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にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

日本語教師養成 目次1-5

2011-01-01 09:24:00 | 日記
12/20 日本語教師養成(1)模擬授業
12/21 日本語教師養成(2)日本語教師の役を演じる
12/22 日本語教師養成(3)直接法
12/23 日本語教師養成(4)ダイレクトメソッド
12/24 日本語教師養成(5)模擬授業コメント


虹の授業日本語基礎4色の名前

2010-10-07 10:36:00 | 日記
2008/07/01
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(38)虹の絵

 「虹の授業」、漢字の「虹」の成り立ちで、漢字文化についても学びました。
 学生たち、漢字って、覚えるの面倒、と思わずに、「漢字も、トリビアクイズみたいでおもしろい」と思ってくれればいいのですが。
 「虫」や「竜」「亀」などが、それぞれの姿をあらわす絵からできた象形文字であることを確認したあと、お絵かきに挑戦です。

 ここで、「虹の絵」、お絵かきの課題。
 虹の絵を描いて、色を塗ってください。色鉛筆でもマーカーでもいいけれど、色ペンがない人は、色の名前を鉛筆で書いてね。

 お絵かきができたら、隣の席の人と見せあって、異同を調べます。
 たいていの人が弧を描き、七色に塗り分ける。

 「あらぁ、このクラスの人は、そろいもそろって7色だった。ほんと?ほんとに虹は7色なの?」
 
 学生「ええ、7色に見えるとおそわりました」
 虹の写真を見せます。
 ほんとに7つの色がみえますか。

虹の写真集サイト
http://www2.hamajima.co.jp/~tenjin/album/space/rainbow/rainbow.htm

 学生「絵にえがいたように、はっきり区切られて色分けされていないけれど、でも、虹は7色って教わってきたから、、、、」

 「そうね、教わってきたから7色って思いこんでいるだけで、実際の虹を見たら、7つに色が区切られているワケじゃないよね。肉眼でみれば、3色と思えば3色だし、5色と思えば、5つの色に見える」

 「虹の色が、いくつに見えるか、これは、実際に何色見えるかが問題じゃないんです。ことばのうえで、いくつにわけて表現するか、という言語文化の問題なんです。
 日本語ではおおかたの場合、虹は7色と言っているので、子供たちも7色見えるような気がして虹を見ます。

 でも、フランスの子供たちは、虹は6色といいます。フランス語言語文化ではそうなっているから。

 このように、虹の色がいくつ見えるかは、色の名詞をどのように分類しているかという色彩名詞と関わってきます。
 これは、それぞれの文化の問題。
 文化とコトバは切ってもきれない関係を持ちます。

 パプアニューギニアのある部族の色彩名詞は、3つです。
 「はい、色の区別が3つしかないなんて、少ないって思った人いる?日本語では、色を表すことばが、いっぱいあるのになあって、思わなかった?

 現代標準語では、500以上の色を表すことばが使われています。資格試験のひとつにカラー検定ってのもあるから、色に詳しい人もいると思うけれど、ふつうの人は500色なんてつかわないよね。

 これ、色彩名詞辞典です。500色のカラー印刷と色の名前が書いてあります。あと、マゼンダとか、印刷用語が出ています。見たい人は、あとでパラパラとめくって見てね。

色彩辞典のサイト
http://www.benricho.org/colors/50on.html

<つづく>
09:08 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2008年07月02日


ぽかぽか春庭「青いりんご」
2008/07/02
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(39)青いりんご

 現在、日本語の色彩名詞は500以上あります。
 私は染め物に興味があるので、色を染める話が大好き。
 志村ふくみ『一色一生』『色を奏でる』、吉岡幸雄『「日本の色辞典』『日本の色を染める』などを楽しんできました。

 自然の中には、さまざまな色がありますが、色彩名詞は、言語によって数多い言語もあれば、少ないのもあります。パプアニューギニアのある地方の言語では、色の名詞は3つ。
 それでも不自由はありません。色彩語を作っていないとしても、「葉っぱの色」とか「夕日の色」というように、比喩により色を区別していけば、どのようにでも色彩を表現できます。

 同じように、古代日本語で、色の名前、色彩名詞は、4つだけでした。
 はい、何色か言ってみよう。
 4つの色の名詞を言えるかな。

 基本はどの色だと思う?
 うん、色の三原色とか光の三原色とか思い出した人もいるよね。色の三原色は青赤黄、光は赤青緑だったよね。

 日本古代の基本色って、色や光の三原色とは別です。言語文化の基本色です。
 古代の色彩名詞、色は4色。
 まず、すべての光・可視光線を反射する白。とくれば、反対に、、、そう、すべての可視光線を吸収する黒。
 3つ目の基本色は。目に鮮やかで明るい赤。この三色が基本です。
 そして、残りは。この基本三色にあてはまらない色が青。

 だから、灰色も緑色も全部「その他」の扱いで「青」でした。葉っぱは「青葉」というし、灰色の毛並みの馬は「青馬」。鼻から鼻汁がでていると「青っぱな」。顔色が悪ければ、「青ざめた顔色」

 初夏の季節の風物をあらわした俳句。「目に青葉、山ほととぎす 初鰹」
 子供の頃、青葉という言葉をきいて、「なんで葉っぱを青いっていうんだろう、緑なのに」と感じた人はいませんか。留学生からは、よく質問がでますよ。

 「青いりんごはすっぱいです」という例文がテキストにあります。「漢字マスター300」の「青」という漢字の例文にでていました。

 ことし、2008年の授業では、5月19日に、「赤い林檎と緑色のりんごと黄色いリンゴがあります。青いりんごはありません。どうして青いりんごといいますか」という質問がありました。

 質問したのは、イランのアリさん。彼の母語はペルシャ語で、英語も堪能です。

 今期、朝9時からの文法の授業と、午後1時からの漢字の授業、私の担当授業をふたつともとっています。「SYB(si:b」=りんごは、アリさんの好きな果物。

<つづく>
00:22 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年07月03日


ぽかぽか春庭「青葉みどり子赤煉瓦」
2008/07/03
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(40)青葉みどり子赤煉瓦

 「青いりんご」について、もうイランのアリさんに答えてあげられますね。この「青いりんご」は、印欧語でいうブルーではありません。
 「青」を意味するペルシア語の「Lazward」とラテン語の「Lazur」は、語源はおなじ。ペルシャ語は印欧語の仲間です。

 余談:ラテン語の石はラピス。ラピスラズリは「青い石」という意味。
 天空の城ラピュタにでてくる飛行石がラピスラズリですし、『耳をすませば』の主人公作家を志す中学生の月島雫は、自作小説の主人公バロンとともにラピスラズリの鉱脈を探しに旅立ちます。

 アリさんの母語ペルシャ語は、アラビア文字で表記しますが、言語系統は、インドヨーロッパ語の仲間です。アリさんは、青いりんごSYBをペルシャ語の「si:b lazward(アラビア文字表記をアルファベットに変換)」英語の「blue apple」と解釈してひっかかったのでした。
 英語に翻訳するなら、青りんごはgreen appleになります。

 信号の「渡れ」は緑色のライトです。青緑のライトも増えてきましたが、英語ではgreen lightですし、国際交通シグナルは、赤黄緑です。
 赤信号青信号と言っていたのは、「青は緑を含む」からですし、赤信号に対して緑信号はごろが悪い。

 古代日本語では、「みどり」は、生まれ出たばかりのつやつやした新鮮な若芽を表現しています。生まれたばかりの赤ん坊はみどり児ですし、つやつやした髪はみどりの黒髪です。みどりという和語に中国語の「緑」が当てられ、色の名をあらわすように意味が広がりました。
 
 大きくなってくると、「なんでだらう」と、素朴に感じた疑問を忘れてしまうよね。でも、なんで?どうして?と、感じる心から学習がはじまるのです。

 アリさんが「どうして青いりんご?」と、質問してくれたおかげで、他の留学生も日本語の色彩名詞と形容詞についてくわしく知ることができました。

 日本の色彩語も、染料の植物名だったり、動物や植物の名を転用している色彩語が多いのです。たとえば、鳥のウグイスの色と同じだから、鶯色。空の色だから空色というように。

 ウグイス色って色彩名称、みんな、使ってる?「臙脂色えんじいろ、は?弁殻色べんがらいろは?煉瓦色れんがいろも、レンガの建物が少なくなったから、使わないかなあ」

 さて、虹の色について、みなさん、色彩名称を書いてきましたね。
 一番上には、赤と書いてきた人がいます。次はオレンジかな?オレンジのかわりに橙と書いた人いる?
 現在は橙色よりオレンジ色のほうが優勢ですね。色彩名称も時代によって変わっていきます。

 昔は桃色と呼んでいた色。現在「桃色のバックを買った」という人は若い世代にはほとんどいなくなりました。ピンクのバッグといいます。橙色の服を着ているという人もいないよね。「オレンジ色のワンピース」などと言います。

 最近は、絵の具やクレヨンに「肌色」という表示がなくなりました。肌の色は一色ではなくさまざまだ、という考え方が反映されています。薄橙、ペールオレンジ、ライトオレンジなどの色名になっています。

<つづく>
04:18 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月04日


ぽかぽか春庭「みどりい葉っぱ」
2008/07/04
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(41)みどりい葉っぱ

 色彩名称にかぎらず、日本語の語彙使用は、どんどん変化してきました。
 語彙も文法も変化したから、私たちは源氏物語の原文を、古語辞書と古典文法の力を借りずには読みこなすことができません。
 変化してなかったら、千年前の源氏物語と同じ日本語を話しているはずですね。

 では、色彩名称の分類をしてみましょう。
 日本語学習者が、作文を書いてきました。日本語教師になったつもりで、添削してみましょう。

 「日曜日、私は白い服を買いました。それから家族にプレゼントを買いました。
 私は母に赤い花をあげました。母は「ありがとう」と言いました。
 私は父にくつ下をあげました。父は「黒いくつした、ありがとう」と、言いました。
 くつ下は、黒じゃありません。ほんとうは、むらさきいくつ下です。
 わたしの姉妹は、10歳です。彼女にみどりいノートをあげました。」

 日本語教師、どこを添削しますか。
 そう、姉妹って言い方、気になるよね。学習者は辞書をひいて、sisterの訳語としてえらんだのでしょう。あまり性能のよくない簡易辞書などを使うと、sister=姉妹と出ています。日本語母語話者だったら、大学生の姉妹が10歳なら、妹と書きますね。このことは、語彙論の授業でまた詳しく学びましょう。今日は、色彩語についてだけチェック。

 今回は、イ形容詞と色彩名詞について直しましょう。
添削はみんなすぐできるよね。「むらさきい」とか「みどりい」と、言いません。

 でも、学習者が、「赤いと青いは形容詞です。むらさきい、だめですか。なぜですか」と質問してきたとき、納得させられるだけの説明をしてやってくださいね。

 日本の基本色について確認してあります。復習。
 そう、黒、白、赤、青でした。

 この4つは、形容詞として、くろい、しろい、あかい、あおい、になります。でも、紫と緑は名詞だけしかありません。まだ形容詞が成立していない。

 もともとは名詞だけだったのに、形容詞が成立した色彩語もあります。黄色と茶色。こちらはきいろい、ちゃいろいという形容詞ができあがっています。茶色の小瓶、茶色い小瓶、黄色のサクランボ、黄色いサクランボ、どちらも使えます。

 紫は、名詞だけなので、むらさきい靴下、ではなく、紫の靴下と言ってください、と説明すればいいんです。

 こういうとき、名詞、形容詞という文法用語が必要になります。必要になれば、いやでも文法用語を覚えなければなりません。必要ないのに文法書を開いても、頭に入らないけれど。

 murasakiと midoriは、語末が「i」で終わっていますから、いずれmurasakii、midorii形容詞化するでしょうね。「みどりくない、みどりければ、」という使い方が、子供世代でつかわれ、それを大人になっても使う人が多くなれば、形容詞化成立です。

 ええっ、もう、使っているの?「みどりくない」って。
 そっか、じゃ、あと10年だね。「みどりくない」が誤用ではなくなる日も近い。

<つづく>
06:25 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月05日


ぽかぽか春庭「虹の女神」
2008/07/05
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(42)虹の女神

 日本語は縄文語以来、数千年の間、いろんな変化がありました。記録に残されているのは紀元後の日本語だけですが、1200年の間にも、語彙や文法、おおいに変化していますから、現代語との差を調べてみるとおもしろいですよ。

 日本語は時代によってどんどん変化してきた言語です。これからもいろいろな面で変化していきます。
 この緑と紫の形容詞化は、たぶん、近い未来に実現すると思います。

 虹が空にかかっているのをみたことある人いる?
 今日書いた虹は、本当に見た虹を思い浮かべて書いたのかな。それとも、虹ってこんなふうだったよね、という知識で書いてきた?

虹の写真と、虹の科学のサイト
http://www.laser.phys.tohoku.ac.jp/~yoshi/hikari21.html

 皆さんがノートに書いていたのは、全部アーチ型でした。どの人もアーチの形で虹を描いてきたけれど、ほんとに虹はアーチ方なの?ほかの形にした人いない?
 でも、ね、虹はこれだけじゃないんです。

 ここで、映画の冒頭シーンを見せます。熊澤尚人監督作品『虹の女神』
 主演の市原隼人が空へ向けてケータイをかざしている。
 空には虹。水平に広がる虹。

 市原隼人が、ヒロインの上野樹里へメールで虹の写真を送ろうとしています。

「この虹、アーチ型ですか?水平だよね」
 パワーポイントで虹を映します。
 「これ、虹です。形をみて」
http://blog.goo.ne.jp/iwadas/e/b6ce0a8f5db9793284c482d89c6b5189

 今年、2008年4月の授業で、学生のひとりが「あああっ」と叫びました。
 「これ、これ、私、見たことある。小学生のとき、見たけど、だれも信じてくれなかった。水平の虹なんか、あるわけないって言われた。家族にも友達にも。そんなことすっかり忘れていたけれど。夢みたい。ほんとにあったんですね。水平の虹」

 子供のころ多摩地区に住んでおり、この水平虹を見たという学生がいたので、私も驚きました。
 彼女は、子供のころ見た水平の虹を誰にも信じてもらえないまま、心の中に封印してしまったのだと言います。
 でも、映画に写っていた水平の虹を見て、子供のころ見たことを思い出した。

 水平の虹を見たリクさんは、「ほんとにあったんですね、水平の虹、、、、」と、感無量のようす。リクさんの感激ぶりを見て、まわりの学生たちも、なんだか嬉しくなってきました。

 そう、私が気づいて欲しかったのは、ことのことなんです。
 虹は、アーチ型と思いこんでいる。
 水平の虹を見ても、回りの人が信じてくれないまま、いつのまにか、水平の虹のことは忘れてしまう。

 高砂淳二「虹の星」写真展。コニカミノルタプラザで開催中。
http://konicaminolta.jp/plaza/schedule/2008july/rainbow/index.html

<つづく>
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2008年07月06日


ぽかぽか春庭「虹が見えます」
2008/07/06
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(43)虹が見えます

 虹は円弧の形で空にある、と思いこんでいますが、逆円弧の虹もあります。
http://www.astron.pref.gunma.jp/news/080509arc.html
(ぐんま展望台サイトより)

 虹のなかに、自分たちが見慣れたアーチ型の虹でないものもあったように、ことばも、母語話者でない人から見たら、ずいぶん違って見えるものなんです。色の数も形も、自分とは違う見方があるし、自分は見たことのないものも存在しています。

 日本語についても、日本語母語話者は、「あたりまえ」のこととして日本語を読み書きしているから、こどものころ、ことばって不思議だなと感じたことなど、忘れてしまっています。

 なんで緑色の葉っぱを青葉っていうんだろう、どうして虹という漢字に虫がいるのだろうということのほか、なぜ?どうして?と思ったことがたくさんあるはずなのに、いつのまにか、「あたりまえ」の世界に住んでいる。
 私たちは、いったん母語の外に出て、違う目で日本語を見つめ直す必要があります。

 留学生は、「五十音図のジとヂの発音が同じなのはなぜ?」という素朴な質問を出します。
 「わたしがハルです」と「わたしはハルです」は、どう違いますか、という質問をしてきます。
 うまく答えられないとき初めて、あれ?自分は日本語について、知らないことがたくさんあるな、と気づく。

 「学校へ行く」と「学校に行く」は、どうちがうのか、と、質問されてはじめて、助詞の意味のちがいに目が向く。

 「私は会社員です。会社で勤めています」「今日も、会社に働きました。疲れました」こんなふうに学習者がまちがえたとき、「会社に勤めている」「会社で働く」っていうほうがいいよ、と訂正してやることは、今のあなた達にもできるでしょう。母語話者なんだから。

 でも、「どうして、会社でつとめる、は間違いなのか」「かいしゃに働く、は、なぜいけないのか」と、学習者が質問してきたら、どうしてまちがいなのか、説明できますか。
 それとも、「なんでもいいから、おぼえろ!」と、学習者をつきはなしますか。
 まあ、そういう先生もいるし、それもひとつの教授方法だと思います。

 「空に虹がみえます」と、「空に虹が見られます」は、どうちがうのか、疑問をもつ学生に、なんと説明したらいいでしょう。

 英語翻訳だと、どちらもA rainbow is seen in the sky. だったり、I can see a rainbow in the sky.であったりして、区別がつきにくい。

 でも、日本語の論理でいけば、ちがいがあるから、ふたつの文が存在する。

<つづく>
08:11 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月07日


ぽかぽか春庭「虹を渡る、銀河を渡る」
2008/07/07
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(44)虹を渡る、銀河を渡る

 「先生、そのふたつ、どう違うんですか」と、日本語教師志望者は聞きたがります。
 「そんなの、私が説明して、それを暗記するだけなら、高校の授業と同じでしょ。私は『考えるヒント』を出してやる係りです。自分の頭で考えてみなければ、日本語のおもしろさに触れたことになりませんよ」
と、私は答えます。

 学習者に説明するとき、文法用語はなるべくつかわない。
例文をたくさん出してやると、学習者自身で気がつき、わかってきます。そのためには、日本語教師は例文の引き出しをたくさん持っていること。

 「橋を渡る」「道を渡る」「川を渡る」を習ったあとなら、学習者は、「横断歩道を渡る」も使えます。
 「虹を渡る」「海を渡る」という語句も理解できます。
 読解の文章に出てくる、「鑑真は海を渡った」も大丈夫。

 中級以後、「危ない橋を渡る」という慣用句や、「綱を渡る」が、比喩的に用いられる場合も教えます。
 「世間を渡る」も出てきますが、「~を渡る」の基礎ができていれば、理解できます。

 上級になれば、「3時間にわたる討論」「武芸百般にわたって習得した達人」なども出てくるし、複合語の「冴え渡る」「知れ渡る」も使うようになる。
 中級上級になると、語彙の使い分けや、動詞の使い分けに質問も出てくる。

 学習者が「この文はいいですか」と、判定を求めてきます。
 「織り姫と彦星は、天の川を渡る」OK。
 「オリオン座は、冬の夜空を渡る」いいですよ。
 「宇宙ステーションは、宇宙を渡る」う~ん、微妙。文脈によってだね。
 「惑星は公転軌道を渡る」あ、それはだめ。

 「橋を渡る」は、「木橋を渡る」も「つり橋を渡る」「危ない橋を渡る」も言えます。でも、「道を渡る」は言えるのに、「山道を渡る」は、ふつうは使いません。

 さまざまな例文を並べると、「渡る」には、「~を~から~へ渡る」という文型が基本にあることがわかります。「~から~へ」は、表現しなくても、その意を含意している。
 到着地点がない「惑星は公転軌道を渡る」「山道を渡る」は、いえないことが、学習者にわかってきます。
 「察知、悟り」のかなたに、虹がかかるのです。

 はい、「~を渡る」という文型を教えるなら、「渡る」をつかった例文をたくさん言えるようにしておいてね。初級用の例文、中級用の例文、上級の例文。それぞれ引き出しにためておいて。

 7月7日、夜、天の川を渡るのは、織り姫彦星。

 日本語教師、「たなばた」の日近くになれば、たなばたの由来も話すし、日本と中国の「天の川を渡っていくカササギ」のイメージの違いについても、異文化理解のために話してやります。

 天の川にいる鳥のイメージのちがいについては
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200705#22
に書きましたので、ご覧ください。

 母語と日本語の間で格闘する日本語学習者にとって、日本語教師は、青空を渡る虹、銀河に横たわる白鳥座です。
 日本語教師は、言語文化の窓口。ことばの架け橋になる存在です。

<つづく>
01:10 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月08日


ぽかぽか春庭「虹のかけ橋」
2008/07/08
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(45)虹の架け橋

 私が「知識としての日本語学」について講義してしまえば、てっとり早く、必要な知識を伝授できます。でも、私が学生諸君にしてほしいのは、受験勉強をしてきたときのように、必死に知識を暗記することではありません。

 自分の頭で考え、自分の感性でことばをとらえてほしい。自分で日本語のさまざまな現象に気づいてほしい。

 「にじ」の一語から、日本語の音声、文字表記、語彙意味、いろんなことに気づいたでしょう?
 これからも、この「ことば不思議発見!」を大事にしていってほしい。
 そうすれば、日本語について、もっともっと知りたくなってくると思います。
 虹の架け橋を心にかけてください。知りたいことへの架け橋です。

 日本語教師は、日本語と他の言語を話している人の間に立っています。
 日本語教師は、異文化異言語の間を結ぶ、虹の架け橋として存在しています。
 異文化の間を結ぶ虹の架け橋として、日本語学習者の前にいます。

 ことばの架け橋になれる、すてきな日本語教師をめざしてくださいね。
 雨上がりの虹。古代の人は、龍神がこしらえたものだと信じ、この世から別世界へいくための架け橋だと信じていました。
 ことばへの虹の架け橋。それは、知りたいと思う心です。

 学びたい、知りたいと思う心がなかったら、大学で学ぶ意味はない。
 先生が黒板に書いたことを書き写すだけでは、大学の学習はできないと思ってくださいね。

 中級上級では、「本音と建て前論」など、日本語言語文化にかかわる質問や、待遇表現など、社会言語論に関する質問も出てきます。

 学習者からの質問。
 招待をうけていないとき、日本人の家に行ってはいけない」と聞いたけれど、新しい家に引っ越しした知り合いから、「お近くにおいでのときは、我が家にお立ち寄りください」という手紙をもらいました。これは招待されたという意味ですか?

 日本語言語文化、社会言語学では、日本語の常識だけではなく、社会性、文化歴史への感性も問われます。社会人としての常識や、待遇表現のさまざまな局面についても質問してきます。

 お役所ことばでは、「考えておきます」は、「No!」の意味で、「前向きに対処します」は、「話を聞くだけきいて、実際には何もしません」という意味になる、なんて、「留学生も聞いてびっくり」だよね。

 このような多様な日本語学習者からの質問に、どう説明したらいいでしょう。考えてみてね。
 学生「はい、考えておきます」

<つづく>
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2008年07月09日


ぽかぽか春庭「虹のかなたに」
2008/07/09
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹の授業(46)虹のかなたに

 以上、「春庭の日本語イントロダクション、ニジの授業」を紹介しました。
 「ニジ」の一語から出発し、日本語の音声、文字表記、語彙などについての、おおまかなイントロダクション、ここから日本語のさまざまな局面へと出発します。

 まずは、日本語に興味を持ってもらい、自分から日本語学のテキストを読み始めてほしい、そんな願いを込めたイントロです。

 近頃の日本人大学生は本を読まない、というのが、合い言葉になっていますが、ひとりでも日本語のおもしろさに気づいてくれればいいなと思います。
 私も、40年前は「文法の授業なんて退屈なだけ」と思っていたのですけれど、日本語の語彙も文法も、ほんとにおもしろいです、

 大学半期の授業数は90分授業で12~15コマ。
 試験やフィードバックの時間をとると、実際の講義コマ数は10~12コマほど。
 日本語概論、日本語教育概論という授業なので、どのようにもまとめられる授業ではありますが、私としては、できるだけ学生自身が手や脳をフル活用して日本語をみつめなおす時間にしたいと思っています。

 授業の最後のあいさつ。

 これから日本語学をまなぶ、日本人学生の諸君。
 自分で発見する「日本語の不思議」を大切にしてください。
 虹はアーチ型をしてることが多いけれど、水平の虹もある。
 文化によって、見方によって、虹の色分けはことなる。
 日本語も、意識すれば、いろんな表情が見えてきます。

 日本語教師になりたいという夢を持ってこの授業を受講した学生諸君、日本語学習者へ向かって、虹をかけてくださいね。異文化を持つ人、ことなる言語を話す人とも、きっと分かり合える。互いに心が通じます。

 きっと君たちもいつか、虹のかなたの夢に向かって飛んでいける。いつの日か信じた夢は実現するでしょう。

おまけ:ジュディガーランドの歌う「虹のかなたに・オズの魔法使い」をもう一度。
http://www.youtube.com/watch?v=10w_sEcHlGs

「虹のかなたに」春庭拙訳
♪  ♪  ♪
Somewhere over the rainbow way up high
There's a land that I heard of once in a lullaby
虹の向こうのどこか空たかく、子守歌で聞いた国がある

Somewhere over the rainbow skies are blue
And the dreams that you dare to dream really do come true
虹の向こうの空青く、信じた夢はぜんぶほんとうになる

Some day I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far behind me
Where troubles melt like lemondrops away above the chimney tops
That's where you'll find me
星に願う、いつの日か、雲を見下ろすところで目覚めることを
そこでは、すべての悩みはレモンの雫となって煙突の上へ溶け落ちる
君は、そこで私を見つける

Somewhere over the rainbow Bluebirds fly
Birds fly over the rainbow Why then, oh why can't I?
虹の向こうのどこかに、青い鳥が飛んでいる
虹のかなたの鳥達よ 私もいつか飛んで行ける、いつのひか
♪  ♪  ♪
 虹の橋は、きっとあなたを信じた世界へ渡してくれます。

<おわり>

にほんごでどづぞ2

2010-09-25 12:14:00 | 日記
2010/05/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(1)サヌい氏は存在するか

 自分が書いたことを訂正しなければならないとき、単純な誤変換などでは訂正したあと、いちいち「訂正した」という記述は残していません。しかし、本論の主旨に関わる記述で間違いに気づきとき、訂正するときは、文末に「○○という理由で、△△を××に訂正」という注記は入れなければならない。
 訂正する必要はないと感じるけれど、訂正ではなく注記を入れておきたいことも生じます。

 映画『デイアフタートゥモロー』の中の東京が災害に見舞われるシーンで、お店の入り口が鳥居であったり、バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれていたりすることの違和感から、これはハリウッドが見よう見まねで作り上げたセットの東京だから、このような違和感が生じるのだ、という感想を述べたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1018#comment
 
 店名の看板文字が「サヌい」となっていたことにも違和感を感じました。日本人名の表記で、漢字、平仮名、片仮名それぞれの表記があります。選挙用ポスターの人名表記など、書きやすさを重視して、漢字と平仮名を併用することもあります。しかし、平仮名とカタカナを混用するのは、名前のほうには見たことがあるけれど、苗字ではあまり見たことがありません。名前ではたとえば「マサゑ」とか「ツね子」なんていうのも私の母の世代まではありました。

 でも、店の名の看板に「サヌい」とあるのに違和感を感じたのは、日本語表記で語尾の「い」をそれだけ平仮名で表記した場合、「この語は形容詞である」という感覚になるからです。「サムい」「マルい」「ヌクい」「カタい」「ヤバい」など。
 店の名として「讃井」「さぬい」「サヌイ」ならば、違和感はありません。「さぬい」は名詞や人名と感じることもできる。しかし「サヌい」と書いてあると、この「サヌい」は、形容詞であると私は感じてしまったのです。「サヌい」なんていう形容詞は見たことありません。だから、店の看板の文字として違和感を覚えました。

 さて、「サヌい」への違和感と、その訂正についてです。たぶん、片仮名と平仮名を混ぜた「サヌい」も戸籍表記上、現在では認められないことはない、と思います。したがって、私が「サヌい」なんていう苗字が店の名として看板に書かれることはない、と感じたことは、間違いでしょう。しかし、私が違和感を感じたことも事実であって、これは訂正する必要はないと思います。私の違和感は、「日本人の苗字は、漢字またはひらがな、カタカナによって表記され、漢字かな交ぜ書きの姓や平仮名カタカナ交ぜ書きの姓はないとは言えないが、少数である」という一般的な見方によるものでありました。

 「苗字の表記には、漢字を用いる」という規定は、つい最近まで行政指導として存在しました。以前は、外国人が日本に帰化するとき姓名を日本風に直すよう指導され、それが義務ではなかったものの、漢字表記のほうが帰化申請が通り安いとされていました。現在はその指導もなくなり、カタカナの姓でもOKです。(使用漢字は日本漢字の常用漢字と人名漢字の範囲内に限られているので、中国簡体字などを使うことはできません)。

<つづく>
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2010年05月26日


ぽかぽか春庭「孫と侍」
2010/05/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(2)孫と侍

 トンガ王国出身のラグビー選手ルアタンギ・バツベイ(Luatangi Vatuvei)は日本国籍帰化後の戸籍名をカタカナ表記そのまま、ルアタンギという姓にしました。名前は「侍バツベイ(さむらいバツベイ)」です。ラストサムライにあこがれて日本に留学したことから、「侍」を名前に加えました。かって私が出講していた大学の出身ですが、スポーツ特待生で別学科。私の日本語クラスには在籍したことがなかったのは残念。怪我のため2009年にラグビーの一線からはいなくなりましたが、日本の戸籍名に「ルアタンギ」という新しい姓を加えた侍バツベイさん、これからも日本国民として活躍してほしいです。
 両親の国籍のふたつを持ち、成人後に国籍を選ぶ人もいます。野球選手のダルビッシュ有は2008年に日本国籍を選び、母親の旧姓によって戸籍を作り「東本有(ひがしもとゆう)」となりました。野球選手名の登録ではダルビッシュのままですが。
 
 かっては、国籍変更の帰化申請時に、「姓は、既存の日本人の姓のなかから選ぶ」という行政指導ありました。あくまでも指導であって義務ではなかったですが、法務局は新しい姓を記載することに慎重でした。ソフトバンクの孫正義は、帰化申請をしたとき、「孫は日本人の苗字にない」という理由で、既存の姓を選ぶよう指導を受けました。そこで彼はまず、家庭裁判所へ妻の姓の変更希望を届けさせました。奥さんは規定通りの手続きを経て旧姓の苗字から「孫」という苗字に変更しました。その次に「日本人が有する既存の姓」となった「孫」で帰化申請を出し、法律に則って「孫」という苗字が認められたのです。

 日本人帰化申請も時代の要請で変化があったように、日本語表記もこれから変わっていく部分もあると思います。「てふてふ」という歴史的仮名遣い、現代表記では「ちょうちょう」と書くことになりました。私の変化予想のひとつは、平仮名の長音表記が、カタカナと同じ「ー」になる、というものです。「おかーさん」「おねーさん」などの平仮名長音表記がメールの中などでは若者に使われているので、やがてはこれが標準表記になるという予想。当たるかな?

 侍バツベイさんにとって、きっと『ラストサムライ』は、日本そのものに思えたことでしょう。2003年公開の『ラストサムライ』あたりだと、日本人俳優やスタッフががんばって、「アメリカ的思いこみの日本」像をずいぶんと訂正して撮影に臨んだというエピソードが伝わっています。

 しかし、1987年公開のラストエンペラーだと、満州皇帝溥儀の弟溥潔の妻嵯峨浩の着物姿がなんともだらしない。妊婦姿ということなのだけれど、前あわせがダラ~としていて、とても人前に出られる着物姿ではなかった。髪型も変。江戸時代の浮世絵の花魁の結髪をさらに崩したようなおかしな後ろ姿でした。ヘアメイク担当者は、日本の浮世絵を参照しながら「これぞ日本女性の髪」と思って鬘を作ったのかも知れませんが、華族出身の皇弟の妻が花魁の髪型をすることは、ありえない。

 『デイアフタートゥモロー』で感じた東京シーンへの違和感、ハリウッド映画ではよくあること。映画『ラストエンペラー』の衣装やメイクで、私には嵯峨浩の奇妙な結髪が気になったけれど、中国清朝の宮廷を知る人々にとっては、あんなのはあり得ない、と感じる衣装や髪型もたくさんあったことでしょう。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』では、清朝時代の満州族宮廷の時代考証がかなり史実に近く、きちんとなされている感じがするので、『ラストエンペラー』の宮廷人たちの衣装やヘアスタイルが、これは、きっと「西洋から見た中国清朝なのだろう」とわかるようになりました。

 日本の時代劇でも、元禄時代の話なのに、女性の髪型が文化文政時代以後に流行した結髪だったり、ということはよくあることなので、そんなに目くじら立てることもないのかもしれませんが、映画の中に描かれる各国の文化、それぞれの国で「これは、我が国のようすとは違うぞ」と、感じられ、その国に人にとっては違和感が残るものなのでしょう。春庭カフェコラムでも、映画『ビルマの竪琴』のビルマ僧の僧衣がタイ仏教の僧衣であり、ビルマの人々には違和感を感じさせるものであったことを書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200808A

 『デイアフタートゥモロー』の東京シーンで、店の前に立つ鳥居に違和感を感じたことを述べましたが、大阪のウェブ友toukuroさんから、「ビルの前に立つ鳥居」の写真をみせていただきました。ほんとうにビルの入り口に立っている鳥居です。少し離れたところにある神社の参道だったところに、あとからビルが建ったのではないかということですが、ビルを建てるとき、石造りの鳥居があって建築の邪魔になったのではないかと思うのですが、罰があたりそうで、撤去できなかったのか、鳥居をくぐってビルに入っていく人々、毎日どんな気分でしょうか。「日本珍景百選」というのがあったら、推薦したい写真です。

<つづく>
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2010年05月28日


ぽかぽか春庭「どゆしていますか」
2010/05/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本語でどづぞ2(3)どゆしていますか

 文化の紹介や翻訳は、ほんとうに難しいものです。
 2007年の新聞記事に、ボストンレッドソックスのオープン戦デビューの松坂についてのニュースがあり、日本語を書いたボードを持つマツザカファンの少年の写真が掲載されていました。
 少年が手に掲げるボードには漢字もしっかりとワープロ打ちされ、「松坂氏、あなたはどうか私の野球に署名できます」と書かれていました。(2007/03/03朝日新聞)

 おそらく、あまり性能のよくない機械翻訳で日本語にしたものか、日本語をちょっとだけ勉強した人に頼んで訳を書いてもらったのか。少年は、「ちゃんと日本語で頼んであるんだから、きっと松坂選手のサインをもらえるに違いない」と信じてうれしそうにボードを持っているのでした。

 日本語では「アリエネー」表現が、留学生の作文や海外のおみやげ屋や、日本にあるエスニック料理店のメニューなどにも書かれていることがあります。そんな日本語を見つけるのは愉快で楽しみなことですが、逆に言うと私たちが書いている英語英文もおかしな表現がたくさんあるのでしょう。

 これまでコラムで紹介した文例からあげると、「Can you celebrate.キャンユーセレブレイト」というのは、celebrateに他動詞の目的語がないから、自動詞での意味となり「陽気にあそべますか」「お祭り気分にひたれますか」という意味になるという例など。安室奈美恵は「(この結婚を)お祝いできますか」という意味のつもりで歌っています。作詞した小室哲哉によると、これらは「和製英語」として作詞しているのだから、英語の正確な意味は問題にならないのですと。そ、そうだったのか。確かに、そう言われれば、この歌を歌うのは英語母語話者ではなく、日本語を話す人たちであろうから、まあ、ナイターのような和製英語として♪キャンユーセレブレイト~と歌えばよろしいのですね。

 麻布十番にあるポルトガル料理店の宣伝葉書の日本語。
 「ポルトガルを愛される方に、ちょうどア、タシカオープンして1年になりました。OBRIGADA! ランチパーティとティーパーティとディナーパーティどゆしていますか。ATASCAの料理はおいしい!お店もエレガントである!あなたにぴったりです。」
 「エレガントである!」と言い切るところが、何とも自信にあふれている感じがして笑えます。
   
 おもしろがりつつ、世界に広がっていくいろんな日本語に触れ、相手の文化を尊重しつつ世界のさまざまな文化とふれあっていきたいと思っています。

<おわり>
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2010年05月29日


ぽかぽか春庭「幸い」
2010/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーユーハッピー?(1)幸い

 「ハッピー」という外来語もずいぶんと日本社会に定着したので、新年の賀状に「ハッピーニューイヤー」とあるのもなじんできましたし、宗教が異なる民族が暮らす地域では、祝日のお祝いに「ハッピィホリディ」と挨拶するというのも知りました。たとえばクリスマスのとき、相手がクリスチャンなら「メリークリスマス」でいいですが、他の宗教かもしれないから、かわりに「ハッピィホリデイ」と言うのですって。

 私のお気に入りの留学生ブログ「I am a happy song私は幸福な歌」は、苗字のピンインがsongになるところから名付けられたブログタイトルです。毎日サイトを訪問して、彼が日々のあれこれ、日本の生活を記すのを楽しんで読んでいます。彼の「幸福な歌」は、私にたくさんのハッピィを与えてくれます。5月27日の日記には、「明日から始まる五月祭に行ってみる」と書いてありました。

 もうひとつのお気に入りに入れてあるブログ「my happy talkingしあわせなおしゃべり」は、私の最初のウェブ友ちよさんのブログです。2010年になって更新がときどきになっていますけれど、1月に行われた娘さんの結婚式のことで忙しかっただろうし、いろいろたいへんなのだろうと推察して更新をまっていました。2月末に浅田真央選手の銀メダルを祝福するコラムがUPされ、久しぶりに幸せなおしゃべりを読むことができました。

 1月のちよさん、娘の結婚式と言えば、母親にとっては、一生で一番の幸福と寂しさを味わうときでしょう。娘の幸いを願うひとときでもあり、手元から飛び立たせる寂しさのひととき。ちよさんにとってはひとり娘ですから、寂しさもひときわだったことでしょう。結婚式が予定されていた日から一ヶ月を過ぎても更新がないので、ちょっと心配になってきました。もともと体調が万全ではなかったちよさんが、結婚式の準備や当日の緊張などで疲れてしまったのではないかと案じていたのです。

 2月末の記事でも体調がよくないことはわかりましたが、パソコンを開く気持ちになったことをともかくもうれしく思いました。2010年05月09日のちよさんの日記タイトルは、ずばり「happy」です。娘の幸せを案じる母としてのhappy、娘として高齢のお母さんを思い、この母の娘でよかったと感じるhappy、ペットをいとおしみながら穏やかな暮らしを続けることのhappy、そのペットが御縁となって遠く離れたウェブ友を我が娘のように思って交流できることのhappy、たくさんのhappyがちよさんの日記のあちこちに綴られています。もちろん毎日の生活はhappyなばかりではないですけれど、happy!と口にしてみるのが好きです。

 子供は、女性にとって人生の手枷足枷のようなものだと言う人もいますが、その手枷が取れてみると、ぽっかりと心に大きな穴があく感じがするのではないかと想像しています。手枷がとれる状態を「幸い」と、漢字ではいうのですけれど。

 「幸」という文字、私は長い間「土」と「羊から横線を一本とった字」の形声文字と思いこんでいました。漢和辞書をひいてみると、今は「幸」の部首は「土」になっていますが、元の部首は「干」だったとあります。

 「幸」の漢字のかたち、実は「手枷の形を表した象形文字」なのです。漢和辞典の「漢字の成り立ち」を読んでみれば、「幸」は、甲骨文字の時代にすでに骨の上に刻まれていた文字で、罪人にはめる手枷の形を表していたのだ、と書かれています。手枷をはめられてしまえば「執」ですが、幸いにも罪を逃れて、手枷が手にない状態が「幸」であり、「幸い」なのだと知りました。
 幸を偏にしている「執」は、人が捉えられて手枷をはめられてしまった、という形声文字です。手枷の絵文字「幸」と、人が崖の下で背を丸めて手を前に出してかがんでいるようすを表した文字である「丸」を合わせています。「執」の部首も「土」です。

<つづく>
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2010年05月30日


ぽかぽか春庭「幸福」
22010/05/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アーユーハッピー?(2)幸福

 はたして手枷は、手のうちにあるほうが幸いなのか、ないほうが幸いなのか。姑は、舅がホスピスに入院していた六ヶ月は、手枷足かせの中の半年だったことでしょう。その手枷がとれた状態が「幸い」で、お習字の会だ童謡の会だ詩吟だと、生き生きと未亡人生活をおくって8年になります。

 私の手枷足枷、これからは「娘と息子の食い扶持を稼ぐ」のほかに「姑の介護」があることでしょう。もっとも、姑の介護の前に、自分自身が介護される身になるということも大いに考えられます。健康オタクで元気にすごしている姑に比べて、私はもう、グズグズのやわやわで、くたびれきっております。私の介護が娘息子の手枷足枷になるとして、それが子供にとって「手枷の幸い」となるとは思えないのですが、これも「幸い」のひとつの姿と覚悟していきましょう。

 「幸福こうふく」という熟語、私たちは日常生活でもごく当たり前に使っています。けれど、庶民にとって、和語「さいわい」や「しあわせ」に比べ、漢字熟語の「幸福」は、日常生活になじまないことばであったと感じる層もいたと知りました。

 昭和30年代の東京を描いた『稲妻』(原作:林芙美子 脚本:田中澄江)。成瀬巳喜男の傑作のひとつ。(春庭はこの映画を見ていません)。バスガイドになった末娘清子(高峰秀子)は、貧しい暮らしの思い出だけの下町を出て、山の手住宅地の世田谷で一人暮らしを始めます。清子は、兄と三姉妹が皆ちがう父親の子であることについて母親(浦辺粂子)を責めます。結婚離婚を繰り返し、ようやく4人の子を育ててきた母は、自立しようと苦闘する末娘から「産んでくれなきゃよかった」などと言われて泣いてしまう。無学でもなんとか生きてきた「明治生まれの母」です。

 この浦辺粂子演じる母のセリフに、「やだよ、幸福だなんて、そんなハイカラなもん、、、、」というのがあるのだそうです。書生とか、ちょっとインテリぶった人は「幸福」という漢語を口にするけれど、明治生まれのおっかさんにとって、漢字を並べた熟語は日常生活のことばではなかった、ということがわかって、そうか!と、感じ入りました。言葉の意味は辞書を引けばわかるけれど、ある言葉が時代の中でどんなイメージで受け止められていたか、という点は、後の時代になってしまうと、なかなかわからなくなる。「幸福」というのは、山の手の奥様や官員さんには似合っても、1953年の下町に細々と暮らしている『稲妻』のおっかさんにとって、「自分には似つかわしくない言葉」に思えたということがわかりました。(芳賀綏『日本人らしさの構造』p139)

 ましてや江戸時代の小娘が「私は幸福です」なんて言うはずもない。もっとも、時代小説は「江戸の衣装を着た現代小説」なのですから、正確に江戸のことばを再現する必要はないのですけれど。それでも、江戸時代の武士が「武士の社会は~」なんてことを言うと、日本語オタクとしては、違和感を感じてしまいます。「社会」は、英語のsocietyを幕末~明治初期に翻訳した語なので、江戸の武士が言うはずのない言葉です。

 ことばについてのあれこれを日常生活や読書のなかで採集して、一人でおもしろがっている、これが私のささやかな「幸福」です。映画やテレビドラマの中で気になることばを拾って調べてみる、これも楽しみのひとつ。
 テレビドラマや映画のテレビ放映をワイワイいいながら娘息子と見るときも、言葉について話題が出ます。『めがね』で、登場人物たちは与論島の浜辺でゆったりしたリズムの丁寧語で会話をかわします。親しさを増してもぞんざいな口調が出ることはないセリフまわしが、のんびりゆったりした島の空気感によくあっていました。

 『天然コケッコー』では、島根県浜田市の美しい田園風景と夏帆の島根の石見弁を楽しみました。『陰日向に咲く』では、宮崎あおい演じる鳴子が、「~してごしない」と言うと、娘が「~ごしないって、聞いたことがある、どこのことばだろう」というので、あとで調べてみると鳥取弁だとわかりました。東京に出てきた素朴で一途な鳴子によくあっている方言でした。
 劇場公開されてからテレビ放映されるまで1年2年待って、ようやく家族で「あれこれおしゃべりしながら映画を楽しむ」のも、ささやかな幸せ。
 
 happyもしあわせも幸福も、ひとそれぞれの感じ方があるでしょうけれど、人様からみたら「ナイナイづくしであるのは借金だけ」というわが家の暮らしも「生きてるだけでもうけもん」と思えば、一生懸命働いて、古本屋で電車の行き帰りに読む100円文庫本を買う、こんな生活も「幸い」で「幸福」で「happy!」です。ささやかです。

<おわり>


日本児童文学における外国文学移入の受容と変容-児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に」

2010-09-08 06:36:00 | 日記
2010/07/16
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容「児童文学の変形譚・レミとネロの物語を中心に」(1)レミとネロ

 2010年7月3日付け朝日新聞2面の「ひと」欄に、「本国での不人気はなぜ「フランダースの犬」の謎に挑むアン・ファンディーンダレンさん(39)」という人物紹介コラムがありました。
 日本人観光客がルーベンスの絵が掲げてある教会を訪れるのは、例外なくこの絵の存在を「フランダースの犬」のラストシーンで知ったことによるのだということ、本国では知られていない「フランダースの犬」が、なぜ日本では大人気なのか、という問題について取り組んだ人がいます。そう、私春庭もそのひとり。
 ファンディーンダレンさんの紹介を読んで、私もフランダースの犬について書いたことがあったのだ、と思い出しました。発表レポートを掲載しておきます。

 以下の文章は、大学院博士課程単位取得のためのレポートとして2008年に執筆したものです。単位はもらえましたが、ゼミで口頭発表のあと、批判点を整理し追加執筆しようと思っていたのですが、その余裕のないまま放置してしまいました。
 以下の掲載は、口頭発表原稿であるため、文体は「デス・マス体」です。「フランダースの犬」のネロと「家なき子」のレミを、日本社会はどのように受容してきたかという「外国文学の受容と変容」についての論考です。
============

1 家なき子
1-1 レミの受容
 明治時代には、子どものための物語も、欧米からの翻訳物語や翻案ものが流行しました。
 『家なき子』のお話。少年レミが、苦労の末に実の母ミリンダ夫人に巡り会う「母さがし物」です。
 原作は1878(明治11)年エクトル・アンリ・マロが書いた "Sans Famille"。
 1903(明治36)年、読売新聞記者の五来素川が翻案し、「未だ見ぬ親」と題して発売されました。

 主人公レミの名は「太一」に、太一が8才まで育った「シャヴァノン村」は「関谷新田」となり、育ての母は「関谷新田のお文どん」。太一が売られた旅回り一座の「ヴィタリス親方」は「嵐一斎老人」、犬の「カピ」は「白妙丸」と、すべて日本を舞台にしたものとして翻案されています。

 この「太一の物語」につよく心を動かされた小学生が東北にいました。
 1905年、小学校3年生だった宮澤賢治は、担任教師だった八木英三教諭が教室で読み聞かせてくれたこの物語に深い感銘を受けました。
 後年になって、賢治は八木教諭に会った時、自分の童話創作の動機を次のように語っています。(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』による)

 『 私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです。その時分、先生は「太一」のお話や、「海に塩のあるわけ」などいろいろのお話をしてくだすったじゃありませんか。その時私はただ蕩然として夢の世界に遊んでいました。いま書くのもみんなその夢の世界を再現しているだけです。 』
 翻案された欧米の児童小説が、東北花巻の小学生の心に残る。彼はその後『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』など、独自の作品をつぎつぎに生みだしていく。
 翻案小説が、他国に根を張り、それが新たな物語の種として育っていく、ひとつの典型がここに現れています。

 1911(明治44)年には「大阪毎日新聞」で、菊池幽芳が同じ物語を「家なき児」という題名で発表し、1912年に春陽堂から発売されました。以後、この「家なき子」という題が定着しました。
 現代日本の『家なき子』ファンにとっては、アニメの「家なき子、レミ」です。全51話の放映。日本テレビ系列で1977年10月2日から1978年10月1日まで。

<つづく>
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2010年07月17日


ぽかぽか春庭「ネロの受容」
2010/07/17
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(2)ネロの受容

2 ネロの受容
 このような「翻案もの」の中で、近年の傑作といえるのは、『フランダースの犬』です。
 原作は、イギリスの女性児童文学者ウィーダOuida(1839~1908)の短編『フランダースの犬A dog of Flanders 』
 日本の翻案テレビアニメ作品は、52話。

2-1 パトラッシュ
 1975年1月5日から同年12月28日まで、フジテレビ系列の「世界名作劇場」枠で放映されたテレビアニメシリーズ『フランダースの犬』は、短編だった原作を、日本文化にうまく適合させて、長編アニメにしてあり、翻案として成功をおさめた作品のトップクラスだと思います。

 このアニメの大きな特徴はふたつ。
 主人公ネロの年齢が、原作では15歳、アニメでは10歳であること。 
 アニメの第1話~40話は原作にはなく、アニメのオリジナルストーリーだ、という2点です。
 ウィ-ダの『フランダースの犬』とアニメ『フランダースの犬』の差は、同じ翻案物であるシェークスピアの『オセロ』と、川上音次郎貞奴一座翻案劇『オセロ』の差より、はるかに大きく、主人公の名前や地名を翻案した『未だ見ぬ親』と『家なき子』より、ずっと大きい。
 この差を無視して、ウィーダ原作の読者受容とアニメ作品「フランダースの犬」人気を比較することはできません。

2-2 検証フランダースの犬
 ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成しました。
 以下、読売新聞の特派員による記事(ブリュッセル=尾関航也)(2007年12月25日11時39分 読売新聞)より引用。
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  ベルギー北部フランドル(英名フランダース)地方在住のベルギー人映画監督が、クリスマスにちなんだ悲運の物語として日本で知られる「フランダースの犬」を“検証”するドキュメンタリー映画を作成した。
 物語の主人公ネロと忠犬パトラッシュが、クリスマスイブの夜に力尽きたアントワープの大聖堂で、27日に上映される。映画のタイトルは「パトラッシュ」で、監督はディディエ・ボルカールトさん(36歳)。
  制作のきっかけは、大聖堂でルーベンスの絵を見上げ、涙を流す日本人の姿を見たことだったという。

  物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。
  原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。

  米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。 悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。
  ボルカールトさんらは、3年をかけて謎の解明を試みた。資料発掘や、世界6か国での計100人を超えるインタビューで、浮かび上がったのは、日本人の心に潜む「滅びの美学」だった。

  プロデューサーのアン・バンディーンデレンさん(36歳)は「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけた。
  上映時間は1時間25分。使用言語は主にオランダ語で、日英の字幕付きDVDが今月(2007年12月12日)からインターネットなどで販売されている。
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<つづく>
06:54 コメント(0) ページのトップへ
2010年07月18日


ぽかぽか春庭「ネロとアロア」
2010/07/18
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(3)ネロとアロア

2-3 ネロとアロア
 
 アントワープの大聖堂でルーベンスの『キリストの降下』の絵を見て涙を流す日本人観光客の何人がウィーダの原作を読んでいるかは、不明です。おそらく日本人が涙を流すほとんどは、ウィーダの原作を読んでのことではなく、アニメ「フランダースの犬」を見てのことです。
 私自身、原作を読んだのは小学校のころであり、それから一度も読み直さなかった。今回のレポート執筆のために、50年ぶりに読み返しました。

 岩波少年文庫『フランダースの犬』、すぐに読み終わります。文庫95ページ分の、あっという間に読み終わる作品です。
 アニメ作品は1年間52話が放送されましたが、そのうちの原作相当部分は42~52話だけなのです。

 もし、原作通りにネロとパトラッシュの物語がアニメになったとしたら、これほど多くの人々が「もっとも心に残るクリスマスの物語は、大聖堂でルーベンスの絵を見上げてほほえんで死んでいくネロとパトラッシュ」という気持ちを持ち続けたかどうか、疑問です。

 原作ではネロは15歳になっています。アロアは12歳。原作でアロアの父親コゼツのだんなが、二人の年齢についての心配を妻に語る部分があります。
 『 コゼツのだんなは、とても心を悩ませながら家に入りました。その晩、粉屋は妻にこう言いました。「あの若者をアロアに近づけさせてはいけないよ。将来問題が起きるかも知れん。ネロは十五で、アロアは十二だ。ネロは、格好もよくて、なかなか美男子だからな。」 』

 原作が書かれた当時のヨーロッパで、15歳というのは、庶民階層の男子が自立してしかるべき年齢です。自分の人生を自分で開拓していくべき少年期から青年期への移行期間にあたっています。
 翻訳されて日本に移入された明治の日本でも、15歳はけっして「子ども扱い」される年齢ではありません。中学校への進学率はまだ低く、12歳で小学校を卒業したあとは、一人前の労働力として期待されました。

 また、ネロが15歳だとすると、12歳のアロアとふたりだけで親しくすることを心配する親の気持ちもわかり、アロアの父親が、ネロに苦言を呈するのも頷けます。年頃の娘をもった父親なら、15歳の男の子が自分の娘と二人でいっしょにすごすことを快く思わず、「うちの娘とつきあうな」と言うでしょう。

 アニメでは、ネロは10歳、アロアは8歳に設定されています。「15歳と12歳」に対して、「10歳と8歳」、この年齢設定の意味は大きい。10歳は、まだまだ自立するにはむずかしい年齢であるし、アロアとふたりっきりですごしていても、引き裂かれなければならない年齢には思われません。

<つづく>
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2010年07月19日


ぽかぽか春庭「ネロの時代」
2010/07/19
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(4)ネロの時代

2-3 ネロの時代
 『フランダースの犬』の作者、英国女流作家ウィーダ(1839~1908本名はド・ラ・ラメー マリー・ルイーズ)は、19世紀、ヴィクトリア女王の時代の人です。ウィーダが作家として活躍したころは、日本ではほぼ明治時代に匹敵します。この時代のイギリスにおいて、学校教育を受けて字が読める層と、読めない層の階層差は、現代では考えられないくらい大きなものでした。

 ウィーダの時代の考え方によれば、中産階級の子弟なら、学問を身につけて己の社会的地位を獲得すべきだし、土地財産をもたない下層階級の子どもなら、手に職をつけ一人前の職人になるなど、自立するための過程が必須でした。絵が好きなら、マイセン陶器などの絵付師に弟子入りするとか、タペストリーの下絵職人の親方の下で働くとか、なんとかツテを求めて、手に職をつけるよう家族が図るところだったでしょう。

 しかし、原作では、15歳のネロの唯一の家族ジェハンじいさんは、物語の最初からすでに80歳をすぎた老人であり、ネロの将来のために何かしてやれる状態ではありませんでした。牛乳配達ができないほどジェハンの身体が弱り、ネロが6歳で牛乳配達の仕事をおじいさんから引き継いだあとは、ほとんど寝たきりになっています。
 動けるうちにネロのために、コゼツ旦那に下げがたい頭でも下げるとか、教会が嫌いでも牧師に頼み込むなりして、ネロを徒弟奉公に出すよう、しておくべきだったのでしょうが、そうする前に病にたおれたてしまいました。ネロは自分の身の振り方について誰にも頼れず、親戚もいない村の中で自立の方法を探る機会はまったくありませんでした。

 ジェハンじいさんは、「ネロや、おまえが大きくなって、この小屋と小さな畑を自分で持って、自分で働いて、近所の人からだんな、と呼ばれるようになったら、私も安心してお墓にいけるというもんだよ」と、ネロに語りかけました。兵士として働いた後、ついに自分の土地も持たずに一生を終えようとしているジェハンにとって、ネロが自作農になるというのが、最高の夢だったのです。

 ネロは、「絵を描きたい」などとジェハンに語ることは、ジェハンを困らせるだけだと思っていました。また、徒弟奉公に出てしまえば、寝たきりのジェハンの世話をすることができなくなってしまいます。ネロにとって、ジェハンとパトラッシュとともに小さな小屋で生きていくこと以外の望みは、ひと目アントワープの教会の中にしまわれているルーベンスの絵を見たい、ということだけでした。「絵を描いて身を立てる」という方法をさがすなど、ネロ自身に思いも寄らぬことだったのです。

 原作で、ウィーダはネロについて以下のように書いています。
 『ネロは、貧しく育ち、運命にもてあそばれ、読み書きも教えられず、誰にも顧みられませんでしたが、その見返りに、いや、災いだったかも知れませんが、「天才」と呼ばれる才能を授かっていました。誰も、そのことを知りませんでした。ネロ自身も全く。誰も、そのことを知りませんでした。』

 ネロの画才に気づいたのはアロアの父、コゼツ旦那だけでした。しかし、コゼツにとって「絵を描くなどということはよくないことだ。絵を描いている間は労働せず怠けていることになる」ことであり、絵描きなどは乞食よりもっとタチの悪い存在と思えるものでした。
 ネロが暮らす小屋は、わずか20軒ほどの農家がある小さな村です。村一番の金持ちは、風車小屋を持ち粉屋を営むコゼツ旦那。しかし、コゼツは、ネロの画才に気づきながら、だから、けっして娘のアロアに近づけてはいけないと、妻に命じました。

 ネロの村の人々は、ネロたちが牛乳運びの仕事でほそぼそと暮らしを営むことを助け、パンやスープやたきぎなどを恵んでくれる人もいました。しかし、ネロの将来を考えてやれる余裕のある人はいませんでした。一番余裕があったコゼツ旦那は、ネロの将来より、「娘のアロアに有利な結婚をさせてやりたい。見た目がよくきれいなだけで金のないネロのような貧乏人とつきあわせてはいけない」という現実的な問題を優先させました。

<つづく>
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2010年07月20日


ぽかぽか春庭「女流作家ウィーダの時代」
2010/07/20
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(5)女流作家ヴィーダの時代

2-4 女流作家ウィーダの時代
 「フランダースの犬」の作者ウィーダが作品を発表したころは、女性がようやく社会に進出できるようになった時代でした。女性の社会進出には、女性も識字教育を受けるようになったことの影響が大きい。読み書き能力(リテラシー)は、社会進出の第一の手段です。

 19世紀ヴィクトリア女王の時代以前の英国女性の識字率は、とても低いものでした。農民男性の識字率も低かったですが、さらに農民女性は低い識字率でした。そして驚くことに貴族階級の女性の識字率も日本のように高いものではなかったのです。イギリスの貴族階級女性にとって「字を読み書きする」などという男性のようなリテラシーを持つことは、女らしくないことでした。「右筆(ゆうひつ)=貴人のために読み書きをして仕える使用人」を雇うことが貴族女性の証だから、自分自身が文字の読み書きをする必要はなかったからです。手紙も領地の相続に関わる公文書も、信頼できる有能な右筆に口述筆記をさせれば間に合いました。

 例をあげるなら、17世紀初頭、イギリスの名家ライル卿夫人の娘アン・バセット。彼女は、ヘンリー8世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(世継ぎのエドワード6世を生んで1ヶ月後に死去)に使えた女官であったけれど、「自分の名前しか書けない」と述べています。手紙は従者に口述筆記させていました。

 日本の上層階級の女性、特に宮中に仕えるような身分の女性たちは「女房奉書」という天皇の勅書に匹敵するような重要文書を書きこなすことが必須の教養とされていました。また農民や商人階級の女性でも寺子屋などで文字教育を受ける機会を得た場合、伊勢参りの旅行記を自ら執筆するくらいの文章力を持っていました。たとえば、江戸後期の福岡の商家のおかみさん小田宅子は、歌仲間の友人3人にお供3人を伴い、1841(天保12)年に旅行を敢行し、伊勢参り、長野善光寺参り、日光、江戸見物と、3200kmにわたる旅を旅行記『東路日記』に書き表しました。同行の桑原久子も『二荒詣日記』に書き、江戸女性の文章能力の高さを後世に残しています。
 江戸時代の識字率は、男女とも世界的に見て、日本は最高レベルであり、明治の近代化が成功したのはこの識字率の高さ、国民が近代化を受け入れることのできる教養をもっていたことによる点が大きいのです)。

 イギリス女性の識字率の低さについて、私はスーザン・W. ハル『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』 (刀水歴史全書)を読んで知りました。イギリス貴族階級の女性は高い教育を受け、読み書きできるとばかり思いこんでいたので驚きました。

 ヘンリー8世の娘エリザベス1世は、数カ国語に堪能で読み書き能力にもすぐれていたと言われていますが、それは特殊な例だったのです。一般の女性は、読み書きに励むより、幸福な結婚生活のほうを選ぶこともできました。しかし、エリザベスの場合、女王として戴冠するまでは幽閉の身の上を強いられていました。「王に反逆したアンの娘であるゆえ、王女の身分を剥奪された囚人」でしかなかったから、結婚以外の身の振り方を考えるため、教養を武器にするしかなかったという特殊事情がありました。すぐれたリテラシィを持ったエリザベスは、「幸福で平凡な結婚生活」ではなく、「国家との結婚」を選択することになりました。

 19世紀に至るまで、イギリスの識字女性は、上級階級でも下層階級でも少数派でした。
 読み書き(リテラシー)能力が必要だったのは、中産階級の女性の一部、貴族の家に住み込んで家庭教師として働かなければならないような階級の娘に限られていました。たとえば、ジェーン・エアのような。
 産業革命後、19世紀のヴィクトリア朝に至って、ようやく女性たちは文字を読み書きすることで社会進出をはたすようになりました。

 『フランダースの犬』の作者ウィーダも読み書き能力を身につけ社会進出を果たしたひとりです。ウィーダは、この時代の「自立した女性」がそうであったように、生涯結婚しませんでした。小説家として華々しい活躍をしたあと、晩年は孤独と貧困のうちにひとりぼっちで死にました。

 イギリスの女流作家を描いた作品、エリザベス・テイラー原作フランソワーズ・オゾン監督の『エンジェル』(主演ロモーラ・ガライ)は、ウィーダより少しあとの時代1900年代初頭を背景にしていますが、女流作家の生活が幸福な結婚とは相容れないものであるという結末は同じです。(エリザベス・テイラーは女優ではなく、別人。他の作品に『天使』がある)

<つづく>
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2010年07月21日


ぽかぽか春庭「立身出世の時代」
2010/07/21
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(6)立身出世の時代

2-5 立身出世の時代
 ビクトリア女王の時代、女性の幸福は、「より有利な結婚相手に出会って、つつがなく結婚生活をおくることだ」と考えられていたころでしたから、コゼツ旦那が一人娘アロアの結婚相手としてネロを拒絶したのもやむをえないことでした。ウィーダは、パトラッシュを酷使して半死のめにあわせた飲んだくれの前の飼い主を筆をきわめて悪く描いていますが、アロアの結婚問題に対するコゼツの考え方を批判してはいません。(ウィーダは大の犬好きで、晩年落ちぶれてからも犬のために財産を使い果たしました)

 年老いたジェハン・ダースじいさんは、ネロに「貧民の処世術」として「わたしたちは、貧しいのだから、神様がくださるものを、よいものでも悪いものでも、受け取らなければならないよ。貧しい者は、選択をすることができないんだよ」とネロに言ってきかせ、ネロはそれにさからうことをしません。ネロはアロアと引き裂かれてしまったことに心の痛みを感じながらも、理不尽な離別として不満を述べることなく、受け入れる努力をしました。

 当時の中産階級の女性として、自分が「下層階級ではない」と意識することは「自分は男性ではない」と思うのと同じ、当然のアイデンティティであり、ウィーダが自分より下の階層を見る目には「上から目線」が含まれるのも仕方のないことだったでしょう。読者層も「自分たちの階層のお話し」として読む人はごく少なかった。
 下層階級のネロを主人公にした小説が書かれた時代には、「上層階級」「中産識字階級」と、「下層非識字階級」との間に、現在では想像しがたい階級差があったことを忘れることはできません。しかし、ウィーダの視点が「だれからの援助もうけられない運命をたどったネロ」「はい上がることを拒絶された下層民のお話」という目線のもとに執筆されたこと、読者は「気の毒な階層のお話し」として、同情の目で読んだことを現代の視線でとやかくいうことはできないでしょう。

 そして、このお話が「はい上がろうとする下層階級」からみても、「能力に応じて自力で将来を切り開けと育てられた中産階級」からも、「下のものたちを指導し援助すべきノブレスオブライジを負う上層階級」からも、共感の得られないお話だったことも理解できます。西洋社会ではネロの生き方は「負け犬」としか思われなかったからです。
 19世紀の西洋社会において、階級間移動の機会はごく少なかった。貴族階級と平民では言葉さえまったく違っていたことは、『マイフェアレディ』で下町娘イライザが上流階級の発音や言い回しを身につけるため厳しい教育を受けなければならなかったことでもわかります。

 日本に「フランダースの犬」が移入された時代、(最初の翻訳は1908(明治41)年、日本基督教会の牧師日高善一牧師によります。この翻訳は40版まで増刷され、日本では原作の人気も高かったことがわかります。このころの日本は「立身出世欲」が最高に盛り上がっていた時代でした。
 華族士族平民の差はあったものの、士族であれ平民であれ、学校教育において能力を発揮すれば、立身出世が望める時代でした。明治の高官たちは、足軽や下士など低い身分から成り上がった人たちで構成されていましたから、「生まれつきの身分」を変えることにこだわらず、階層移動が成立しやすい社会であったことが、イギリスとは異なっていました。

 貧しい者が勉学の機会を得るには、①軍の学校に入る、②授業料無料の師範学校に入る、③故郷出身の成功者の家に「書生」として住み込む、など、いくつかの方法がありました。
 歌人斎藤茂吉は、③を選択し、斎藤家の書生になりました。私の夫の伯父や伯母は、②を選択し、教師になりました。

 20世紀になって識字率が上がってきたとはいえ、ヨーロッパの読書階級は上流中流層が中心でした。貧しいネロが、立身出世の機会を得られなかったことに、この時代の欧州の読者たちは、「上から目線」で読み、ネロに感情移入することはありませんでした。
 しかし、日本の読者はネロに感情移入し、涙を流し続けたのです。

 日本では江戸時代から読本赤本、御伽草子浮世草子の読者層は広がっていました。明治初頭に日本へ来たヨーロッパ人の「日本旅行記」には、馬車の馬丁や料理屋の女中まで、ちょっとしたヒマを見てはふところから本を出して読みふけっている、という光景を目撃してびっくりしたことが記録されています。明治に義務教育が普及すると、読み物の読者層もさらに底辺が広くなりました。ウィーダがこの作品を書いた時代、ネロと同じ階級の読者層はヨーロッパより日本のほうがはるかに多かったのです。

<つづく>
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2010年07月23日


ぽかぽか春庭「アニメ版フランダースの犬」
2010/07/23
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(7)アニメ版フランダースの犬

2-6 『フランダースの犬』の映像化
 『フランダースの犬』は、イギリス・アメリカでは4度映画化されました。しかし4回ともお話しは「ハッピーエンド」の物語に書き換えられています。ネロもパトラッシュも最後は幸福になるのです。(1914年版:ハウエル・ハンセル監督、1935年版:シャルル・スローマン監督、1960年版 :ジェームズ・B・クラーク監督、1999年版:ケビン・ブロディ監督。その他、香港映画でも1度映画化されている)

 原作では、15歳になっても自分の身を立てることのできなかったネロ。
 アメリカでも、ヨーロッパでも、自立を自分の手でつかみ取ることのできず、負けてしまう者を映画の主人公としても受けない。映画化されたストーリーでは、いずれもネロは最後に救われ幸福になる結末になっています。

 また、現在アメリカで出版されている『フランダースの犬』の翻案は、原作では一言も言及されていないネロの父親が突然登場してくるのだそうです。原作ではジェハンじいさんの娘は、ネロが2歳のときに病死していると書かれています。そして父親のことは一言も書いてありません。これは、ウィーダがネロを「父無し児」として描いたことを意味しています。おそらくはこの時代に数多くいたであろう、「奉公先で未婚のまま何らかの事情により子を産んだ使用人」がネロの母として想定されていたのでしょう。原作には登場しない実の父親が、物語のラストに突然出てきて、すべてめでたしめでたしになるのがアメリカ版フランダースの犬。
 ネロがラストシーンで救われ、幸福な将来を望みうるストーリーに書き換えられたのは、「自立できなかったネロ」を容認できない西洋社会だからです。では、日本のアニメ版フランダースの犬はどうでしょうか。

2-7 滅びの美学
 第1話から40話までの「日本のフランダースの犬、オリジナルストーリー」は、とても良くできています。ラストの悲劇に向かって、10歳のネロのけなげさ、パトラッシュとの絆に涙しない人は「人」であるぞよ、これでもかっ!っていうくらいに、盛り上がっていく。

 なぜ日本で「フランダースの犬」が同情を集め、日本だけでこれほど多くの人々に愛される物語となったのかを、検証したのがベルギーのドキュメンタリー映画『パトラッシュ・フランダースの犬』です。

 ドキュメンタリー映画『パトラッシュ』では、100人以上の人へのインタビューや、明治から今までの日本での「フランダースの犬」の翻訳本を検証し、「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」と結論づけました。

 古くは、権力争いに負け九州太宰府に流された菅原道真、諸行無常の『平家物語』に描かれた木曾義仲、判官義経などの滅び行くもののふの姿。
 天下統一に王手をかけながら、本能寺の炎の中に49歳をもって滅亡した織田信長、明治の新天地を目前にしながら暗殺された坂本龍馬など、成功しなかった者にこそ自分たちの心情を託して救済のひとつとする伝統が、「アニメ・フランダースの犬」の翻案を受容する心情に重なったのだと、私も思います。

 日本人アニメ視聴者がネロの最期に涙するのは、ひとつにはこの「志を果たさずに非業の死を遂げた者」への深い思いを共有する民族的心情があった、という点。また、そのような者は、残った者によって哀悼され祀られる伝統が続きました。平安初期から「御霊信仰」が千年以上続いてきたことを考える必要があります。
 
<つづく>
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2010年07月24日


ぽかぽか春庭「御霊信仰」
2010/07/24
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(8)御霊信仰

2-8 御霊信仰
 御霊信仰は、山部親王(のちの桓武天皇)に皇位継承させるために反逆の罪を着せられ非業の死に追いやられた井上皇后(いのえこうごう、またはいがみこうごう=聖武天皇の第一皇女、光仁天皇の皇后)と皇太子他戸親王(おさべしんのう=井上皇后と光仁天皇の子)の霊のたたりを恐れて、御霊神社が創設されたことに始まります。皇室内の血で血を洗う権力抗争は飛鳥奈良の時代にもあったのですが、殺された者が殺した側を恨んで祟る、という考え方が広まったのは、陰陽師が国家体制に組み込まれて、「国家に不穏な出来事がおこるのは、○○の祟りによる」という占いをするようになったことが背景としてあります。

 祀られた怨霊は守護霊に生まれ変わり、人々を守るようになる、というのが御霊信仰です。
 平安初期に藤原氏との権力争いに敗れた菅原道真を祀った天満天神などがその例ですが、「非業の死」を遂げた者へ慰撫の祈りはさまざまな形でつづいています。木曽義仲の愛妾巴が建てた庵をもとにするという義仲寺、明治以降も土佐藩士武市半平太を祀った瑞山神社、長州藩士吉田松陰を祀った松蔭神社、殉職や戦死した軍人を祀った乃木神社東郷神社などの設立があり、「天寿まっとうしなかった者」への鎮魂の思いは現代にも続いています。 

 「ネロの死」の受け止められかたが、西洋社会とは異なったものとなった背景には、このような「敗者への鎮魂」「滅びの美学」とも言える意識があったということは、うなずける解釈です。

3-1 救済のかたち
 ここで、もう一度ネロの年齢を確認しておきます。
 日本の「パトラッシュ人気」は、あくまでも1~41話のお話がつづいたのちの、10歳のネロが死ぬラストの悲劇にあります。
 ウィーダの原作によって物語が進行し、15歳のネロが力つきたのだったら、日本人も、ここまでネロとパトラッシュの悲しいラストシーンに共感をよせなかったのではないか、と思われます。

 ネロの悲劇は、「10歳という設定」と「1~40話」のオリジナルストーリーの上に成り立っていることを確認すると、ヨーロッパで「負け犬」の物語とされてきた『フランダースの犬』が、ここまで日本人の琴線を揺るがしたのは、この翻案の年齢設定の絶妙さによるということが言えると思います。

 原作ではラストシーンで、コゼツ旦那はネロが純真無垢な心をもった真っ正直な子だったと気づき、後悔の涙を流します。ネロが落選してしまった絵画コンテストの審査員のひとりは、ほんとうはネロが一等賞をとるべきなのに、有力者の息子に賞がわたってしまったことを残念がり、ネロの天才を認めて芸術教育をしてやろうと決心します。あとちょっとのところで何もかも変わるはずだったのに、ネロはパトラッシュとともに空腹と絶望を抱えて死んでしまいました。

 神様がいて人の行いを見ていて下さるなら、こんな残酷な結末が許されるはずがない、と、西洋社会の人たちが感じるところです。アメリカ映画がどれもハッピーエンドに作りかえられている気持ちもわからないではありません。西洋流のとらえ方なら、悲劇のラストではネロとパトラッシュには救いがありません。

 日本のアニメでは、ネロとパトラッシュはいっしょに天国へと昇っていき、一種の救い、カタルシスが視聴者に与えられています。この部分は、日本のアニメの翻案です。この翻案は、欧米キリスト教圏の人の考え方ともっとも大きく違うところです。キリスト教では、パトラッシュが天使に迎えられ天国へ人と共に行くのは考えられないのです。

<つづく>
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2010年07月25日


ぽかぽか春庭「パトラッシュの昇天」
2010/07/25
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(9)パトラッシュの昇天

 ペットを家族のように愛する人々が増えた結果、犬や猫が天国に入れるかどうかの議論が出てきました。新旧聖書のことばは、解釈のやりようでどうにでも受け取ることができるので、なかには「神は動物が人とともに天国へ行くことを否定していない」と解釈するクリスチャンもいます。文書をどのように解釈するのも信者の信念によります。例えば「エホバの証人」の人たちが、新約聖書の使徒15章19、20、28、29節にある「血を避けるように」との聖書の教義を解釈した結果、「輸血拒否」を宗教的信念にした事件がありました。(この項に関し、クリスチャンからの「エホバの証人」のグループは真のクリスチャンではないと言う類の抗議は受け付けません。信仰とは何を信じようと自由と私は思うので、エホバの人たちが自分たちはキリストを信じていると言えば、そうですか、と思う)

 しかし、動物が霊魂をもって天国へ迎えられるかどうかについて、「神を信じる者が天国へいける」という公式の解釈からすると、「神を信じる」という精神的な行為ができない犬は、天国には入れないというのがキリスト教の一般的かつ公的な解釈です。

 犬が天国へ行けると解釈するなら、ペットの蛇や亀や山椒魚や鯉・金魚、クワガタや甲虫を家族のように愛し共に生きている人にとって、蛇や金魚やクワガタが天国に入れないわけはないということになり、そのうち天国もゾウリムシやらアメーバやら細菌ウィルスに満ちあふれ、天国も地上と変わらぬ生物多様性の様相を示して、生態論的には結構なのかも知れず、キリスト教の仏教化ができたことになります。

 アニメ版『フランダースの犬』のラストシーンは、テレビのアニメ「世界名作劇場」のスポンサー会社であったカルピスの当時の社長がクリスチャンであり、パトラッシュといっしょの昇天シーンを望んだことによって実現した、というエピソードが事実であるなら、これこそ日本のクリスチャンの意識に仏教的アニミズムが存在しているひとつの例になるでありましょう。

3-2 パトラッシュの昇天
 アニメのラストシーン、天使たちに守られながら天へ登っていくネロとパトラッシュの姿は、「負け犬」などではなく、「ちからいっぱい戦い、生き抜いた末に、力つきていくもの」の美しさを持っていました。
 その犬と少年の姿の荘厳さがあるからこそ、「アニメ名場面集」という特集が組まれれば必ず上位に「ルーベンスの絵を見て死んでいくネロとパトラッシュ」が選ばれるのです。パトラッシュをいっしょに連れていかないでは、ネロのラストのほほえみは考えられません。

 しかし、キリスト教国では、人間と犬がいっしょに昇天することはできません。犬と人が同時に天に昇っていく図柄は、不自然と受け止められます。キリスト教では、犬には霊があるとは考えません。犬に「意識=心」はあるとしても、神のみもとへ召される「霊」はないのです。

 日本語では「霊魂」といいますが、キリスト教では霊と魂は別概念です。人間は、体に現された魂と、不滅の霊の息吹が吹き込まれた体とが一つになった存在とみなされ、その意味で、神の霊が宿るのは人間のみ、と考えられているのです。

<つづく>
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2010年07月26日


ぽかぽか春庭「パトラッシュは不滅です」
2010/07/26
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(10)パトラッシュは不滅です

 日本アニメの翻案のうち、もっとも「日本的な絵」は、この最後の「パトラッシュ昇天」であり、犬の霊が人とともに天使にむかえられるというところだ、と私は思います。
 このラストシーンは、「一寸の虫にも五分の魂」の仏教思想が反映されています。一寸の虫に五分の魂ならパトラッシュには50cmの霊魂です!

 ルーベンスの『キリストの降下』の絵を見たあと、ネロは微笑みながら、パトラッシュとともにキリスト教の神のいる天国へと昇っていったとして、キリスト教の考え方によれば、天国の入り口で拒否されてしまいます。「ここは犬は入れないところだ」と、天国の門番に言われてしまうでしょう。
 でも、心配ありません。ネロとパトラッシュはともに常世の国かニライカナイか西方浄土か、どこかに迎え入れられるから。日本版アニメのラストシーンは、万物にアニマの魂を認め、山にも川にも一寸の虫にもタマシイがあるという日本的アニミズム思想、死後はともに常世の国(に類するところ)へ行くという思想が表されているものだ、と解釈できます。

 原作では、ネロはパトラッシュを抱いたまま死に、死後硬直のあとでは犬と人を離すことができなくなっていたために、いっしょの墓に葬ったことが書かれています。
 『 生涯ずっと、彼らは一緒でした。そして、死んでも、別れませんでした。というのは、少年の腕が犬をしっかりと抱きしめていて、手荒に扱わなければ引き離すことができないことが分かった時、小さな村の人々は後悔し、恥じ入って、神様の格別のお慈悲を願い、彼らのために一つのお墓を作ったのです。一緒に安らかに眠ることができるように。いつまでも! 』

 犬と人を同じ墓に葬るのは特別なことでしたが、「神様の格別のお慈悲を願って」村の人々はネロとパトラッシュをいっしょに土に埋めました。いっしょに埋めはしたけれど、村の人もパトラッシュとネロが同じ天国の神の世界に行くとは思っていなかったはずです。
 日本的解釈ではネロと犬は、一緒に昇天できたことで、「悲しいけれど納得のできる結末」になりました。キリスト教社会では、このカタルシス(浄化)が得られないのです。ネロとパトラッシュが一緒に天国に迎えられるという日本的解釈によってこそ、日本でネロの悲劇が浄化され、「日本でのみ受けた物語」として存在出来たといえます。

『フランダースの犬』原作テキスト
1,岩波少年文庫(114) 翻訳:野坂悦子
2,青空文庫 翻訳:菊池寛
   http://www.aozora.gr.jp/cards/001044/files/4880_13769.html
3,プロジェクト杉田玄白参加 翻訳:荒木光二郎
   http://homepage3.nifty.com/yodaka/dogoffra.htm

アニメ「フランダースの犬」
フジテレビ系列「世界名作劇場」枠で1975年1月5日~同年12月28日に放映全52話 
DVDは1999発売

<つづく>
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2010年07月27日


ぽかぽか春庭「おわりに」
2010/07/27
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>日本児童文学における外国文学移入の受容と変容(11)おわりに

4 おわりに
 なぜ、『フランダースの犬』は舞台となったベルギーでも、原作者の国イギリスでも受け入れられずに、日本だけで大人気の物語となったのか、という疑問への答えをさぐった本論の結論。第一に日本版アニメ『フランダースの犬』は、原作とは異なる別の物語に生まれ変わり、『国民的ものがたり』として視聴者に受け入れられてきた、ということです。さらに分析すれば、以下の通りです。1の理由はドキュメンタリー『パトラッシュ』でも言及されていたことですが、2,3,4は、筆者のオリジナル意見です。
 
 1,社会思想的背景:「志を得られずに非業の死を遂げる敗者」に対する民族的心情の伝統があり、ネロの死は同情共感をもって受容されていること。

 2,脚色の成功:主人公の年齢を変更するという脚色と、原作とは異なるストーリーの追加。原作主人公の年齢が5歳引き下げられ、アニメのネロは10歳に設定されている。そのため、「自立すべき年齢だ」という原作の設定にしばられなかったこと。

 3,ラストシーンの映像的変更:同じ墓に葬られたという原作の記述を、パトラッシュとネロがともに昇天するシーンに変更した。犬と人がともに昇天することを違和感なく受容し、悲劇の死に対してカタルシスが用意されていること。

 4,テレビ視聴者層及び読者層の差:西洋社会より日本社会のほうが識字層が厚く、ネロの社会階層にあたる読者層が多かったため、ネロに同情を寄せる人々が圧倒的だったこと。「子供がいる家族」を主な視聴者層として設定されているテレビアニメ版は、最終回に30%の視聴率を獲得し、その後も何度か再放送されてきた。日本の「フランダースの犬」受容層は幅広く、30%の視聴率を単純に人数にしても4千万人が「フランダースの犬」を見て涙したことになる。この人数は、ベルギーの総人口1千万人よりはるかに多い。

 以上、翻案という作業の結果、受け入れる側の社会思潮が関わりつつ受容がなされていることを、アニメ「フランダースの犬」と原作の比較を中心にして概観し、翻案の成功には、それを受け入れる社会に、受け入れるための社会思想が形成されていることが必要であること、受容された物語は新たな生命を得て人々の心に残ることを考察しました。

<おわり>


ことばの往来-食べ物篇1 唐なすかぼちゃ

2010-08-12 17:39:00 | 日記
2011/01/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来(1)唐なすかぼちゃ

 昨年11月からちと節制を続けている春庭、思いっきり食べられない分、頭の中は食べることばかりの春庭。脳細胞を覗けるメガネがあれば、頭の中にはいっぱい食べ物がつまっていることと思います。

 ことばについて思い巡らすのが商売なのですが、こうなると「食べ物にまつわることば」が脳細胞にとりつきます。
 アーサー・ビナードさんは、12月9日の講演で話していました。八百屋の店先で「eggplant卵の植物」の名が日本語では「茄子」であることを知ったと。ビナードさんの話のあと、食べ物の名前について、特に外来の食べ物について、その名前の由来と、それがどんなイメージを与えられるかについて思いを巡らせました。
 
 ビナードさんがいうように、アメリカの子供は、野菜の茄子を見れば卵を思い浮かべるのでしょう。茄子と卵は分かちがたく結びついている。それはそうです。「卵植物」という名前なのですから。

 春庭は「じゃ、イギリスの子供はどうなのか」と、思います。イギリス英語では茄子はaubergine、と言います。そしてこの語は、フランス語と同じ。フランス語でナスはl'aubergine、「l'」は英語の「the」と同じような定冠詞で女性名詞につく。カタカナで書くとロベイルジン。イギリス英語でcourgetteズッキーニも、フランスから渡った。
 イギリスとフランスはドーバー海峡を隔てて、川の両岸みたいなもんだから、言語にも借用関係がたくさんあります。しかし、太平洋を渡ったら、aubergineは「卵の植物」という「見たまんま」の名前に変身してしまった。

 ナスを茄子と漢字で書くのは、中国語の「茄子チエズ(qié zi)という表記をそのまま使っている。中国では、写真を撮るときの笑顔作成用語がチエズです。英語や日本語で「チーズ!」というかわりに、「チエズ」と言ってシャッターを切ります。
 日本にナスが渡来したのは奈良時代より前のこと。万葉仮名では「奈須比(なすび)」と書かれています。

 ナスビは奈良時代以前に渡来しましたが、カボチャはずっと後に日本に渡来しました。最初は「唐から来たナスビ=唐なす」という名でした。唐というのは、中国・東南アジア、インドまでを含む「外国」という意味でした。原産地は中国南方から東南アジアかけての地域なのだろうと思ったら、実際には南米だそうです。ポルトガル船によって日本に入ってきてから、「カンボジャからもたらされた」ということが広まって、カボチャになりました。

 中国語では南瓜(ナングヮ)。きっと中国の南の地方からもたらされた瓜だったのでしょう。西瓜(シーグヮ)は西から。西域の新疆ウイグル地域あたりから西瓜が大型のトラックで運ばれてきて、中国東北地方の田舎でも大きな丸い西瓜がひとつ10元(130円ほど)で市場に山積みになっていましたっけ。今、中国はすごいインフレですから、西瓜も値上がりしただろうなあ。日本語のスイカは、広東語のサイクヮァがなまった発音。
 
 大根は弥生時代には栽培されていた、もっとも古くから食べられていた根菜のひとつ。もとはオオネと呼ばれていましたが、中国から漢字が渡来したとき訓読みで「大根」と表記されるようになり、音読みでダイコンと呼び方が変わりました。今では「ダイコンdaikon」が、英語の辞書にも載っています。

<つづく>
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2011年01月21日


ぽかぽか春庭「eggplantナスとお茶とチーズケーキ」
2011/01/21
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来(2)eggplantナスとお茶とチーズケーキ

 食べ物は直接人の生命維持に関わるものだから、様々なイメージを付けられて比喩となったり、隠語として使われています。
 映画のセリフのなかでeggplantが使われている例として、ウェブ友まっき~さんが紹介してくれた『トゥルー・ロマンス』

 画面では、デニス・ホッパーが椅子に縛られている。息子の行方を追うシシリア出身のイタリアンマフィアに「息子の居場所を吐け」と脅されているのだ。父親は、息子の居場所を絶対に言わないために、殺されることを覚悟で、相手を罵倒する。
Hey. Yeah. And, and your great-great-great-great grandmother fucked a nigger, ho, ho, yeah, and she had a half-nigger kid... now, if that's a fact, tell me, am I lying? 'Cause you, you're part eggplant.
「よぅ、それでもってあんたのヒーヒーひーばあさんはクロン坊とやっちまって、へへ、ばあさんに、くろんぼ合いの子ができたってわけだね、さて、こいつはほんとかね。いってみろよ、おれは嘘言ってるのかい。だって、おまえは黒ナスでできてるんだぜ。

 英語に弱い春庭なので、ほんとうに罵倒語としての解釈でいいのかどうか、英語俗語辞典など調べてみたら、アメリカ語のスラングでは、eggplantは、アフリカ系の混ざった「イタリア系アメリカ人」を指す、ということらしい。ことばの持つイメージの広がりって、ほんとうに幅広い。映画のなかでは、「you're part eggplant 」というのが、相手を罵倒する台詞になっているのです。ナスのスラングでの意味を知らなければ、字幕で「おまえ、ナスの仲間だぜ」と出ていても、それが罵倒語になることはわかりません。
 eggplantが出てくる映画を指摘していただき、勉強になりました。なんによらず、言葉について新しいことを知るのが大好きなので、スラング調べるのも楽しかったです。

 江戸時代の吉原の俗語で「お茶引き」は、客が来ないで仕事にあぶれた遊女を指す。元は、大名お抱えの芸人がお座敷がかからずヒマなときはお茶の葉を臼で挽く仕事をあてがわれたことから、「お茶を引く→仕事がなくてヒマ→客のない遊女」となったのです。

 お茶の葉は中国雲南地方が原産地。お茶は、中国から世界中に広まりました。お茶を表すことばも、中国語が世界中に広がったのです。「お茶」を意味する語は、福建語(フーチェン語)では「テ(te)」、広東語(カントン語)では「チャcha」です。チャ系統の語は、インドではチャイ、日本ではチャ。テ系統の語は、英語のteaティーやドイツ語のTeeになりました。
 お茶に関する春庭の蘊蓄は以下のページにあります。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotobaworld0611a.htm

 ジャガ芋は中国語で「土豆Tu(3)Dou(4)」といいます。土の中にある豆、です。根っこにゴロゴロとついているジャガ芋を見れば、豆のようだという発想はわからなくもない。(サツマ芋は根ですが、ジャガ芋は茎の変形だそうです)
 しかし、ジャガ芋のことをフランス語では「大地のりんご(pomme de terre)」というのを知って、リンゴとジャガ芋じゃ、ずいぶん形も色も味も違うのに、フランス人にはリンゴもジャガ芋もおんなじように思えるのかと思ったことがありました。ものの名付けは多様だなあと思います。

 日本語の名付けの発想は、渡来地または原産地主義が多い。
 ポテト、ジャガ芋。原産地はアンデス山中だという。和語ではもともと「芋」とは里芋を指しました。戦国時代の終わり頃、オランダ商人がジャガタラ(現在のインドネシアの首都ジャカルタ)から新しい芋を持ってきました。ジャガタラ芋、ジャガ芋は、馬につける鈴の形をしているから馬鈴薯とも呼ばれました。現代では、ジャガイモ、バレイショ、両方とも通用しています。料理名になると、ポテトサラダ、フライドポテトなど、ポテトというカタカナ外来語も通用していますから、3つの名前をとっかえひっかえ使い分けていることになります。

 同じく、原産地は南アメリカ大陸というサツマイモ。薩摩(鹿児島)では、中国(唐)経由で入ってきた芋を唐芋(カライモ)と呼び、薩摩から全国に広まった芋はサツマ芋と呼ばれました。他所から新しく来たものは、来た土地の名をつける。薩摩から伝わったという揚げ物は九州や関西では天ぷらと呼び、関東ではサツマ揚げ。

 イベリア半島カステーリャ地方のお菓子がポルトガルの宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました。ポルトガル語の「パン」は、日本語でも「パン」

 輸入された食べ物ばかりではありません。輸出もあります。
 日本のおでんは、韓国に定着し、呼び名もそのまま「오뎅 oden」。うどんも同じ。
 英語のウェブスター辞典に載っている「英語になっている外来語」のうち、日本語由来の食べ物語は、daikon 大根、 kaki 柿、 kombu昆布、ramen (カップ)ラーメン、sake 酒、 sashimi 刺身、shabu-shabu しゃぶしゃぶ、 shiitake 椎茸、shoyu 、醤油sukiyaki、 スキヤキ sushi寿、司 teriyaki 照焼、tofu 豆腐、wasabi わさび、yakitori 焼鳥、などなど。

 外国へ出かけていった和食の食べ物たちは、どんなイメージを新しく身にまとったのでしょうか。アメリカのスシバーなどで人気の和食は、「健康によい食べ物」のイメージだそうです。もともとは中国の食べ物だった拉麺はすっかり日本化し、中国に逆輸出された日本の拉麺は「日式拉麺」として人気を得ています。またカップラーメンの輸出にともなって「ramen」という日本語からの外来語として英語にも取り入れられているのは面白い。

 今朝、久しぶりに読み返した村上春樹の初期の短編小説。タイトルは「チーズ・ケーキのような僕の貧乏」平凡社から『カンガルー日和』として1983年に刊行された中の一篇で、私は1988年発行の講談社文庫で読みました。

 さて、「チーズケーキのような貧乏」のイメージはどんな感じ?
 日本にチーズケーキが「しゃれたスィーツ」として定着したのは、90年代になってからだったように記憶しています。(私がチーズケーキにはまったのが、遅かったのかもしれないけれど)そうすると、80年代初頭には、チーズケーキはまだまだ一般的でない、こじゃれた雰囲気を持っていたはず。そうか、結婚したばかりの村上春樹の貧乏って、チーズケーキのイメージなのか。私が1982年に結婚したころの貧乏は、戦時中の「サツマ芋のつるとフスマで作ったすいとん」みたいでしたから、チーズケーキのような貧乏(三角形の土地に住んでいたことの比喩なんですけれど)って、うらやましいくらいです。



2011/02/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来2(1)食べ物の外来語、追加カステラ

2011/01/21 の春庭コラム
「ポルトガルのカステーリャ地方のお菓子が宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました」。

という記述に対して、以下のようなコメントを頂きました。
「カスティーリャ=castilla=スペインです。投稿者:wxm68971 2011-01-26 13:42」

 このコメントに対する春庭返信を再録します。コメントに気づくのがおそく、返信が遅くなってしまいました。
==========
カステラ  haruniwa   2011-02-06 22:48:37
春庭へのコメントありがとうございました。
以下のように訂正いたしました。

 イベリア半島カステーリャ地方のお菓子がポルトガルの宣教師によって日本に伝えられた16世紀末。このお菓子はカステラという名で長崎地方に定着しました。

 現在受け持っているクラスのひとつに、4名のスペイン人留学生とひとりのポルトガル人が在籍しています。同じスペイン人といっても、日本の関東文化と関西文化と沖縄文化が異なる、という程度にひとりひとりの出身地の違いによって言葉や文化が異なる、ということを「我が町の文化」「私の地方の衣装」という発表をさせたときに語っていました。

 カタルーニャ、カステーリャやバスクなど、スペインは地方によって異なった文化があり、ことばも異なる。一方ポルトガル語は方言によってはカステーリャ語に近く、スペイン人とポルトガル人は通訳無しでお互いに話が通じる。
 日本にやってきた宣教師は、ザビエルのようにバスク人もいたのですが、ひとくくりにポルトガル宣教師とされています。派遣元の修道会の派閥がポルトガルを本部としていたところが多かったので。

 カステラ(カスティーリャ)のお菓子も、ポルトガルから派遣された宣教師たちという意味では「ポルトガルのお菓子」という表現で間違いではないのですが、ひでさんがご指摘のように、現在の地図ではカスティーリャはスペインに間違いないので、上記のように訂正いたしました。

ご指摘をありがとうございました。
===============
 食べ物の日本語。3日に新宿サザンテラスの宮崎アンテナショップkonneで食べた「おび天」は、漢字では「飫肥天」と表記します。ひらがな表記は商品名としてブランド登録されているので、一般名詞としては「飫肥天」。
 イワシ、アジ、シイラ、サバ、トビウオ、サワラなど日向灘近海でとれる大衆魚を骨も頭も丸ごとすり身にしたものに豆腐を混ぜ、味付けに味噌や醤油、黒砂糖を加えて揚げたもの。豆腐と混ぜることで、薩摩揚げより柔らかくふわりとした食感になり、黒砂糖によって黒みがかった色と甘味のある味わいとなる。

 konneで春庭が食べたのは、揚げたての飫肥天に大根おろしと生姜すり下ろしがついていました。サツマ揚げが薩摩藩の特産物であったように、「飫肥天」は、江戸時代に飫肥藩の庶民の食べ物として作りだされた食品です。特産物が他の地方へ広がっていくとき、出身地の名前がつけられるのが、日本語食品名の基本。

<つづく>
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2011年02月09日


ぽかぽか春庭「ナポリ風ボローニャ風」
2011/02/09
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来2(2)ナポリ風ボローニャ風

 地名が食品名になる例。
 現在の東京湾では海苔の養殖はとうに行われなくなっていますが、浅草海苔という呼び方は残りました。高野豆腐は高野山の精進料理が発祥で、奈良漬けは奈良の特産。

 カタカナ地名が日本語食品名になる経緯もさまざまです。
 食べ物の名前、インドリンゴの元の品種は、ジョン・イングがアメリカのインディアナ州から日本へ運んだ種が原種です。それを改良して甘みが強く酸味を抑えた「インドりんご」を日本で品種改良したもの。寒い地方の果物であるリンゴがインドと呼ばれるのはなぜかと不思議に思ったころもありましたが、語源を知れば納得。

 ウイスキーやワインには産地の名がつけられることが多く、一般名詞にもなっていく。たとえば、フランスのコニャック地方原産のお酒、コニャック。シャンパンは、シャンパーニュ(Champagne)地方の発泡ワイン、スコットランドのウイスキー、スコッチなど。最近はブランドを守るために、名称の元となった産地以外で作ったものがその名称を名乗ることが許されなくなってきているようです。

 ソースも産地ごとの特色があるので、名前に残される。ただし、イギリスのウースター(Worcestershire)で作られるようになったトマトベースのソースと、日本のウースターソースはかなり違うもののようです。

 パスタソース。パスタのナポリタン。私が子供のころ、スパゲッティといえば、ケチャップで味付けされた洋風ウドン。フォークでくるくる巻いて食べるのがカッコいいように思っていて、バスで県都へ行ってレストランでナポリタンを食べるのは子供にとって晴れがましい食事でした。今おもえば、いつもの代わり映えしない夕食と思って食べていた母の手打ちのうどんのほうがずっとおいしかったはずなのですが。子供は非日常が好きなのです。

 ナポリタンは、ナポリの人々が食べているのかと思ったら、「ナポリ風の」というイタリア語は「ナポレターナ(Napoletana)」であるよし。ナポリタンは「日本洋食」のひとつで、横浜山下町にあるホテルニューグランド第2代総料理長・入江茂忠が考案者だそうです。

 ジェノベーゼ(Genovese)はイタリア語で「ジェノバ風」。こちらはバジルソースのうち、ジェノバでよく使われるソースをこう呼ぶ。ボロネーゼ(ボローニャ風)は、ミートソースのパスタ。イタリアの地名が日本ではパスタソースの名としてなじみになりました。

 私が大好きな「食べ放題」の意味で使われる「バイキング」。この言葉を「Eat as you can食べ放題」の意味で広めたのは、帝国ホテルの発案によってでした。
 バイキングが活躍したスカンジナビア半島。スエーデン語では、スモーガスボードSmorgasbordと呼びます。スモーガスはオープンサンドイッチ。ボードはテーブルの意味で、テーブルの上に並べられた料理を好きな分とって食べる形式をスモーガスボードと言うのです。

 スモーガスボードというカタカナ語の響きより、「タベホーダイ」という和語漢語の混種語より、やはり「バイキング」といったほうが、好きなだけ大食らいする雰囲気が伝わります。セルフサービスの食べ方に「バイキング」というネーミングを思いついた帝国ホテルのセンスです。

 食べ物の語源に関して、本もたくさん出ています。東京堂から清水桂一『たべもの語源辞典』内林政夫『西洋たべもの語源辞典』が出ており、調べる気があったら、そのほかでも探索可能。『完本食からみた日本史』(芽ばえ社)、『たべもの日本史 総覧』(新人物往来社)『舶来事物起源事典』(名著普及会)。『国史大辞典』(吉川弘文館)全15巻も、索引から食べ物について調べることができる。

 私が今読んでいるのは、永山久夫『たべもの古代史』。電車の中で読むのにちょうどいい文庫本です。先土器時代のマンモス狩りから平安時代までを扱っています。
 根が食いしん坊ですから、ダイエット中の現在、せめて食べ物話で満腹になろうという魂胆です。sumitomoさんのカフェ日記で、私が「腹の虫おさえ」と言っている言葉を、京都や大阪では「虫養い」というのだと知りました。そこで春庭一句「虫養いしてないつもりがなぜ太る」

 次回からは「インターナショナル食べ放題」シリーズ。アフリカ料理中華料理の食べ歩き。ダイエットは続けて行きますって。5月にはまた発表会で踊るつもり。

<おわり>
 

<おわり>


翻訳練習 摩天楼の詩

2010-08-05 08:49:00 | 日記
2011/03/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(1)超高層ビル

 2月13日に訪れた横浜ランドマークタワーは、日本で一番高い高層ビルです。 最頂部296.33 m、最上階 273.00 m 。しかし、世界の高層ビルのなかでは第51位。
 世界一は2010年1月に開業したアラブ首長国連邦ドバイにあるブルジュ・ハリファです。最頂部 828 m、最上階 621.3 m 。160階建て。800メートルの超高層、地震の多い日本では絶対に無理な高さです。娘は、台湾に友達と旅行した際に、台北101に登ったことがあります。高さ509.2mで、地上101階。世界2位のビルになってしまいましたが、アジアでは一番高い。

 高いところに登るのが趣味のひとつである春庭。子供の頃にこっそり母の田舎にあった火の見櫓に登ったころから、高いところからの眺めが大好きになりました。よく行くのは都庁の展望室、文京区役所シビックセンターの展望室。無料なので。
 ランドマークは、大人ひとり入場料は千円でした。高い!

 超高層ビルを英語ではスカイスクレイパーskyscraperといいます。日本語で超高層ビルを摩天楼と呼ぶのは、skyscraperを直訳した語なのだと気づきました。辞書を調べてみれば、広辞苑などにも「摩天楼はskyscraperの訳語」と出ていました。こうなると、誰がこの訳語を思いついたのか気になるところですが、明治初年の翻訳語は訳者がわかっている例が多いのに、摩天楼については、訳者がはっきりわかりません。おそらくは中国語経由の漢語ではなく、日本で翻訳された和製漢語であろうと思うのですが、初出はどの本または新聞だったのか、知っている人がいたら、教えて欲しいです。

 春庭の語感で言うと、摩天楼とは、まるで魔法のように空高く聳える建物のイメージ。「摩」には「する・こする・なでる・みがく」という意味のほかに「せまる・とどく」という意味があります。「天に届く楼閣」というのが「摩天楼」。
 摩天楼は、Skyscraperをそのまま漢字熟語に訳した翻訳語。英語のskyscraperは、skyをscrapeするもの、という意味。scrapeは、「する・こする・みがく・えぐる」という意味で、「摩」の意味に近い。英語の、scraperとなると「くつみがき・道ならし道具・削り器・消すもの」という具体的な「ひっかくもの」「かすめ取るもの」を意味します。Skyscraperは、私には「空をひっかくもの・空を削るもの」という語感になります。

 アーサー・ビナードは、英語と日本語との間を自在に行き来する言葉の越境者です。
 2010年12月9日アーサー・ビナード講演会を聞きに行ったとき、ビナードさんが朗読してくれた英語の詩。「摩天楼の建設」
 この詩、どこかにUPされていないか、いろいろ検索してみたのですが、日本語ページには見当たりませんでした。私の講演メモにはこの詩の作者は「ジョージ・オッペ」と記されていました。同じ講演を聴いて感想をUPしているチョムプーさんのブログ「ココナツカフェ」には「ジョージ・オッペル」と書かれていました。

 オッペルは「オッペルと象」でおなじみの名です。(当初、オッペルという誤植が通用して、私が教科書で読んだのもオッペルでしたが、現在はオツベルまたはオッベルに訂正されています)
 私がメモしたオッペより「オッペル」のほうが正しいのだろうと思って検索を掛けたのですが、どうしても出てこない。おかしいな、私は検索名人のはずなのに。

 そこで英語サイトに期待をかけて、「skyscraper George Oppel 」で検索したら、Googleはとても賢いので、「もしかしてskyscraper George Oppen?」と、訂正してくれました。
 「The Building of a Skyscraper」の詩がみつかりました。私ってやっぱり検索名人ね。ちょっと自己満足。あは、私が名人なんじゃなくて、Googleが私の記憶違いを訂正してくれたからだよね。
http://selectedpoems.wordpress.com/2010/09/18/george-oppen-the-building-of-a-skyscraper/

<つづく>
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2011年03月06日


ぽかぽか春庭「摩天楼の建設」
2011/03/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(2)摩天楼の建設

 アーサー・ビナードは、2010年12月の講演会の締めくくりとして英語の詩『摩天楼の建設』を朗読しました。
 この詩を取り上げるビナードに、「詩人の覚悟」を見た思いがしました。人々が忘れ去ろうとしていること、高層ビルの上から下を見ないようにしていること、それをビナードはあえて見ようとしています。

 12月の講演の中では触れられていませんでしたが、ビナードはベンシャーンの絵に日本語の詩をつけた絵本を発行しています。『詩画集ここが家だ』
 日本の人が下を見ないようにして忘れている「第五福竜丸」についての絵本です。広島長崎の原爆被害は毎年記念式典もありますが、多くの人の脳裏から忘れ去られている第五福竜丸の核実験被害について、思い出そうとするビナード、摩天楼の上にいても、その下をきっちりと見届けようとする詩人です。

 そう、詩人とはめまいがするのを覚悟で、摩天楼の作業桁の上で、目をそらさずビルの下をのぞき、ビルが建てられるより300年前の裸の大地を見据えることのできる人のこと。
 ほんわかとした日常をほんわかと癒してくれる言葉も必要ではあるでしょう。人間だもの。が、私はこのGeorge Oppenが指し示すような、きりきりとした鋭さを含む詩に勇気づけられる。

 横浜や東京ウォーターフロントの、新宿新都心の、ニューヨークマンハッタンの、シカゴスカイスクレイパーの、立ち並ぶ摩天楼の、300年前の大地を俯瞰し、空をひっかく傷を我が身に負う覚悟の詩人たちの言葉を、私は読み続けたい。

 私も、大地から切り離された高層ビルの屋上のような環境で、下を見ないようにして暮らしている一人です。下を見て世界の本質を知ろうとすれば、めまいがして落っこちてしまうでしょう。詩人のように物事の本質を見据えようという覚悟もなく、やわな日常を生きています。めまいを引き受けて、高層ビルの下にあるものごとの真実をのぞき込む詩人に感心しながら、今日もただふわふわとした日常を、生きています。

 「The Building of a Skyscraper」を訳してみました。春庭の試訳ですから、きちんとした訳を知りたい人はアーサー・ビナードの著作を探してみて下さい。ビナードwith木坂涼さんは、もっとちゃんとした日本語詩にしていて、どこかの本に載せていると思うので。

The Building of a Skyscraper 高層ビルの建設 by George Oppen

The steel worker on the girder 作業桁の上の、鉄骨作業者は
Learned not to look down, and does his work 下を見下ろさないことを学び、仕事をする
And there are words we have learned ここに我々が学んだ教訓がある
Not to look at, 下を見下ろすことなく、ものごとの本質を見ないようにしていたことを
Not to look for substance 見ようとすると、
Below them. But we are on the verge めまいがしそうだ
Of vertigo.

There are words that mean nothing 何も意味しないことばもあり
But there is something to mean. 何かを意味することばもある
Not a declaration which is truth 真実の告白もあり
But a thing そうでないのもある
Which is. It is the business of the poet しかし、これは詩人の仕事だ
“To suffer the things of the world 世界のことがらを引き受けて苦しみ
And to speak them and himself out.”ことばを話し、自分自身を外へ出していく

O, the tree, growing from the sidewalk— 歩道に育っている木は
It has a little life, sprouting 芽吹いている小さな命を持っている
Little green buds 小さな緑の蕾が
Into the culture of the streets. 通りの文化の中にある
We look back この土地の300年間を振り返ると、
Three hundred years and see bare land. 裸の大地が見える
And suffer vertigo. めまいがするのを引き受けよう

<つづく>
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2011年03月08日


ぽかぽか春庭「盲目の摩天楼」
2011/03/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(3)1939年9月1日、盲目の摩天楼

 1939年9月1日に起きたナチスドイツによるポーランド侵攻のニュースをきいて、アメリカの詩人オーデンが書いた詩の中に、摩天楼は「blind skyscrapers」として登場します。2001年9.11のニューヨーク貿易センタービルへの攻撃のあと、この事件を予言したかのごとき詩として話題になりました。

 詩人は倉庫が建ち並ぶ52番街の安酒場に居座ってニューヨークの街の人々を思い、リンツ近郊で生まれたヒトラーが巨大な狂った神のような独裁者となったことを恐れ、日常生活にしがみついている人々を憂えています。しかし、詩人は一筋の焔がつかの間でも正義を見せ、人々の交わすメッセージを照らし出すことを信じています。

September 1, 1939 by W. H. Auden (訳:松岡直美+春庭)

I sit in one of the dives
On Fifty-second Street 52番通りの安酒場で
Uncertain and afraid 私は不安に怯えながら座っている
As the clever hopes expire 
Of a low dishonest decade: 低調で不正直な十年の小利口な希望も尽きたから
Waves of anger and fear 怒りと恐れの波は
Circulate over the bright  
And darkened lands of the earth, 地上の闇と光の上を旋回し
Obsessing our private lives; 我らの個々の生にとりつく
The unmentionable odour of death 言葉に出来ない死の匂いが
Offends the September night. この9月の夜を犯す

Accurate scholarship can  正確な学識をもってすれば 
Unearth the whole offence 全てを明らかにするだろう
From Luther until now ルターから今日に至るまで
That has driven a culture mad, 文明を狂わせた攻撃のすべてを
Find what occurred at Linz, リンツで起こったことを
What huge imago made どれほど巨大な心像が
A psychopathic god: 精神を狂わせた神を作り上げたかを
I and the public know 私も市民も知っている
What all schoolchildren learn, 全ての児童が学ぶことは
Those to whom evil is done 悪がなされれば
Do evil in return.  その悪業は報復されるということだ。

Exiled Thucydides knew 追放されたツキディディスは知っていたのだ
All that a speech can say 民主主義について
About Democracy, 言論の総体がどんなことを言えるのかを
And what dictators do, そして独裁者が何を為すかを
The elderly rubbish they talk 奴らが無関心の墓場に向かって語る
To an apathetic grave; 古くさいでたらめを
Analysed all in his book, 彼の本にすべては解き明かされている
The enlightenment driven away, 啓蒙の考えは駆逐されると
The habit-forming pain, 慢性的な痛みは
Mismanagement and grief: 誤りも哀しみも
We must suffer them all again. 我らは再びこれらすべてを苦しむことになる。

Into this neutral air このねずみ色の空気の中で
Where blind skyscrapers use 盲目の摩天楼が
Their full height to proclaim その高さいっぱいに
The strength of Collective Man, 集合体の人間の強さを主張する
Each language pours its vain 個々の言葉は無益な
Competitive excuse: 弁解を競い合う
But who can live for long しかしいったい誰が長く
In an euphoric dream; 愉悦の夢に生きられるものか
Out of the mirror they stare, 彼らが凝視する鏡から
Imperialism's face 帝国主義の顔と
And the international wrong. 国際的な悪業が浮かび上がる。

Faces along the bar バーに並んだ顔は
Cling to their average day: 日常にしがみつく
The lights must never go out, 灯りを消してはならない
The music must always play, 音楽を鳴らし続けなければならない
All the conventions conspire  あらゆる手段によって
To make this fort assume この砦が
The furniture of home; 家庭の趣をかもすように謀られる
Lest we should see where we are, 我らがどこにいるかを見極めないのであれば、
Lost in a haunted wood, 我らは呪われた森に迷う、
Children afraid of the night  幸せであったことも正しくあったこともなく
Who have never been happy or good. 夜を恐れる子供たちのように。

The windiest militant trash 大物たちがもっとも声高に叫ぶ
Important Persons shout 好戦的なたわごとも
Is not so crude as our wish: 我らの願望ほどに荒々しいものではない
What mad Nijinsky wrote 狂ったニジンスキーが
About Diaghilev ディアギレフについて書いたことは
Is true of the normal heart; 尋常な心の真実だ
For the error bred in the bone 男と女、それぞれの
Of each woman and each man 骨身に巣食う誤りは
Craves what it cannot have, 得ることのできないものを求めてやまない
Not universal love 普遍の愛ではなく
But to be loved alone. 自分一人だけが愛されることを。

From the conservative dark 用心深い暗闇から 
Into the ethical life 倫理的な生の中へ
The dense commuters come, 通勤者の群は
Repeating their morning vow; 朝の誓いを繰り返す
"I will be true to the wife, 「私は妻に誠実であろう
I'll concentrate more on my work," 仕事に集中しよう。」
And helpless governors wake そしてどうしようもないオヤジども起きだして
To resume their compulsory game: 義務となったゲームを再び始めるだけだ
Who can release them now, 今、いかにして彼らを解放できようか
Who can reach the deaf, いかにして聾者に耳を傾けさせ
Who can speak for the dumb? いかにして唖者のために語ることができようか

All I have is a voice 私にあるのは声のみ
To undo the folded lie, 畳み込まれた嘘を解きほどく声
The romantic lie in the brain 通りにいる好色な男の頭にある
Of the sensual man-in-the-street 虚構の嘘や
And the lie of Authority 権威の嘘を
Whose buildings grope the sky: その楼閣は空を手探りする
There is no such thing as the State 国などというものはない
And no one exists alone; 誰もひとりでは生存できない
Hunger allows no choice 飢餓は誰にでもやってくる
To the citizen or the police; 市民にも警官にも
We must love one another or die. 我らは互いに愛し合わねばならぬ、そうしなければ死ぬばかり

Defenceless under the night 夜、無防備に
Our world in stupor lies; 我らの世界は茫然と横たわる
Yet, dotted everywhere, しかし、どこにでも認めることができる
Ironic points of light 皮肉な光は
Flash out wherever the Just 正しき者たちが取り交わすメッセージを
Exchange their messages: つかの間照らし出す
May I, composed like them 私も、それらと同じく
Of Eros and of dust, エロスと灰で出来ているのだが、
Beleaguered by the same 同じ否定と絶望に
Negation and despair, 取り巻かれているのだが、
Show an affirming flame. 肯定の炎を見せてやれるかもしれない

 このオーデンの詩は、ナチスドイツのポーランド侵攻のニュースに触発されて執筆されました。この1939年9月1日ポーランド侵攻後、ナチスがヨーロッパの脅威となっていることを憂えて、自国民に語りかけたのが、イギリスのジョージ5世の演説です。この演説に至るまでのジョージ5世の苦闘を描いた映画『英国王のスピーチ』がアカデミー賞の作品賞はじめ、主演男優賞コリン・ファー)、監督賞トム・フーパー、脚本賞デヴィッド・サイドラーを受けました。映画も見たいと思っていますが、その前に、本物のジョージ5世の演説を聞いてみました。(ゼミの先生に教えていただいたURLです)
http://www.awesomestories.com/assets/george-vi-sep-3-1939

 戦争へ向かうという局面にあっても悲壮な感じではなく、訥々とした話し方です。流暢でスマートな紳士のスピーチではなく、木訥なしかし誠実な語りかけで、せつせつと国民に訴える、スピーチです。
 オーデンの詩も、ジョージ5世のスピーチも、「人の心に届くことば」の本質を考えさせてくれます。
 今、世界で起きていること。人々が交わすメッセージは、さえずりとなって世界中を駆け巡り、世界を変える力になっています。この一筋の肯定の焔は、どのような力をもってしても、決して消してしまえないと思います。

<おわり>

ニッポニアニッポン語教師日誌>世界の文化を楽しむ

2010-07-04 10:52:00 | 日記
2012/01/18
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(6)世界の文化を楽しむ

 「遊びをせんとや生まれけむ」の春庭ながら、仕事はまじめにこなしております。といっても、仕事でも楽しむことは忘れておりません。
 1月6日に、留学生初級日本語クラス、新年最初の授業で、春庭クラス恒例の「Show & Tell」をしました。それぞれの国の文化について、ものを示しながら、日本語で説明をする、という授業です。

 トルコの学生は、世界遺産「ヒエラポリス-パムッカレ」の写真を見せていっしょうけんめい説明しました。ヒエラポリスは、古代の都市名。2世紀頃のローマ帝国の遺跡があります。パムッカレとはトルコ語で「綿」という意味だそうです。綿のような白い岩が不思議な景観を作り上げています。石灰華段丘からなる丘陵地。
http://labaq.com/archives/51296331.html

 しかし、「その白いのは、ほんとうの綿ですか」という他の学生からの質問に、トルコのネブさんは、「いいえ、綿じゃありません」「saltですか」「いいえ、塩ではありません」と言ったものの、日本語の「石灰岩」という単語を知らず、「Caveにも同じのがあります」と言ってあとが続かなかった。彼の言うCaveとは、鍾乳洞のことを言っているのだという見当はついたのだけれど、私は、鍾乳洞Stalactite caveという単語も、「炭酸カルシウム」「石灰」というのを英語でなんていうのかも忘れてしまい、説明できませんでした。

 タイの学生は、ドリアンについて説明し、フライドドリアンチップスをクラスの皆に配って試食。インドネシアのダーさんは、アンクルンを借りてきて、どのような楽器か、音を出しながら説明しました。私も久しぶりにアンクルンのひとつを鳴らしてみました。
 アンクルンの演奏で「上を向いて歩こう」
http://www.youtube.com/watch?v=KCm23TZhiFQ

 インドネシア男子学生は、バティック染めのシャツを見せながら伝統のろうけつ染めを紹介しました。きちんと発表原稿を作ってきたワンさんは、メモを見ながら「バティック(ジャワ更紗)というのは、インドネシア語で、"点"を意味する、tik,titikと、"沢山"を意味するbayaから合成されたてbatikということばになりました」と教えてくれました。ろうけつ染めの蝋を垂らす点。それがたくさんつらなって、模様を描き出す。へぇ、バティックはいろいろ見てきたけれど、語源は知らなかった。早速メモ、メモ。
 手書き手染め、型プリント機械染めなど、いろいろな「バティック」があります。ジャワ島、カリマンタン島など、島ごとに異なる独自の模様があることも説明してくれました。

 中国のリーさんは、中国大晦日の飾り文字「福」の字をなぜ逆さまにして飾るのか説明。
「福がやってくる」という意味の中国語「福到来」と「福が倒れた」という意味の「福倒了」は、似た発音になるため、福を倒して逆さまにしておけば、福がやってくる、と中国人は考える、という発表でした。
 このことは、私も中国に行ったときに聞いていたので、他の国の留学生に補足説明。ようは、発音が同じということによる掛詞、シャレのわけで、日本にも同じような言葉遊びや修辞法があることを教えました。

 最後に私からのShow & Tell。祝い袋とお年玉袋を見せて、日本人がお金をプレゼントするときの習慣について説明。次に、日本語も「福到来」と同じように、シャレが好きです、と話し、御縁と五円は同じ発音だと、説明しました。そして、お年玉袋にリボンを結んだ五円玉を入れて、「これで、私とみなさんのゴエンがつながりました」と、全員にプレゼント。日本語でじょうずに話せたことのご褒美をあげてShow & Tellの授業をおひらきにしました。

 今年もたくさんの留学生といろいろなゴエンが結ばれ、いろいろな言葉を得ることができるだろうと楽しみです。
 あなたとのゴエンも続きますように。あ、私にプレゼントしてくださるなら、五円玉でなく、五万ドルほど用立てていただけると、ありがたい。アハッ、インドネシアの五万ルピアなら、貸してくださると。でも、五万ルピアだと500円玉一個分。これではバティックのシャツも買えませぬ。

 とにもかくにも、福が到来しますように。2012年は、1月23日が旧暦の元日です。

<つづく>