新沼健 日々独言

映画・ドラマの感想、美味しかった料理、街歩き、世相に関する私の考えなどを書いています

秋ドラマ雑感 フジTV 「エルピス ー 希望、あるいは災い ー」

2022年12月29日 11時15分52秒 | レビュー 映画・ドラマ
▲秋ドラマ雑感 フジTV 「エルピス ー 希望、あるいは災い ー」


番組スタート後の4週めくらいまでは、今期一番期待していたドラマでした。

冤罪による死刑囚の再審請求は通るか!?

ちょうど冤罪弁護士・今村核氏に関する著作や、彼本人の著作を読んでいたというタイミングもあり、毎週楽しみにしておりました。

しかしながら、話が展開するにしたがい、実力政治家の介入とか、松本清張的なテイストが加わるにつれ、ストーリー展開に緻密さが欠け始め、最終的にはなんだかなあ、随分大雑把で中途半端な結末だなあ、というのが正直な感想です。

しょぼくれたオジサンの冤罪話に終止するのはテレビドラマ的に地味すぎるのかもしれませんが、個人的にはきっちりと検察を追い込む冤罪弁護士・六角精児を見てみたかったです。

長澤まさみと眞栄田郷敦はとても良かったと思いますが、鈴木亮平の役は必要あったか疑問でした。

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秋ドラマ雑感 BS-TBS 「帰らないおじさん」

2022年12月28日 10時35分34秒 | レビュー 映画・ドラマ
▲秋ドラマ雑感 BS-TBS 「帰らないおじさん」


知人より、私の年代にぴったりなドラマではないか、ということで教えていただいた、肩のこらない、面白い番組でした。

何より主演の3人がベテランで安定感があり、実に安心してみていられました。
私の年代的に面白かろう、ということでおすすめいただきましたが、年代に関係なく楽しめた作品になっていました。

家人と一緒に視聴していましたが、私とともに色々ツッコミを入れながら視聴していて、家人にも大好評でした。

「野球盤」の回、最初に「野球盤」がアップになった時、あ、これは最後期のもので「消える魔球版」ということがすぐ分かり、家人に、「消える魔球が投げられるほぼ最終バージョンだから、きっと『消える魔球』が出るよ」と予言しておいたところ、そのとおりの展開になり面目を施しました。

つまみ編では、「孤独のグルメ」を連想させる場面も散りばめられ、なかなかに楽しめました。

少々気になった点は、実際のそこそこ若くて綺麗な女性は、奇行のおじさんには興味を持たないだろうなあ、という点で、ダンスの回が初回で知り合いになっていれば、その後の展開もまあなんとか納得が行けたような気がします。

あと気になった点は「色」、意図的にアンバーというか、夕焼け的というか、人工的に着色されていたと思うのですが、正直、もっときれいに撮れないのかなあ、と感じました。

とはいえ「バイプレーヤーズ」第1シーズンを彷彿させるなかなかできの良いドラマでした。

放映は既に終了しているので、アマゾンプライム、PARAVI等配信で視聴することが出来ます。

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みちのくひとり旅 6(最終回) 貞観地震津波の伝承「末の松山」と「沖の石」

2022年12月27日 11時50分03秒 | 街歩き
▲小高い丘にある「末の松山」


「おさとうやま」の佐藤さんとの面談後、野蒜14:16発、仙石線・あおば通行で多賀城まで移動しました。

多賀城には貞観地震津波に関する伝承「末の松山」があるとのことで、仙台への帰りに寄り道することにしました。

貞観地震が発生し、その後に大津波が多賀城を襲いました。





▲「末の松山」


そして津波が、多賀城八幡の丘陵にある「末の松山」を超えそうで超えなかった、ということから平安時代に、「超すに超えない大きな存在」として「末の松山」が歌枕として数々の短歌に読まれたのだそうです。

「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」(小倉百人一首)

▲東日本大震災 浸水の記録


東日本大震災の時も多賀城を津波が襲いましたが、やはり「末の松山」を超すことはありませんでした。

▲沖の石


松尾芭蕉も奥の細道で、「末の松山」と50メートルほど離れたところにある「沖の石」を見物しています。

「末の松山から南へ伸びる道を下ると奇石が連なる池が見えてきます。住宅地の中に取り残されたこの池が、歌枕の興井(沖の石)。
『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』にある二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の歌は有名で、作者は後に「沖の石の讃岐」と呼ばれたそうです」(多賀城市観光協会HPより引用)

「末の松山」、「沖の石」は多賀城駅から徒歩10分ほどです。
散歩にはちょうどよい距離でした。

▲ランチ牛タンカレー ¥1150


多賀城駅改札前に牛タン専門店「たんや善治郎」があり、遅めの昼食を取りました。思わず目を引かれたのがランチの「牛タンカレー」。
次の仙台行列車まで結構な間があったため、ゆっくりと牛タンカレーを楽しむことが出来ました。当店はなかなかにおすすめです。






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みちのくひとり旅 5 「おさとうやま」佐藤さんと対面

2022年12月26日 11時45分40秒 | 街歩き
▲「おさとうやま」から見た旧野蒜駅と佐藤さん


旧野蒜駅でのトイレ休憩後、「おさとうやま」に向かいました。





▲「おさとうやま」の看板


「おさとうやま」登頂口に手書きの看板が立っています。
そのとなりには東松島市が設置した緊急避難場所の看板と、「おさとうやま」の由来を説明した看板があります。

▲手作り感イッパイの登山道


手作り感イッパイの登山道を登ること2〜3分、避難小屋が見えてきます。

▲避難小屋








▲避難小屋と山頂の様子


私が行くという連絡を会社から受け、恐れ多いことに佐藤さんは私を待っていてくださったのだそうです。

およそ30分ほど「おさとうやま」のお話を聞かせていただきました。

「おさとうやま」については地元新聞社が書かれた記事をご参照ください。

「おさとうやま」が段々と避難場所として形になった時、佐藤さんは「緊急避難場所」の看板を出して周辺住民に、もし津波が来たときにはこちらへ非難するよう告知したかったそうですが、行政がそれを許さず、「おさとうやま」直ぐ側の住人が車で避難しようとして津波に巻き込まれた姿、直下の家から上がる悲鳴など、「おさとうやま」から見た光景を今でも忘れることが出来ないそうです。
行政に逆らってでも告知するべきだったと思うのだそうです。

今年89歳の佐藤さんはとてもお元気なのですが、「おさとうやま」を作り始めた65歳の時と比べると「馬力がなくなってきた」そうです。

一番大変なことが草刈り、枝落としということなので、なんとかならんか検討しています。

さて、佐藤さんからお聞きしたところ、私を案内してくれた会社のドライバーは、現社長である佐藤さんのご子息なのだそうです。

ご子息の案内で、最後の目的地、仙石線、下り石巻行き列車が停車した場所に行きました。

▲仙石線・下り石巻行き列車の停止地点


2011.3.11当日、地震発生時に停車した場所が山の切通で高い場所だったこと、野蒜小学校へ避難させようとした車掌を、ここに留まる方が良いと説得された元消防団の方の存在などがあったため、乗客は停車場所に留まり、津波被害から逃れることが出来ました。

列車の上り・下りで運命が別れてしまったわけです。

▲高台に移設された現・野蒜駅


▲現・野蒜駅ホームからかすかに見える旧野蒜駅


ご子息の運転で現・野蒜駅に到着し、今回の「みちのくひとり旅」の目的はほぼ達成されました。

残るは貞観津波に関する「末の松山」となりました。

「みちのくひとり旅」6 に続く。

河北新報記事





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みちのくひとり旅 4 大高森展望台と貞観津波の碑

2022年12月23日 12時11分22秒 | 街歩き
▲貞観津波の碑


「みちのくひとり旅」計画当初は、野蒜界隈でレンタカーを借りて各所を回ろうと思っていたのですが、仙台か石巻まで行かないとレンタカーを借りることが出来ないことが判明しました。

そこで、私の旅としては例外中の例外なのですが、タクシーを時間貸しで借り切ることにしました。

どうせなら、佐藤さんゆかりの「奥松島観光タクシー」にお願いしようということで電話ですると、問題ないとのことで予約も電話で成立し、当日の朝、宿まで迎えに来てもらいました。

まずは当地の観光名所である、展望台、大高森に行きました。

タクシーでおよそ10分ほどの移動で大高森展望台下の駐車場に到着。
登りはおよそ15分ほどということでしたが、登れば登るほど急になる階段に辟易、それでもなんとか展望台に到着。 松島の風景を楽しみました。

▲大高森展望台 松島の大パノラマ




▲登れば登るほど急になる階段 今上陛下も若き日に登られたそうです


しかし、折り悪く本格的に雨が降り出してしまい、せっかくの展望台でしたがそそくさと降りることに。
続いては、野蒜地区と橋でつながる宮戸島にある、「貞観の津波の碑」に移動しました。



▲道端にぽつんと


東日本大震災に遡ること1100年前、貞観11年(西暦869年)に大地震が発生し、大津波が三陸沿岸を襲いました。

その時、宮戸島にも島の両岸から津波が押し寄せ、この「貞観の津波の碑」のところでぶつかった、という伝承があったのです。

写真の通り、なにか彫ってあったのはわかるのですが、もはや判読不明です。

ただ、当地の住民には大地震の時は、この「貞観の津波の碑」より高い場所に逃げろ、という伝承として伝わっていて、実際、東日本大震災のときはここより高い場所にある小学校に島民が避難し、地震発生時に島にいた島民全員が難を免れたということです。

▲この辺りまで津波が来ました


実際、東日本大震災のときも、「貞観の津波の碑」から数メートルの地点まで津波が押し寄せました。

▲「貞観の碑に感謝」の碑


「貞観の津波の碑」の隣には、この伝承のお陰で島民が助かった感謝の記しとして、新しい「貞観の碑に感謝」の碑が立っています。

▲上り列車停車付近


「貞観の津波の碑」を後にして、旧野蒜小学校に移動しました。 その途中、仙石線登り仙台行が停車し、津波に被災した現場を見ました。

避難場所として指定されていた、旧野蒜小学校の体育館まで徒歩数分であることもよく分かりましたが、これで運命が決した乗客がいたことを思うと心が重くなりました。

大地震のため停車した上り列車車掌は、無線で東松島市指定避難場所である旧野蒜小学校の体育館まで乗客を誘導するよう指示を受け、そのとおりに乗客を誘導しました。

▲旧野蒜小体育館跡


校舎にいた小学生と避難してきた周辺住民で体育館はごった返していて、そこに津波が押し寄せてきたそうです。

旧野蒜小学校は「KIBOTCHA」という防災体験宿泊施設に変わっていました。
とはいえ外見は、よく見るコンクリート造りの小学校校舎そのままです。

施設内も見学可能とのことでしたが、フロントに誰もおらず、ここはパスして、トイレ休憩もかね旧野蒜駅 東松島市震災復興伝承館に移動しました。


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