは、うんちをする本人とでてくる「うんち」を一体化したものととらえている。うんちは、それを出す本人の代理人として本人とその存在を等しくする存在として出てくるのである。

 I have a sore throat form a cold.(風邪でのどが痛い)
 と、英語ではどこまでも、本人が主体になる表現でも、日本語では「私」という語は出てこないで、ただ、「のどが痛い」と言う。痛いと感じているのは「私」であり、「のど」は痛んでいる場所、もしくは痛む対象であるが、「のどが」と、「のど」を中心にして表現する。

 日本語は「自分が、自分が」と、自分の行為であることを前面に出すことをきらう言語。

 年末の大掃除手伝いをしていて、花瓶にぶつかり大事な花瓶をわってしまったとき、たいていの人は「あ、花瓶がわれちゃった」と言う。

 割ったのは「花瓶にぶつかる」という自分の行為が原因であることが分かっていても、第一声は、ほとんどが「割れちゃった!」になり、最初から「あ、私が花瓶を割っちゃった!!」と叫ぶ人はいない。

 自分の行為であっても、「自分がコントロールして自分の意志で行ったのではない」という意識があるとき、自分が「割る」という行為を行ったのではなく、「自然にそうなった」「この現象は、私が意図して行ったのではなく、自然の推移や偶然として起こったのだ」という意識から、自動詞の表現「花瓶が割れた」と言うのである。

 「うんちしたいんか」と、たずねるとき、うんちをする本人がトイレへ行きたいのかどうか、意志を確認している。

 しかし、おばあちゃんにとって、うんちをすることは、本人がどうこう意志をもつからできるのではなく、自然にもよおすものととらえているのである。

 本人の意志のあるなしではなく、自然の推移のよって、ことが進むので「うんちがでたい」と、うんちの側に視点をおいて表現しているのである。

 日本語では、動作行為の主体をはっきりさせてだれが行うのか主体を明示する他動詞表現より、世の中の事象を自分がコントロールできないことととらえ、自然の推移として表現する自動詞表現のほうが、好まれる。

 ふたりが合意の上で結婚を決めたとしても、結婚報告のあいさつことば、上司への報告として、「来年、結婚の運びとなりました」「結婚することになりました」と、自分たちの意志ではなく、自然に決定したかのように言う「なる」表現のほうが、「来年、結婚することにします」「来年、結婚します」と、自分たちの意志を鮮明にして表現するより好まれる。

 おばあちゃんにとって、「うんちがでるかでないか」ということは、自分自身でコントロールすべきことではなく、「自然の推移」「自分では決められない事象に従っていく」と感じられたから「うんちがでたいんか」と、たずねたのである。

2003/12/29 3:13 mysteries 「この判子はよく押さる」(井上和子)さすがに言えないだろう

 とても押しやすく、きれいに刻印できる判子がある。その判子の性質を説明するために「この判子はよく押せる」「このハンコはきれいにおすことができる」と表現することは可能。
 以上の宿題の答え合わせ。

 では、みなさん、これにて「サルでも出来るnipponia nippin語の教え方」2003年の教室はこれにて閉室です。

 Nipponia nipponn語が「よくわかるようになりました」「文法って、けっこう笑えるって思えました」と、自然の推移的」感想。

 他動詞表現であるならば、「来年もしっかり勉強します」「日本語文章が上達するよう、勉学に励みます」などになる。よい年にしたいですね。