もう過ぎてしまったけど何か25日は””広辞苑の日””とか世間では言っていたような。それで、我が家の広辞苑を見ていただきたくなりましたので、陰でひっそりしている広辞苑を出してきました。もうこのブログも終了ですから、もう何でもありですよね。

(ちゃんと分厚いカバーが付いています。だいぶ傷んできました。日に焼けています。)

何しろ重いのですよ。若いころは何かというとすぐに広辞苑を出してきて開くということができたのですが、今はねえ~。何しろネットがあるから、googoleの検索機能があるからついついそっちに行ってしまいます。しょうがないんだろうなあ。とってもさみしいけど。

(昭和30年5月25日第一版第一刷で、私が購入したのは昭和44年5月16日の第二版が出たときでした。一浪して大学に入った頃ですね。少しでもかっこいい辞書を持っていないと恥ずかしかったですね。変な意地を張っていました。)
でも、何か神の辞典等で調べないと落ち着かなくならないのかなあ。若いときは面倒でも紙をめくって調べ物をする、それが記憶として残るような気がしますが。若いうちこそめんどうでも紙で調べて、歳をとったらネットに頼る、というのが正しいのではないでしょうかね。

でないと、軽薄短小をそのまま行くことになり、とんでもないニンゲンが生まれてくる、そういう新人類同士がAIを使って死に物狂いの競争を展開する、その先に幸せが待っていると思いますか。

(カバーを取りました。ぐっと新しく見えますね。)
広辞苑のことを書こうとしていたのに菌類じゃない人類の未来だなんて一気に大袈裟なことに発展してしまってすみません。でもこうして何を書こうがいいのがマイブログではないかなと思ったりして。ましてやもうすぐ消えてしまうのですからねえ。

(すごい意気込みです。熱気が感じられます。 ””ことばは生きものである”” そしてここまで言い切ります。 ””現代の複雑な言語生活上の諸要求は、この新版の出現によって十分に見たされるであろう”” 今のような世の中の言語生活にはとてもじゃないけど大きくずれていくような気がします。人類の言語は限りなくAIに蹂躙され、AIの機能に近くなり、取り込まれ全く新しいところにいってしまうんでしょうね。)


これは何でしょうか?

そうです、分流に居たカワウが人間に気が付いてあわr手て飛び立とうとしているところです。体が大きくて重いから飛び立つのも大変です。
こっちも足が痛いし痒いし重いし、踏んだり蹴ったりです。長期戦になりそうです。