これは10年以上前、僕が書いていたブログです。
今は、芸能人の不倫バッシングがすごくて、こういうことを書くと、みんなに叩かれるかもしれません。
しかし、10年前なのに、なかなかいいこと言ってるなと思い、ちょっと手直しして、再アップしてみました。
妻のことだって愛してる。本当に愛しているんです。今でも。
でもアメに最初に会った時、彼女にどうしようもなく引き寄せられたんです。渦のようにです。抵抗のしようもなかったんです。
僕には分かったんです。これは一生に一度のことなんだって。
で僕は思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。
でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。
ダンスダンスダンス 村上春樹
この小説のように自分の存在が脅かされるほどの激しい感情を経験したことがあるだろうかと、自分自身に問うてみる。
単純な激しい恋はあった。
しかし、自分の道徳的な価値観が脅かされるほどの恋は、あったような気もするし、ないような気もする。
ただ、このダンスダンスダンスの「僕」の気持ちは、よくわかる。
石田純一が「不倫は文化だ」といってブーイングされたことがあった。彼の名誉のために、それを意訳してみる。
社会的にいろいろな立場の人がいる。
結婚してたりすると、恋愛するのが道徳的に不適切な場合がある。
しかし、それにもかかわらず、恋に落ちるのが人間である。
そして、その時の葛藤や苦悩を表現することで、文学、演劇、映画(文化)が生み出される。
別に、単純に不倫を肯定しているわけではない。
人は立場にかかわらず、人を愛してしまうから、文化が生まれるのだ。
「愛から為されることは、常に善悪の彼岸で起こる」とニーチェは言った。
美しい言葉だ。
しかし、分かりづらい。ちょっと解説が必要だろう。
道徳とは、善悪の基準で、社会生活を営むための枠だ。みんながその枠の外に出ないように、それを守って、過ごしていく。
ニーチェは、その道徳を激しく攻撃する。
そこまで厳しく攻撃する必要はないと思うが、道徳は、生命の躍動感を失わせるという。
ただ、たしかに、愛から為されることは、道徳に反する事が多い。
たとえば、自分の娘が襲われそうになっていたら、父親は命懸けで、その暴漢と戦い、ときには殺してしまうこともある。
また、人を愛するとき、相手の立場がたまたま不適切な場合であっても、愛することを止められないときがある。
そのときの、僕たちの行為は、善悪の枠のギリギリのところにいる。
そして、たまに踏み越えてしまう。
ニーチェは、その人間の内なる愛のエネルギーを肯定する。道徳なんてくそくらえ、というわけだ。
はたしてそうなのだろうか。僕にはわからない。
しかし、それは僕たちがどう生きるかに関係している深い問題である。