2011/03/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(1)超高層ビル
2月13日に訪れた横浜ランドマークタワーは、日本で一番高い高層ビルです。 最頂部296.33 m、最上階 273.00 m 。しかし、世界の高層ビルのなかでは第51位。
世界一は2010年1月に開業したアラブ首長国連邦ドバイにあるブルジュ・ハリファです。最頂部 828 m、最上階 621.3 m 。160階建て。800メートルの超高層、地震の多い日本では絶対に無理な高さです。娘は、台湾に友達と旅行した際に、台北101に登ったことがあります。高さ509.2mで、地上101階。世界2位のビルになってしまいましたが、アジアでは一番高い。
高いところに登るのが趣味のひとつである春庭。子供の頃にこっそり母の田舎にあった火の見櫓に登ったころから、高いところからの眺めが大好きになりました。よく行くのは都庁の展望室、文京区役所シビックセンターの展望室。無料なので。
ランドマークは、大人ひとり入場料は千円でした。高い!
超高層ビルを英語ではスカイスクレイパーskyscraperといいます。日本語で超高層ビルを摩天楼と呼ぶのは、skyscraperを直訳した語なのだと気づきました。辞書を調べてみれば、広辞苑などにも「摩天楼はskyscraperの訳語」と出ていました。こうなると、誰がこの訳語を思いついたのか気になるところですが、明治初年の翻訳語は訳者がわかっている例が多いのに、摩天楼については、訳者がはっきりわかりません。おそらくは中国語経由の漢語ではなく、日本で翻訳された和製漢語であろうと思うのですが、初出はどの本または新聞だったのか、知っている人がいたら、教えて欲しいです。
春庭の語感で言うと、摩天楼とは、まるで魔法のように空高く聳える建物のイメージ。「摩」には「する・こする・なでる・みがく」という意味のほかに「せまる・とどく」という意味があります。「天に届く楼閣」というのが「摩天楼」。
摩天楼は、Skyscraperをそのまま漢字熟語に訳した翻訳語。英語のskyscraperは、skyをscrapeするもの、という意味。scrapeは、「する・こする・みがく・えぐる」という意味で、「摩」の意味に近い。英語の、scraperとなると「くつみがき・道ならし道具・削り器・消すもの」という具体的な「ひっかくもの」「かすめ取るもの」を意味します。Skyscraperは、私には「空をひっかくもの・空を削るもの」という語感になります。
アーサー・ビナードは、英語と日本語との間を自在に行き来する言葉の越境者です。
2010年12月9日アーサー・ビナード講演会を聞きに行ったとき、ビナードさんが朗読してくれた英語の詩。「摩天楼の建設」
この詩、どこかにUPされていないか、いろいろ検索してみたのですが、日本語ページには見当たりませんでした。私の講演メモにはこの詩の作者は「ジョージ・オッペ」と記されていました。同じ講演を聴いて感想をUPしているチョムプーさんのブログ「ココナツカフェ」には「ジョージ・オッペル」と書かれていました。
オッペルは「オッペルと象」でおなじみの名です。(当初、オッペルという誤植が通用して、私が教科書で読んだのもオッペルでしたが、現在はオツベルまたはオッベルに訂正されています)
私がメモしたオッペより「オッペル」のほうが正しいのだろうと思って検索を掛けたのですが、どうしても出てこない。おかしいな、私は検索名人のはずなのに。
そこで英語サイトに期待をかけて、「skyscraper George Oppel 」で検索したら、Googleはとても賢いので、「もしかしてskyscraper George Oppen?」と、訂正してくれました。
「The Building of a Skyscraper」の詩がみつかりました。私ってやっぱり検索名人ね。ちょっと自己満足。あは、私が名人なんじゃなくて、Googleが私の記憶違いを訂正してくれたからだよね。
http://selectedpoems.wordpress.com/2010/09/18/george-oppen-the-building-of-a-skyscraper/
<つづく>
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2011年03月06日
ぽかぽか春庭「摩天楼の建設」
2011/03/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(2)摩天楼の建設
アーサー・ビナードは、2010年12月の講演会の締めくくりとして英語の詩『摩天楼の建設』を朗読しました。
この詩を取り上げるビナードに、「詩人の覚悟」を見た思いがしました。人々が忘れ去ろうとしていること、高層ビルの上から下を見ないようにしていること、それをビナードはあえて見ようとしています。
12月の講演の中では触れられていませんでしたが、ビナードはベンシャーンの絵に日本語の詩をつけた絵本を発行しています。『詩画集ここが家だ』
日本の人が下を見ないようにして忘れている「第五福竜丸」についての絵本です。広島長崎の原爆被害は毎年記念式典もありますが、多くの人の脳裏から忘れ去られている第五福竜丸の核実験被害について、思い出そうとするビナード、摩天楼の上にいても、その下をきっちりと見届けようとする詩人です。
そう、詩人とはめまいがするのを覚悟で、摩天楼の作業桁の上で、目をそらさずビルの下をのぞき、ビルが建てられるより300年前の裸の大地を見据えることのできる人のこと。
ほんわかとした日常をほんわかと癒してくれる言葉も必要ではあるでしょう。人間だもの。が、私はこのGeorge Oppenが指し示すような、きりきりとした鋭さを含む詩に勇気づけられる。
横浜や東京ウォーターフロントの、新宿新都心の、ニューヨークマンハッタンの、シカゴスカイスクレイパーの、立ち並ぶ摩天楼の、300年前の大地を俯瞰し、空をひっかく傷を我が身に負う覚悟の詩人たちの言葉を、私は読み続けたい。
私も、大地から切り離された高層ビルの屋上のような環境で、下を見ないようにして暮らしている一人です。下を見て世界の本質を知ろうとすれば、めまいがして落っこちてしまうでしょう。詩人のように物事の本質を見据えようという覚悟もなく、やわな日常を生きています。めまいを引き受けて、高層ビルの下にあるものごとの真実をのぞき込む詩人に感心しながら、今日もただふわふわとした日常を、生きています。
「The Building of a Skyscraper」を訳してみました。春庭の試訳ですから、きちんとした訳を知りたい人はアーサー・ビナードの著作を探してみて下さい。ビナードwith木坂涼さんは、もっとちゃんとした日本語詩にしていて、どこかの本に載せていると思うので。
The Building of a Skyscraper 高層ビルの建設 by George Oppen
The steel worker on the girder 作業桁の上の、鉄骨作業者は
Learned not to look down, and does his work 下を見下ろさないことを学び、仕事をする
And there are words we have learned ここに我々が学んだ教訓がある
Not to look at, 下を見下ろすことなく、ものごとの本質を見ないようにしていたことを
Not to look for substance 見ようとすると、
Below them. But we are on the verge めまいがしそうだ
Of vertigo.
There are words that mean nothing 何も意味しないことばもあり
But there is something to mean. 何かを意味することばもある
Not a declaration which is truth 真実の告白もあり
But a thing そうでないのもある
Which is. It is the business of the poet しかし、これは詩人の仕事だ
“To suffer the things of the world 世界のことがらを引き受けて苦しみ
And to speak them and himself out.”ことばを話し、自分自身を外へ出していく
O, the tree, growing from the sidewalk— 歩道に育っている木は
It has a little life, sprouting 芽吹いている小さな命を持っている
Little green buds 小さな緑の蕾が
Into the culture of the streets. 通りの文化の中にある
We look back この土地の300年間を振り返ると、
Three hundred years and see bare land. 裸の大地が見える
And suffer vertigo. めまいがするのを引き受けよう
<つづく>
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2011年03月08日
ぽかぽか春庭「盲目の摩天楼」
2011/03/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(3)1939年9月1日、盲目の摩天楼
1939年9月1日に起きたナチスドイツによるポーランド侵攻のニュースをきいて、アメリカの詩人オーデンが書いた詩の中に、摩天楼は「blind skyscrapers」として登場します。2001年9.11のニューヨーク貿易センタービルへの攻撃のあと、この事件を予言したかのごとき詩として話題になりました。
詩人は倉庫が建ち並ぶ52番街の安酒場に居座ってニューヨークの街の人々を思い、リンツ近郊で生まれたヒトラーが巨大な狂った神のような独裁者となったことを恐れ、日常生活にしがみついている人々を憂えています。しかし、詩人は一筋の焔がつかの間でも正義を見せ、人々の交わすメッセージを照らし出すことを信じています。
September 1, 1939 by W. H. Auden (訳:松岡直美+春庭)
I sit in one of the dives
On Fifty-second Street 52番通りの安酒場で
Uncertain and afraid 私は不安に怯えながら座っている
As the clever hopes expire
Of a low dishonest decade: 低調で不正直な十年の小利口な希望も尽きたから
Waves of anger and fear 怒りと恐れの波は
Circulate over the bright
And darkened lands of the earth, 地上の闇と光の上を旋回し
Obsessing our private lives; 我らの個々の生にとりつく
The unmentionable odour of death 言葉に出来ない死の匂いが
Offends the September night. この9月の夜を犯す
Accurate scholarship can 正確な学識をもってすれば
Unearth the whole offence 全てを明らかにするだろう
From Luther until now ルターから今日に至るまで
That has driven a culture mad, 文明を狂わせた攻撃のすべてを
Find what occurred at Linz, リンツで起こったことを
What huge imago made どれほど巨大な心像が
A psychopathic god: 精神を狂わせた神を作り上げたかを
I and the public know 私も市民も知っている
What all schoolchildren learn, 全ての児童が学ぶことは
Those to whom evil is done 悪がなされれば
Do evil in return. その悪業は報復されるということだ。
Exiled Thucydides knew 追放されたツキディディスは知っていたのだ
All that a speech can say 民主主義について
About Democracy, 言論の総体がどんなことを言えるのかを
And what dictators do, そして独裁者が何を為すかを
The elderly rubbish they talk 奴らが無関心の墓場に向かって語る
To an apathetic grave; 古くさいでたらめを
Analysed all in his book, 彼の本にすべては解き明かされている
The enlightenment driven away, 啓蒙の考えは駆逐されると
The habit-forming pain, 慢性的な痛みは
Mismanagement and grief: 誤りも哀しみも
We must suffer them all again. 我らは再びこれらすべてを苦しむことになる。
Into this neutral air このねずみ色の空気の中で
Where blind skyscrapers use 盲目の摩天楼が
Their full height to proclaim その高さいっぱいに
The strength of Collective Man, 集合体の人間の強さを主張する
Each language pours its vain 個々の言葉は無益な
Competitive excuse: 弁解を競い合う
But who can live for long しかしいったい誰が長く
In an euphoric dream; 愉悦の夢に生きられるものか
Out of the mirror they stare, 彼らが凝視する鏡から
Imperialism's face 帝国主義の顔と
And the international wrong. 国際的な悪業が浮かび上がる。
Faces along the bar バーに並んだ顔は
Cling to their average day: 日常にしがみつく
The lights must never go out, 灯りを消してはならない
The music must always play, 音楽を鳴らし続けなければならない
All the conventions conspire あらゆる手段によって
To make this fort assume この砦が
The furniture of home; 家庭の趣をかもすように謀られる
Lest we should see where we are, 我らがどこにいるかを見極めないのであれば、
Lost in a haunted wood, 我らは呪われた森に迷う、
Children afraid of the night 幸せであったことも正しくあったこともなく
Who have never been happy or good. 夜を恐れる子供たちのように。
The windiest militant trash 大物たちがもっとも声高に叫ぶ
Important Persons shout 好戦的なたわごとも
Is not so crude as our wish: 我らの願望ほどに荒々しいものではない
What mad Nijinsky wrote 狂ったニジンスキーが
About Diaghilev ディアギレフについて書いたことは
Is true of the normal heart; 尋常な心の真実だ
For the error bred in the bone 男と女、それぞれの
Of each woman and each man 骨身に巣食う誤りは
Craves what it cannot have, 得ることのできないものを求めてやまない
Not universal love 普遍の愛ではなく
But to be loved alone. 自分一人だけが愛されることを。
From the conservative dark 用心深い暗闇から
Into the ethical life 倫理的な生の中へ
The dense commuters come, 通勤者の群は
Repeating their morning vow; 朝の誓いを繰り返す
"I will be true to the wife, 「私は妻に誠実であろう
I'll concentrate more on my work," 仕事に集中しよう。」
And helpless governors wake そしてどうしようもないオヤジども起きだして
To resume their compulsory game: 義務となったゲームを再び始めるだけだ
Who can release them now, 今、いかにして彼らを解放できようか
Who can reach the deaf, いかにして聾者に耳を傾けさせ
Who can speak for the dumb? いかにして唖者のために語ることができようか
All I have is a voice 私にあるのは声のみ
To undo the folded lie, 畳み込まれた嘘を解きほどく声
The romantic lie in the brain 通りにいる好色な男の頭にある
Of the sensual man-in-the-street 虚構の嘘や
And the lie of Authority 権威の嘘を
Whose buildings grope the sky: その楼閣は空を手探りする
There is no such thing as the State 国などというものはない
And no one exists alone; 誰もひとりでは生存できない
Hunger allows no choice 飢餓は誰にでもやってくる
To the citizen or the police; 市民にも警官にも
We must love one another or die. 我らは互いに愛し合わねばならぬ、そうしなければ死ぬばかり
Defenceless under the night 夜、無防備に
Our world in stupor lies; 我らの世界は茫然と横たわる
Yet, dotted everywhere, しかし、どこにでも認めることができる
Ironic points of light 皮肉な光は
Flash out wherever the Just 正しき者たちが取り交わすメッセージを
Exchange their messages: つかの間照らし出す
May I, composed like them 私も、それらと同じく
Of Eros and of dust, エロスと灰で出来ているのだが、
Beleaguered by the same 同じ否定と絶望に
Negation and despair, 取り巻かれているのだが、
Show an affirming flame. 肯定の炎を見せてやれるかもしれない
このオーデンの詩は、ナチスドイツのポーランド侵攻のニュースに触発されて執筆されました。この1939年9月1日ポーランド侵攻後、ナチスがヨーロッパの脅威となっていることを憂えて、自国民に語りかけたのが、イギリスのジョージ5世の演説です。この演説に至るまでのジョージ5世の苦闘を描いた映画『英国王のスピーチ』がアカデミー賞の作品賞はじめ、主演男優賞コリン・ファー)、監督賞トム・フーパー、脚本賞デヴィッド・サイドラーを受けました。映画も見たいと思っていますが、その前に、本物のジョージ5世の演説を聞いてみました。(ゼミの先生に教えていただいたURLです)
http://www.awesomestories.com/assets/george-vi-sep-3-1939
戦争へ向かうという局面にあっても悲壮な感じではなく、訥々とした話し方です。流暢でスマートな紳士のスピーチではなく、木訥なしかし誠実な語りかけで、せつせつと国民に訴える、スピーチです。
オーデンの詩も、ジョージ5世のスピーチも、「人の心に届くことば」の本質を考えさせてくれます。
今、世界で起きていること。人々が交わすメッセージは、さえずりとなって世界中を駆け巡り、世界を変える力になっています。この一筋の肯定の焔は、どのような力をもってしても、決して消してしまえないと思います。
<おわり>