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<十八日に於ける今川義元の所在の問題> 

2011-06-27 00:40:40 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
 
(2008.01.10 追加) ここで、『三河物語』が「永禄三年庚申(カノエサル)五月十九日に義元は池リフ(鯉鮒)寄、段々に押て大高え行、棒(某)山之取手をつくつくとジュンケン(巡見)して、諸大名を寄て、良(ヤヤ)久敷評定をして、さらば責(攻)取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、元寄足甚(ススム)殿(元康)なれば、即押寄て責給ひければ、…其寄大高之城に兵ラウ(糧)米多く誉(籠)」と書くものを、「義元は十八日に沓掛城へ行き、翌日十九日に丸根・鷲津の砦を排除した後で大高城に兵粮を籠めた」のだと書いていると解釈した場合を考えます。
そこでまず、『信長公記』の当該部分の解釈を再考します。そこには、「(イ)十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩(潮)の満ち干を堪(考)がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、」と書かれています。そこで、これを(1)「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」という文章と、(2)「大高の城へ兵糧いれ(を計画し) 、 (これを)助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨(が駿河方にあるのは)必定」いう二つの文章からなっているのだと看做す。つまり、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし(は)、大高の城へ兵糧いれ(について) 助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定とのことなり」とするわけである。こうすれば、一応は大高城への兵糧入れも十九日の砦攻略後という文意にすることはできる。しかし、後半の文章「十八日、夕日に及んで、…御注進申し上げ…」と明らかに矛盾する。そこでは、「十八日、夕日に御注進」があったと云うのだが、「十八日夜に入り、相聞こえ候ひし」とも云うのだから、清州に注進した後で佐久間大学や織田玄蕃が情報を手に入れたことになるからだ。つまり、前線の武将が情報を入手するよりも早く、前線からの注進の方が信長の許に届いたということになるからである。以上の事から、障害になる怖れのある鷲津・丸根をそのままにして大高城への兵粮入れが行われたなどという訳がないと考えることは、間違いであるということになる。
では、何故それが間違いであるのかと言えば、(イ)大高城へ兵粮を運ぶ道は丸根砦の下を通る大高道だけではないということであり、地元の伝承[20]では木ノ山村を通って大高城に兵糧を入れたとしているからだ。また、松平勢が一千もいれば、丸根砦の兵力では鷲津砦からの応援を得たとしても、手出しなどは出来なかったかも知れないこともある。何しろ織田方は駿河勢が大軍であると信じているはずなのだから、砦の将兵たちは伏兵を恐れて、迂闊に手を出すことはできなかったと考えられるからである。ところで、この氷上砦や正光寺砦[21]は、どの軍記物にも見えないのですが、『張州雑志』と『尾州知多郡大高古城図』にその存在が紹介されています。但し、正光寺砦は『蓬左文庫桶狭間図』にみることができるから、桶狭間合戦に何等かの働きをしたことが考えられる。常識的にみても、大高城の東と南にも付城がなければ、効果的に大高城を封鎖することはできず、伝えられるような城兵が飢えて、兵糧を搬入する必要も生じなかったものと思われるからである。
『豊明市史』によると、豊明市旧間米村で発見された写本に、年記や著者の記載のない『桶狭間合戦名残』なる研究書があり、現在は豊明市史編纂室で保管されているらしいのですが、その著者は『三河物語』の義元大物見の記事を受けて、「桶狭間前書きに、今川義元、五月十八日中島まで攻め来たり、扇川の汐高くして、其の日の軍は止とあり」と書き、義元の大物見は中嶋まで足を伸ばしていたとみています。………因みに、この日の満潮は午前八時廿四分[22]ですから、池鯉鮒を早朝に発って沓掛に着いた義元は、すかさず東海道を中島辺りに出陣したことになります。これが正しければ、今川義元は朝寝坊などではないことにもなります。もう一つ重要なことを『三河物語』は教えてくれます。それは、義元自身が軍勢を陣頭指揮していることです。つまり、飾り物の総大将などではなく。義元自身が物見をしたうえで砦攻略を決定しているのです。それも、偵察したのは善照寺砦などだけではなく、中島砦から丸根・鷲津砦の全てなのです。このことは、二つの事を我々に教えます。一つは、義元の計画には鳴海城の後詰などは最初からなかったこと。もう一つは、義元自身が翌朝の丸根砦の攻城戦を督戦していた可能性があることです。それは、今後の三河経営において松平元康の器量を見極めるためでもあったろう。だから、『惣見記』に「今朝城攻めにも、松平元康朱具足の出で立ちにて真っ先を掛け、比類なき働きなり、義元これを感じ、元康毎日の働き神妙なり、今日は、大高の城に居住し、暫く昨今の疲労を休息せられよとて、元康を大高城へ遣わして、籠め置かる」とあるのも、いかにも元康の勇姿を本陣から実見したようでもあり、元康と直に対面して、城番として大高へ派遣しているようにも受け取れる。従って、もしそうであるならば、駿河勢が大軍をもって大高城に入城したために、丸根・鷲津の織田方は手を出すこともできずに砦に籠っていたとも考えられる。そして、これらのことはみな、義元の実像を「京被れ」の惰弱な政治家などではなく、少なくとも太原雪斎の薫陶を受けて、外交・調略に長けた戦国武将であったことを窺わせることになる。………しかし、彼の経歴をみると、国主として軍勢をあちこちに向わせているが、実際の戦闘を指揮したことなどはなさそうである。おそらく丸根・鷲津砦攻めが義元にとって殆ど始めての実戦なのではないだろうか。
(4)十七日を軍事的に検証すると…
さて、ここで通説のいう十七日と十八日の二日間にも亘って、今川義元が沓掛城に宿営していたということについて、軍事的な妥当性を考えてみる。
確かに、一時は笠寺辺りまでが今川方の支配地域になっていたが、当時は尾張をほぼ統一した信長によってかなり後退させられており、控えめに見ても沓掛辺りは紛争の対象地域だったと考えられる。例えば、『東照軍鑑』は、永禄二年四月廿六日に信長が平針(天白区)に出陣して、三河との国境福谷(三好町)に砦を構えて酒井忠次を配していた松平方と戦ったと伝えている。この時、信長自身は丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて此れを攻撃し、柴田勝家・荒川新八郎らに福谷(ウキガイ)城攻めをさせたが失敗したというのだ。 また、『武辺咄聞書』ではこの年四月のこととする大高城兵糧入れも伝えている。つまり、大高城や鳴海城を封鎖するほど、信長の勢力は伸張していたわけである。  (2007.07.11 挿入) さらに、最近公表された天理本・『信長公記』に「大高之南、大野・小河衆被置」とあるなかの「大野衆」というものが、大野佐治氏や寺本花井氏[23] を指すものであるならば、知多半島はその付け根にあたる鳴海・大高および最先端の河和戸田氏の領分を除いた全てが信長と同盟し、その勢力圏に入っていたことになる。それも、今川義元が着々と西三河を領国化しつつあるなかでの寝返りになるわけだ。これは重大なことである。佐治氏はそれまで今川氏の親派であったから、それが水野氏や荒尾氏との競合いのなかで、信長の権力の下で和解があったらしいことになるからだ。例えば、荒尾氏は当主の空善の許に娘婿として佐治宗貞の次男・善次が娘婿として養子に入っているし、弘治二年(1556)に空善が今川氏との戦いで戦死すると、信長の同意を得て荒尾家を継いだということ[24]があるからだ。しかし、疑問もある。鯏浦の服部氏が廿艘ほどの兵船で大高河口に来襲しているにもかかわらず、伊勢湾東半に武威を張っていたと思われる大野水軍は、これを阻止していないからだ。さらに、渥美氏などは知多半島の南端・師崎を回って、佐治氏の目の前を通って兵粮を運んで元康に献じたと後世に言い張っているのである。師崎には千賀氏が佐治氏の陣代として見張っていたのにも関わらず、である。 このように見てくると、事は複雑だ。どうも、知多半島の豪族らは半手を切っているように思える。信長とも同盟しているようだが、駿河勢や松平勢との戦争に対しては、自らの領国が危機に晒されない限り、消極的な協力しかしなかったようにも思える。そうでなければ、知多半島には海賊はいても水軍などはなかったのではないかということも考えなければならない。そう考えると、天理本・『信長公記』にみえる「大野衆」も、その実態は荒尾家を継いだ大野善治が率いる荒尾衆のことであったとも考えられる。その場合には、十七日に駿河勢先鋒が桶狭間に進出し、知多郡に働いたという記事もあるのだから、それを機に氷上砦や正光寺砦の荒尾衆・大野衆・水野衆らの将兵も開城して退きあげたものと考えることができる。我が身大事だから………。そうであるならば、松平元康が十八日に阿久比の坂部城で母・於大と面会したという話も、もともと親今川であった大野氏を調略するために、母の嫁ぎ先の久松氏を口説きに行ったと解釈することができる。彼等は、緒川の水野信元に押され放しであったから、あくまで独立して生き残り地位を向上させるためには、三河松平氏と結ぶことは魅力的な選択肢であったはずである。その証拠に、大野佐治氏も緒川水野氏も「当主」が信長の軍に参陣するのは、信長が将軍義昭を得て大義名分を掲げて上洛を果たして以降のことなのだ。 <挿入終り>
さらに、『西尾市史』によると、桶狭間合戦のあった永禄三年の五月五日には、信長が吉良に出兵して付近を放火し、名刹実相寺も兵火で焼失させたということだから、沓掛城は付城こそつけられていないものの、織田方の善照寺砦や丹下砦へ約12kmしかはなれていない最前線であったことになる。だから、沓掛城は決して安全な後方などではないのだ。それに、『三河物語』によると一日先行していた先手諸勢の五月十六日の宿営地が矢作(岡崎市)・宇頭・今村・牛田・八橋そして最先端が池鯉鮒という具合に、東海道に沿って布陣したことわかっている[25]。そしてこれをみると、十七日の駿河勢の先手はほとんど前進していなかったことになるから、先手の諸将は十七日に池鯉鮒に着いたその日の今川義元と会ったことになる。また『武功夜話』[26]では、「佐々党は善光寺道に出て平針村に居陣」とか、「佐々内蔵之助(成政)と隼人(政次)殿は、先発して平針というところまで夜中に進出、前野長兵衛、稲田大八郎らは岩作の砦に止まっていたところ」と書くが、これを信ずるならば、駿河勢は十八日の夜には平針方面には部隊を配備していなかったことになる。つまり、鳴海城は封鎖されているのだから、沓掛城が駿河方の最前線になるわけだ。……で、何を言いたいかというと、沓掛城も大高城と条件は同じだということだ。沓掛城は後方地帯でも安全であったわけでもないのだ。そこから考えると、今川義元は合戦前日までの十七日には進軍を止めた先手に、そして翌日の十八日には全軍に、という具合に駿河軍の諸勢に対して尾張国の愛知・知多の両郡に対して「二日間の乱取り・刈働き」の実行を許可したとも考えることができる。これについては、『天白区の歴史』に、「島田山地蔵寺は永禄三年(1560)桶狭間の合戦の折この寺も焼かれている[27]」と紹介している。但し、最近では黒田日出男氏が乱取説を出しているから、これは十九日のことかもしれない。 
  乱取については一先ず置いておいて、戦術的妥当性を検討してみると、沓掛城に泊まった場合の義元は、最前線のそれも最右翼で織田方に露出した場所に着陣したことになる。これは、ちょっと考え難い行動だ。よほど安全なら別だが、通常は、右翼は最も危険な位置[28]である。桶狭間の戦いでの此の状況は、姉川合戦のときの信長の布陣と似ていると河合秀郎氏はいわれる。氏の『日本戦史・戦国編・死闘七大決戦』には、「この(姉川合戦)ときの織田・徳川勢は、まるで桶狭間での今川勢のように分散し、しかも本陣を最前線に突出させたまま、朝倉・浅井勢に背を向けていた」とある。卓見だと思う。尤も、氏がこれを「信長が意図的に朝倉・浅井連合軍を誘致するために採った囮作戦だ」ということについては、深読みしすぎだと思えるので与しないが。………桶狭間の今川義元も同じような過ちを犯したことになるわけである。[29]
(2008.07.10 挿入) 後小松、後柏原、後奈良三帝の勅願道場として東海中本山として栄えた浄土宗玉松山裕福寺[30]には、今川義元が桶狭間で戦死の前日に陣をとったという伝承があると『東郷町誌』はいうのだが、勅願寺であるから訪れたのであって、最前線に相当する地域でありながら防御には劣るのだから、直近に沓掛城がある以上は、宿営したとまでは断定できないものと思う。また、義元が沓掛に訪れた理由も祐福寺に参詣するのが目的であって、鳴海城を救援する目的などは初めからなかったことを窺わせもする。
(5)なぜ前夜の信長は動かなかったのか
さて、こうして見る[31]と、信長が義元の所在を正確に把握していたならば、義元が沓掛城を出陣して行軍しているところを襲撃することが最も良い作戦であることになる。後年の長久手合戦で徳川家康が中入した三好秀次の総勢二万人を撃破したように、である。しかし、『信長公記』のいう事実は逆のように思える。信長は最前線のはずの丸根・鷲津からの注進を確認しようとさえしていないからである。それなのに実際に攻撃されたという報告があって初めて、主従六騎・雑兵二百ばかりで慌てて飛び出しているのだ。これは、沓掛城へ善照寺砦から物見を出して駿河勢が出陣の支度をしているかどうかを確認した形跡がないことで分かる。そして、兵を動員していないところを見ると、決心を秘匿したのではなく、決心ができなかったために、兵力を予定される戦場に広く分散配置したままであったことを疑うべきなのではないのかと思う。ただそれが何れにせよ東部国境であることは間違いないことであったため、敵の行動が鈍ければ比較的間に合って戦場に駆け付けることができるだろうという期待があったのではないのかとも思われる。その傍証に天理本には「於是非国境にて可被遂(トグ)御一戦候、寄地へ被踏迯(ニゲ)候而(ソウロウテ)は有に無甲斐との御存分也」という信長の思いが紹介されているし、『三河物語』は「引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。」としていることがある。
戦争は、敵も味方も情勢判断の誤りや錯誤の連続であるということを証明しているようでもあり、そうした意味では『信長公記』も『三河物語』も真実を伝えているように思えるのだ。………とすると、家老衆が「各嘲弄して罷り帰られ候」とも、最早時間もない夜分に至って斥候を放ってその事実と義元の所在を確認したうえで、夜分に前線各地へ使者を派遣して動員したのでは、直卒の将校を減じるうえ参集するのに混乱するばかりであり、そこを西三河に義元の残置する駿河方に突かれることを恐れたからとも考えられるから、もし信長が十七日に今川義元の所在を把握しており、十八日の時点で沓掛城にいることを確認できたとしたならば、夜間であろうと沓掛城に向かって進発していたに違いない。これは、後の信長の行動からみても確かなことだと思える。それをしなかった時の信長には、他所に大敵がいて動けず、手元には兵力がなかったことが明らかである。例えば、戦力を集中できなかった岩村城の喪失や三方ケ原や手取川での敗戦がその代表例である。だから、信長が沓掛城へ向けて即座に出陣しなかったのは、信長は駿河勢の侵攻については知っていても、義元本隊の所在については把握できておらず、そのような情報があっても信長はそれを信じていなかったのだと考えるべきだと思うのだ。………このことは、現在もて囃されている「織田信長が情報戦に優れていたことが桶狭間での勝因である」とする説は、全くの誤りであるということを意味する。勿論、信長が情報を軽視したということではない。現に、『信長公記』には信玄が鷹狩での「鳥見の衆」のことを知って、「信長の武者を知られ候事、道理にて候よ」と言ったという噺が載っているから、信長の索敵が疎かであったわけではないと思う。一方、義元にとっての沓掛城は、翌朝に鳴海城を救出するために善照寺砦や丹下砦を攻撃する予定があるのでなければ、極めて不用心な宿営地であったということ先に説明した。義元本隊が大軍であれば問題はないのだが、とかく問題の多い小説・『武功夜話』によると、佐々内蔵之助成政や隼人政次らが義元の右翼である平針や裕福寺辺りで駿河勢と接触していないのだから、義元が沓掛城に宿営していた場合にはその直卒兵力には疑問が残る。
以上のように、沓掛城は敵に暴露されている最前線であり、決して安全な後方などではないのです。


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