きのう10日現在で、3月11日の東北地方太平洋沖地震・大津波で亡くなった人や依然として行方不明の人は25,000人近くもいる。この数字、いまだにピンと来ません。信じられません。
そのうち小中高校生の死亡や行方不明者は、岩手・宮城・福島3県で516人もいます。両親を亡くした子ども達も百数十名います。 合掌
まだまだ被災者にとっては厳しい日々が続きます。とくに東京電力福島第一原発事故の被害者にいたってはいつ終わるのか、検討もつきません。ふるさとを奪われ流浪の民となっています。定住地・安住地が見つかればいいのですが、せめて差別を受けることなく生活していってほしいものです。
9日の朝日歌壇及びきょうのみちのく歌壇から引用させていただきます。作者、選者のみなさん、ご了解願います。
【朝日歌壇】
頑張れの声が重荷になるときは休んでいいよ誰も責めない ( 逗子市:荒木陽一郎さん )
「がんばろう」「がんばって」より「大丈夫、心配ないよ」と言って欲しい ( 福島市:伊藤 緑さん )
言ってる本人は全く悪気はないのでしょうが、あまりに安易で、あまりに便利な言葉「がんばれ」(がんばって・がんばろう)。言葉に詰まったらとりあえずは「がんばって」といえばいい。もっともっと言われる方の立場、感情に配慮すべきです。これは何も今回の大震災に限りません。スポーツでも勉強でも何でもです。自分で自分を鼓舞するために自分から「がんばります」というのはいいとしても、そう言わせるように仕向けるのはよくないです。そういう意味からいっても、この際「がんばれ」という言葉を禁句にしてもいいくらいではないかと思います。みなさんはどう思いますか?
記者らみな「瓦礫」と書くに「オモイデ」とルビ振りながら読む人もいる ( 久喜市:児玉 正広さん )
確かに津波は瓦礫の山を築きました。なにもかもが破壊されて元の形を失くしてしまう。利用価値がなくなってしまう。邪魔物と化してしまう。でもついさっきまでは大切なもの、大事なもの、かけがえのないもnだったものです。家自体も、家具も調度品も食器類も、電化製品も、その人にとっては、その家族にとってはなくてはならないものだったはずです。形がなくなったから、壊れたからといって、変形したり、汚れたりしたからといって、一瞬のうちに無用の長物になったわけではありません。家族にとっては無残、無念なものになってしまったのです。瓦礫ではありません。瓦礫に代わるいい言葉があればいいのですが。
地震の地にむかひて奏でるN響の嗚咽のごときアリアを聴けり ( 名古屋市:羽生由紀子さん )
これは私もこのブログで何回か取り上げました4月10日に行われたNHK交響楽団の「第九」の演奏です。ズービン・メータ指揮の第九も良かったですが、その前に演奏されたアリア(G線上のアリア)が本当に聞く人の心に染み渡りました。素晴らしい演奏でした。涙なくして聴けないというか、聴いていれば自然と涙が溢れてくるような演奏でした。まさに「嗚咽のごとき」です。
何もない一人佇む老人に今何がほしいと聴く無神経 ( 仙台市:山川かねよさん )
被災者や被害者に何か聞かなければならないアナウンサーも大変なのは分かりますが、それにしても「無神経」過ぎるアナウンサーがいます。言葉を職業とするのであれば、もっと日本語を勉強しろといいたい。相手の身になって考えるということができないのでしょうか、分からないのでしょうか。無理に聴かないで、ただ黙って数秒間マイクを向けて一緒にその悲しみを共有し、それを見る人に伝える、沈黙の訴えみたいなことができないものでしょうか。
【みちのく歌壇】
一本の蝋燭の灯と星明り淡くかなしく地震(ない)揺れ続く ( 宮城・美里町:桜井 レイさん )
電気ガス水道止まる地震の夜父に呼ばれて星空見上ぐる ( 宮城・柴田町:山家 史仁さん )
星空のことは私も書きましたけれど、全市が停電するということは滅多にないけれど、ないだけに、ふと見上げた夜空のきれいなこと、星空の眩いばかりのきらめき、でも冷めた冷たい輝きでした。確かにこんなに星があるのかとビックリするくらい、たくさんの星が見えました。地上、水面では数万人の犠牲者がでたというのに、星空は何事もなかったかのようにただおとなしく静に光っていました。この対比、どう表現すればいいのでしょうか。
【両者共通として】
(朝日歌壇)
復興の初めの一歩朝市へ雪の中からバッケ掘り上ぐ ( 気仙沼市:渡部千寿子さん )
(みちのく歌壇)
枯草の根方にそっと萌え出でしバッケを摘みて春うららなり ( 湯沢市:佐藤 亮子 )
バッケとはふきのとうのことだそうです。ニ首ともバッケを採ることによって前に進もう、自然と共に力むことなく、それでも力強く生きていこうという明るさが感じられます。