思考の踏み込み

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酒4

2013-12-28 16:11:39 | 
たとえば逆境に追い込まれたとき、無意識に人は悲壮感を出したり、不幸な自分を悲しんでみたりする。

これは精神的なシラフの状態ではない。
だが悲壮感に酔うことで力が湧いてくることも不思議なことだが事実である。
そうすることで苦しみに耐えることができる。これは誰もが経験していることだろう。



だが、他人に必要以上にそれを見せつけるとこれは不快なだけであろう。

足を怪我したものがビッコをひく姿にはどんなに勝気な者でも、よく観察すると他者に同情を求めるアピールがみえる。
街でたまにみかけるケガをした野良猫のビッコにはその要素は皆無である。

いってみれば人間という集団生物はそうやって互いに甘えあって、かばい合うことで生きているのだが、本当に強くなろうと思う者はこの甘えの構造と真正面から向き合わねばならない。

失恋して一人失恋ソングを聞き、自らを慰めることは適量なアルコール摂取の範囲である。
しかし失恋ソングの主人公になりきり周囲にそのアピールをはじめればこれは余分な酔い方といえよう。



良い酒飲みは正しい酔い方を知っているものだ。

まあその余分な部分が人の世を彩っているという面もたしかではあるが…。

酒3

2013-12-28 15:45:59 | 
そもそも人間が集団生物でなければ、いわゆる "正常" とよばれる状態であろうがなかろうがどうでもよく、そんな概念すら生まれないだろう。

ということは集団で暮らしている状態や心理的空間といった、共有し合わざるをえない様々なものを壊さないようにやれる人間であれば、多少の差異はあれど、常識的とされ正常としてみることができるのかもしれない。



ただこれはあくまで統計的な大多数の数の上でのひとつの考え方に過ぎない。
人間の社会だけを対象にした目安ということである。

もっと宇宙の心理に近い場所に立てば、そんなものは大して価値はないかもしれないし極端な話、麻薬中毒者の方がよりそうした場所の近くに立っているかもしれないではないか。

さて、自分自身をみてみるとどうか。

最近はそれほどでもないがセンチメンタリズムという安っぽい発泡酒に酔いやすく、思想や名文句といった麻薬物質に近い危険性を持つ成分を好む傾向がある。

またアドレナリンという興奮剤とそれが作用している状況がわりと好きだし、子供のような純粋さを求める一種の偏り、といった意外とアルコール度数の高いものも嫌いではない。
ストイックという名の蒸留酒も定期的に欲しくなる。

これらのものは本当の酒がそうであるように、適量でさえあればむしろ人間の活動に対して力をくれるものである。

神の酒ロマーノ レヴィ

大事なことはその適量を保つことのできる精神力の強さと、心に作用している偏りの内容を分析できる力である。



酒2

2013-12-27 12:27:01 | 
さて、神経系統を麻痺させる代表として酒や麻薬をあげたが、これを名詞としてではなくメタファー (隠喩) として
とらえてみることもできる。

つまり、これらを服用しなくとも人間の精神はいくらでも似たような働きをするからである。

"自分に酔う" などという言葉はそのいい例であろう。

思想などもときに激しく人を酔わせるモノであるし、宗教における "信" はかなりアルコール度数が強い。

アルコール度数95度 エバークリア

悲壮感やセンチメンタリズムなども精神的な問題になるほどではないが、わずかながら酒成分を有しているように思われる。

これは一般的には個性や性格として片付けられがちだが、実はそうではなくて、ある作用における心の反応状態と言うべきであろう。

( 色欲や愛情も大きく人の心に作用するものであるが、これは人間の本質の部分である性の力に直接結びついているだけに、ここでははずして考える )

これらの何らかの心理的偏りというものは同じ酒成分に酔っているものか、それを好むもの以外には大抵、わずかながら不快感を与えるものである。

こんな些細なことが感情のもつれや、理解し合えない原因だったりする。
本来起こらなくてもいい騒動が世上いくつあることか。



だが、そうなるといわゆる精神的なシラフの状態とは何を基準に判断すればよいのか?
その人間が正常か異常かなど、誰が決められるというのか?



2013-12-27 10:13:56 | 
"客有り 常に止を同じくするも
取舎 漠として 境を異にす
一士は常に獨り酔い
一士は終年醒めたり
醒と酔と還た相笑い
發言各おの領せず … "


陶淵明「飲酒其十三」

酒、或いは麻薬 ー 古来から人類の文化にくっついてけして離れることのなかったモノである。

主としてその効能は人間の神経を鈍らせ、麻痺させることにあるといっても大筋で間違ってはいないだろう。

麻酔薬や睡眠薬がそうであるように、量の配分さえまちがわなければ有効に働くものである。

一方でこれら全てに共通する危険性に依存性がある。
神経系統の麻痺は肉体と精神をつなぐモノを切り離し、あるいは鈍らせる。

その通り道に苦しみや悩みがあるとすれば、一時的にそれらから逃れることを可能にする。

それ故にその危険性を知りながら多くの者が手を出し、やがて適量を超え身を滅ぼすということがおきてしまう。



いってみれば人間なんてそれだけ弱い存在であり、かつまた悲しい生き物といえるかもしれない。

忍び5

2013-12-26 08:54:58 | 歴史
ー こうして大抵の忍びは滅び去り伝説的な話だけが残った。

戦国期という日本史の時代を、童心に帰ったように無邪気に戯画的に楽しもうとするようなひとつの思考上の遊びをする上で、これほどその存在の面白い集団はない。

果心居士 (これは忍びといえるかわからないが) や音羽の城戸のような、伝説的な忍者が信長や謙信などの歴史上の権力者達と関わった記録などはどれも心を踊らせる。

玉箒木 "果心居士幻術の事"


信玄をして " 魑魅(すだま) の類" とまでいわしめた鳶加藤にいたってはもはや半分魔法使いなのではないかと思うほどで、当時の記録からしてすでに常識的な頭では荒唐無稽である。



だがそういう人物がいた事、記録されるほどの事をやってのけていた点、これらは事実であり、荒唐無稽と片付けるのはやや早計であろう。

彼らがそれぞれの得意に応じて扱う体術、正規のモノとは異なるが高度に体得された武術、人の虚をつく技法。

催眠術や死角をつかったトリックのようなもの、密教的な神秘術、あるいは呪法。

極めて合理的な武器や道具類、火薬学、薬学、毒学、活法殺法。または変装声真似潜入。



そして己をモノとして扱うとさえいわれる精神力、それでいて思想性などなく利によって動く。

第六天魔王といわれた信長さえ手を焼いたのも当然であろう。

忍び ー 人類文化史でみても傑出した特異な集団といえる。