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<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   

2011-06-27 00:50:33 | (6)『新編桶狭間合戦記』 
<十八日に於ける今川義元の所在の問題>   (2009.05.0加追加、2010.0816改訂)
 
Googleマップに【桶狭間の戦い検証地図】を登録しました。説明は結構詳細につけてみました。本文と並べ見てもらえると位置関係が理解しやすいと思いますよ。 http://maps.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&msid=113319977916684724477.00045d66c830f98de8671&z=9
 
  1. 信長公記を読む
  2. 三河物語を読む
  3. 信長公記と三河物語の矛盾
  4. 十七日を軍事的に検証すると・・・
  5. なぜ前夜の信長は動かなかったのか
  6. 『新編桶狭間合戦記』   (2009.05.07 追加)
   
(1)信長公記を読む
ここでの推理は、前章の到達点である「合戦当日の義元は、沓掛城から出陣してなどはいない」はずだということから、桶狭間の戦いの前日十八日の今川義元の動向を検証する。この問題についても多くの人は、『惣見記』[1]も『三河物語』[2]も『甫庵信長記』[3]も義元は18日の軍議を大高城で行ったと書くのを無視しているのだが、そのことについては何の疑問も持たれないようでして、コメントも見かけない。
『信長公記』の「今川義元討死の事」は、こう書き出している。
「永禄三年(1560)五月十七日、今川義元沓懸へ参陣、十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、(潮)の満ち干を堪が(考)へ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々(ユメユメ)これなく、色六(イロイロ)世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候
これをみると、今川義元も織田信長も桶狭間の戦いの前日十八日の「昼間」は何も行動していないようにも受け取れると前に書いたが、この文章は一般に次のように分解して解釈されているようある。
  1. 永禄三年五月十七日に今川義元が沓懸へ参陣した。
  2. 十八日夜になったら大高の城へ兵糧を運びこむであろう
  3. (それから、)織田軍の後詰を封じるために、十九日朝の潮の干満の状態を考えた上で、丸根・鷲津の取手攻略を開始するだろう
  4. 以上二件の情報があったが、それは確実であろうということが、佐久間大学と織田玄蕃のそれぞれより、十八日の夕方になってから、清須の信長公へ届いた。 
つまり、信長は清洲に、義元は沓掛城に居つづけたということである[4]。………と云う事は、少なくとも当時の織田方では「十八日の晩の義元は、沓掛城に在陣していた」と認識していたと考えることができるわけである。そして「通説」もまた清州城の織田方と同様に考える。これが事実であるかどうかは別にして、飽くまで信長を始めとした織田方に共通の戦況判断としては、十八日の晩の「義元は沓掛城にあり」と認識していたとみなすことができるわけである。しかし、これは飽く迄「清洲城の織田方だけに限定される認識」だと考えるべきである。何故なら、今日の我々が知りうる情報からすると、これまで毎日多ければ日に30kmも行軍してきた義元が、最前線の沓掛城で丸一日鳴りを潜めてしまったからである。この時期の沓掛城は決して安全な後方などではない。北方の岩崎城は、一時は今川方の武将・福島氏が城代を務めたりしていた時期もあったが、当時は丹羽氏がこれを回復して両属の中立を保っており、それより南の福谷(ウキガイ)砦が攻防の対象になっていたからである。では、一体何のために義元は危険のある沓掛城などで「十八日の丸一日」を無為に過ごしたのだろうか?
同じ織田方でも善照寺・中島砦や鷲津・丸根砦のような最前線の将兵たちは違った見解であった。鷲津・丸根の両砦が比較的容易に短時間[5]で落ちたのは、両砦の武将たちの見解が相違したからである。鷲津砦の織田玄蕃は砦を堅固に守って信長の後詰を待つべきであるという見解であったのに対して、丸根の佐久間大学と五騎の寄騎たちは砦を出て迎撃することに決めたのだ。これは問題であった。何故なら、『蓬左文庫桶狭間図』によれば鷲津と丸根は尾根道で結ばれており、相互に助け合える構造になっていましたが、尾根には堀切りがなされていなかったからである。このような構造であると、一方が落ちれば新たな攻め口を敵に与えることになり、好ましいものではない。それなのに、信長は前線の指揮官たちに何の指示も与えていなかったのだ。多くの識者が主張されるように、信長の戦略が、「敵の一部に打撃を与えて面目を保つ」というのであれば、敵を補足して之の攻撃を加えなければならないのだから、当然に両砦は兵力を一つにまとめてでも死守して、駿河勢を拘束すべきだったのである。ところが、それをせずに丸根砦の大学の方は砦から打って出ているのだから、信長の作戦意図は前線に伝わってはいなかったということになる。前線の佐久間大学などから駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝の満潮時に付城が攻撃される計画があることまでは、清洲の認識と前線の認識は変わらないわけなのだが、鷲津砦の織田玄蕃や清洲の家老衆などは、「義元自身が指揮しての攻撃である」のだろうと思っていたのに対して、清須の信長だけは「駿河勢の一支隊が攻めてくる」のだろうと軽く考えていたようであり、その指揮を義元が執っているかどうかまでは確認できなかったのだろうと考えたい。………現に、現代になっても多くの論者は義元が付城の攻略に義元が参陣していたとは認めていないのだ。
(2010.03.15 挿入) 藤本正行氏[6]は、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落をある程度予想していたとされ、「緒戦の小競り合いに巻き込まれて、大勝利を得ることは難しく、むしろ競り負ける確率が高い」から、自らの作戦計画を秘匿したとされる。しかし、この時代の武士は功名が目的なのだから、信長が明瞭に命令しないと織田方の武士たちは、自発的に戦いを求めて丸根・鷲津の砦に入ってしまう恐れも大いにあったはずである。[7]もちろん、信長がこれらの砦の後詰に必ず出てくると踏んでのことなのだろうが。従って、「ある程度予想していた」というような表現は不正確であり、信長にとっては誤算だったというのが実際なのではなかろうか。なぜならば、信長が清州を出陣したのは「本当に丸根・鷲津が攻撃された」からであって、そこに義元がいるのではないかと考えたからであろうし、ましてや所在不明の義元の居所が判明したからでも、義元が沓掛城出陣したからでもない。『信長公記』にはそのようなことは何処にも書いていないからだ。信長は、義元の所在をつきとめずに出陣したというのが事実なのである。だとすれば、信長は丸根砦と鷲津砦の陥落などは「ある程度」どころか、予想だ、にしなかったのではないだろうか。また、藤本正行氏が「信長は主力を温存しておきたかった」とされることは、その後の行動のドタバタ、熱田での兵力の記載がないことなどや、その時点で浜道の通行できないことを確認していることなどからみても不適当だと考える。明らかに、信長にとっては見込み違いのことが進行していたのだと考えるべきなのである。そして、それを認めているのは、「諸大名を寄て、良久敷評定をして、さらば責取、其儀ならば、元康責給えと有ければ、…その上にて、また長評定これ有けり。…次郎三郎様を置き奉りて、引退く処に、信長は思いのままに駆けつけ給う。 」と書く『三河物語』を始め江戸初期の軍記作者なのだ。……注意すべき重要なことは、江戸初期の軍記作者もその読者も「前夜(十八日)の義元は大高城にいた」と理解しており、何の疑問も持たなかったということである。…十八日の義元が沓掛城にいたと主張して止まないのは、明確に検証出来てはいないのだが、寛保元年(1741)に成立した『武徳編年集成』[8]以降のことで、『東照軍鑑』[9]あたりが言いだしたのではなかろうかと思っている。
ここで信長が計画通りに間に合って駆けつけたのは、松平元康の布陣する所などではないことは明らかであり、義元の許に見参するために出張ったのだ。その為だろうか、信長の戦略意図にそぐわない行動をとった佐久間大学[10]は記録に残らなくなる。討死したとも看做せるが、生き延びても信長の不興をかって重用されなくなっただけなのかも知れない。初期信長政権の許で高級将校として活躍した武将の多くは、信長の親族でなければ他国より新規召抱の者や、重臣であっても柴田権六などのように有力国人領主などではない才覚だけの者が多々みえるから、一旦信長の寵を失うと零落するのも早かったのではないかとも考えられるのだ。『信長公記』は「夕日」というから「日の入る前」に、前線から敵の作戦について確度の高いと思われる情報の報告を信長は受け取っているわけなのだが、それにも関わらず、信長は何も行動を起こしていないのだ。………なぜだろうか。
(2009.12.08 挿入) 公開された天理本によると、前夜軍議が行われて国境で今川軍を迎え撃つことで衆議一決したと伝えるのだが、その後は酒宴に及んだとあり、清州に参集していた重臣達も具体的な手立て打ち合わせることなく、その場になっての信長の指示待ちということになったらしいのだ。天理本の記述は著しく、信長を始めとした彼等清須織田方の行動の矛盾を示す。戦おうと云いながら出陣していないと云うのだから、矛盾でなくてなんであろう。『信長公記』は、十八日の義元の所在については何も触ないのだが、前線からの報告で、「駿河勢が兵粮を大高城に搬入するのは十八日夜であることは確実であり、翌日早朝に潮の具合を考慮して付城が攻撃される計画があることを清須では承知していたと書かれている。だから、信長には、義元もそれに伴って大高城に入城した可能性を否定することはできないはずである。それなのに、『信長公記』では否定はしていないが、その文面から判断すると、少なくとも信長に限っては、「義元が確実に大高に入城した」と把握することはもちろん、考えも及ばなかったものらしく思えるのだ。つまり、信長は義元本隊の所在を大高城にいるとも、翌朝沓掛城から付け城攻撃に出陣するとも、特定できるとは思っていなかったと考えるべきだろう。
信長は、義元主力の所在について、何処に居るか迷っていた。信長は、駿河勢の一支隊が大高城に兵糧を搬入したり、また別の支隊が付け城を攻撃することがあったとしても、義元自身がそれらの攻撃に加わっていることについては、懐疑的であったように思える。何しろ今川軍は四万五千という大軍であるという触れ込みなのだから、信長がそれを信じていたとすれば、大高や丸根・鷲津への行動が主目的だなどとは、信長にはとても思えなかったのだろうと考えるのだ。因みに、この考え方[11]が正しければ、巷で唱えられる信長の諜報戦能力はそれほどのものではなかったことになるし、梁田出羽守や蜂須賀小六の索敵などは後世の創作であったということになる。


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