フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

世界を揺るがす 1  あらゆる限定は否定である

2013年01月19日 21時57分38秒 | 社会・政治・思想哲学

 スピノザは「あらゆる限定は否定である」といった。

 ちょっと分かりづらい。どういう意味だろう。

 限定とは範囲を決めることである。
 
 つまり、あっち側とこっち側の境界線を決め、こっち側の限界を決めることである。
 
 また、決めることであるから、そこには選択が含まれている。
 
 例えば(いい例かわからないが)、一夫一婦制であるという前提で話を進めよう。

 そこで、私がこの女性を妻にすると決めたとしよう。そうすると、私はほかの女性を妻にできなくなる。

 私は、世界中の女性の誰とでも結婚できる可能性があったのに(実際は無理だけど)、この女性だと決めた時点で、私は他の女性との結婚を否定したわけである。
 
 だから、「限定は否定」になる。 

 言葉は、限定の最たるものである。 

 これは「犬」だと言った時点で、この生物は猫と区別され、猫であることが否定される。

 故に、この命題から「あらゆる言葉は否定である」と導き出せる。 

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縦走登山 最終日 1月5日

2013年01月19日 21時29分38秒 | 登山

 出発 8:00
 禿岩 8:50
 飛竜権現神社 8:55
 前飛竜 9:35
 熊倉山 10:40
 サオラ峠 11:20
 丹波天平 12:00
 親川 13:30
 お祭バス停 13:50

 デジカメの電池が無くなって写真があまり撮れなくなった。長期の縦走の場合、替えの電池が必要だ。

 

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 禿岩からの景色は最高だったが、カメラが動かなかった。残念。

 

 
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 丹波天平。広葉樹林帯。ミズナラやブナが多い。多分、夏になると熊がどんぐりを食べに来るだろう。この辺には必ず熊がいる

 

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 お祭りバス停。
 何日も風呂に入っていないので、頭を洗ってヒゲを剃った。

 
 去年の縦走登山に比べ、今年の縦走は比較的楽だったと思う。去年よりアップダウンの少ないコースだったことが大きい。
 また、今年は下半身中心に相当鍛えていたので体力的にも余裕があった。それ故、十分な装備を持っていくことができた。

 登山は、基本的には体力のある者が強い。
 道迷いや滑落・転倒の原因は、おおよそのところ疲労にあるといってもいい。だから、疲れにくい体作りをしていれば、トラブルはかなりの確率で回避できる。
 疲れてくると、物事がどうでも良くなってくる。あきらめが早くなる。
 例えば、道中のどこかで落し物をしたとする。疲れていると「もういいや」となりやすい。しかし、体力があると戻ってそれを拾いに行く。実際、サングラスと手袋を落としたが、拾いに行った。それも体力があってこその行動である。
 
 また、道に迷ったとき(特に下り)、引き返す勇気があるかどうかも体力の有無にかかっている。体力がなければ、間違った道をそのまま進みやすい。
 そして、極限的な疲れは、自分の命すらどうでも良く思ってしてしまう。このまま死んでもいいやと考えやすい。
 
 ただ、登山では装備が整い体力があってもどうにもならない事態がある。特に森林限界以上の場所で起こる自然の猛威である。例えば、稜線上での吹雪や雪崩、雪庇の踏み抜き等である。
 
 奥秩父の森林限界はおおよそ2400~2500mで、だいたい国師岳付近や金峰山付近にしかない。森林限界は樹木が育ちにくい過酷な環境である。当然、積雪も多い。
 今回は森林限界は越えなかった。それ故、楽な登山だったともいえる。寒くはあったが、自分でコントロールができないほどの出来事は起こらなかった。
 
 もし、冬の(特に厳冬期の)北アルピスにいくのなら、命を失う可能性がかなり高いことを意識しなくてはならない。
 そのような過酷な状況下では、人間はちょっとした天候の変化にすら対応できない。
 
 今回、一番寒い日の午前4時くらいの気温でだいたいマイナス15度~20度くらいだった。
 その日の朝、どうしても小便に行きたくてテントの外に出た。1分くらい外にいただけで、体の芯から冷えた。もしそこに30分立っていろと言われても、できなかったと思う。それくらい寒かった。あるものすべて身に着けているにも関わらずである。
 
 北アルプスの稜線上の吹雪は、同じくらいの気温でも風がある分だけもっと寒い。その状態で何時間もじっとしていたら、体温が奪われて、凍傷にかかり、いずれ死ぬだろう。奪われる熱以上の熱を作り出すことは不可能だ。
 だから、この状況に自分を置いた時点で負けなのである。
 それ故、厳冬期での森林限界を超えた場所での登山は、いかにこの状況を避けながら、ピークを目指すかが勝負になる。

 死ぬような状況下に身をおいて、死なないで帰ってくるのが、登山=冒険である。
 死ぬような状況に身を置いている意識のない人は、登山にいかないほうがいいだろう。
 問題は、なぜそのような命の危険の存在する状況に身を置きたいのかである。
 その答えは簡単ではないが、1つの答えとして、死に近づけば近づくほど生を感じることができるからだと思う。危ないところに身をおき生命が脅かされればされるほど、生きている実感が湧いてくる。これは事実である。
 
 また、危険な冬山の美しさは、想像を絶するものがある。これにはまってしまったら、何回も見たくなる。
 その凄さは実際に見てみなくてはわからない。

 ということで今年の縦走登山は無事に終わった。

 
 
 

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