「馬籠宿」 07:00
4ヶ月ぶりに戻ってきた馬籠宿は時ならぬ寒波の襲来で冷え込んでいる。
標高620mの馬籠は気温-1℃、ダウンジャケットを着込んでちょうど良い。
まだ寝たりない様子の息子と連れ立って、第28日目行程は本陣島崎家前をスタートする。
まもなく多くの観光客で溢れる馬籠宿も、今は静かに山の尾根にへばりついている。
馬の背のような道を下っていく。
枡形を左に折れると正面に恵那山が飛び込んでくる。未だ雪を纒って神々しい姿だ。
「新茶屋一里塚跡」 07:35
馬籠を出て30分、新茶屋集落に古い家並があって何軒かは民宿を営んでいるようだ。
芭蕉、正岡子規と著名な俳人の句碑が並ぶ。一里塚近くには「是れより北木曽路」の碑、
思えば昨年8月以来延べ7日間をかけて歩いた11宿90km弱の木曽路がここに終わる。
新茶屋を過ぎると十曲峠への石畳。荒れるに任せた石畳を地元が整備したものだそうだ。
道中竹箒を手にした10名ほどのグループに出会った。
こうした取り組みの積み重ねで人々が訪ねてくるようになる。
「医王寺」 07:50
十曲峠の急坂が終わると医王寺、子どもの虫封じの薬師として知られている。
古木に咲く枝垂れ桜が見事だ。
坂を下りきった落合川に下桁橋が架かる。滝の水しぶきが霧となって山肌を上っていく。
安藤広重の「落合宿」はこの橋を渡る大名行列を書いている。
「落合宿」 08:10
落合宿は美濃路に入って最初の宿場。本陣門は加賀前田家から贈られたものだ。
「夜明け前」のモデルとなった稲葉屋など古い家並みが残る。
「与板立場跡」 08:35
落合宿を過ぎアップダウンの道を進む。木曽路と違って小高い丘や尾根を越えるものだ。
最初の丘のピークには与板立場跡、眺めの良いところには茶屋がある。
振り返ると雪解け水を湛えた木曽川が流れている。美濃太田まで暫くのお別れだ。
与板立場から下ると程なく子野一里塚跡に達する。
「子野地蔵堂」 08:50
ふたつ目の丘を下ると子野地蔵堂がある。ここの枝垂れ桜もまた見事。
「尾州白木番所跡」 09:00
中津川への最後の丘を行く途中に白木番所跡がある。
木曽のヒバやヒノキは貴重で織田も豊臣も徳川幕府も持ち出しを厳しく取り締まった。
「木一本首ひとつ、枝一本に腕一本」などと言われ、斬首の刑を受けた者もいたそうだ。
「芭蕉句碑」 09:15
“山路来て何やらゆかしすみれ草” 中津川宿を見下ろす段丘の上に芭蕉句碑が建つ。
中山道が東南方向に真っ直ぐに中津川の町を割って行くのが見える。
茶屋坂を下りきると東の高札場があり、ここが中津川宿の入口となる。
「中津川宿」 09:30
市街地にしては古い建物が残る落ち着いた雰囲気はここが宿場であったことを物語る。
本陣・脇本陣は既にないが四ツ目川の先、旧肥田家の庄屋屋敷が卯建を上げている。
枡形を左に右に折れると「恵那山」のはざま酒造がある。酒蔵は街道筋の花形なのだ。
相変わらず小さなアップダウンを繰り返しながら、のどかな田園風景の中を往く。
中津川宿から大井宿までは9.8kmと距離があり3つの一里塚がある。中津一里塚跡、
三ツ家一里塚跡を経て茄子川集落に至る。
「茄子川茶屋本陣」 11:00
宿間が長いゆえ茄子川には茶屋本陣が置かれた。
篠原家は加賀前田家の重臣が移り住んだ家で代々村役人と庄屋を努めたそうだ。
皇女和宮や明治天皇が御小休した建物が現存している。
「甚平坂」 11:40
広久手坂を登り、さらに甚平坂を登る。短い登りだが急坂になっている。
明治天皇行幸の際には頂上部を2mほど切通に削って馬車を通したという難所だ。
頂上は公園になっていて北に御嶽を望む展望となっている。
大井宿へと下る寺坂には悪病が立ち入ることを防ぐための石仏群がならんでいる。
明知鉄道の低いガードを潜ると続く五妙坂に高札場が現れる。ここからが大井宿だ。
「大井宿」 12:00
大井宿はまるで凹字を描くように6つの枡方が設けられている。
表門が威容を誇る本陣や、ひし屋資料館の庄屋古川家が残り、往時の面影が残る。
「馬籠宿」から美濃路に入って「落合宿」「中津川宿」を経て「大井宿」までは18.2km。
所要時間はちょうど5時間00分の行程だった。