鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

3月9日

2016-03-09 13:58:51 | 思いつくまま

 きのうまでの暖かさはどこへやら、風も冷たくなってきました。あしたはもっと寒くなるようです。冬逆戻りとか。もう冬に戻らなくていいですね。

            (午前11時20分頃 東方面)

 

 きのう8日は昨年亡くなった”水木しげる”の誕生日だったとか。そして亡くなってからの百か日ということです。 そうですか、もう100日も経つのですか。 極楽で戦死した戦友やのんのんばあと再会し、戦地で仲良くなった現地の精霊たちとも親交を深めているのでしょうか。

          (午前9時20分頃 西北西方面)

  

           

 (これは何?天国への門、または地獄への門? 朝日新聞で連載していた夏目漱石の「門」は終わって、きょうからは「夢十夜」がはじまりました。 「門」の最後は個人的にはすこし消化不良というか不満がのこりました。坂井の家で宗助と安井が出会っていたら、一体どんな会話が交わされたのか、そこにとっても興味があったのですが・・・・。)

               

       (さざ波が立っていて、川面に分流の木の影が映りません。)

  

 

 そして8日はダイエー仙台店の閉店の日でした。 1975年から仙台市の中央地区で営業を開始し、私もたくさん利用させていただいた者です。何と言っても創業者の中内功(力ではなく刀)の考え方や行動力に惹かれたものです。軍隊で苦労し、骨のある人でした。

 そのむかし(また出ました)、私が大阪での会社員時代には「ダイエー」とか「いずみや」をよく利用させていただきました。 あとなんて言ったかな衣料品専門店のニチイ?だったかな、庶民のための店が一杯ありました。

 今度はイオンとして営業を再開するそうです。 ダイエー仙台店は、あの東日本大震災のとき、二日後からでしたか店をオープンして手に入りにくくなっていた食料品を販売しました。長蛇の列ができたニュースを見たものです。

      

 

 同じく8日ですが自民党の独裁者はのたまわったそうです。「(大震災の)風化は政府としては絶対にない。福島を訪れるよう広く国民に呼びかけていく。イノベーション・コースト構想によって未来のエネルギー社会が開花しつつあると実感している。」とインタビューで答えていたそうです。

 なんと白々しいとしか感じません。一刻でも早く風化して欲しい、忘れてほしいというのが本音ではないのですか。 折角原発がなくてもやってこれたのに、次から次と原発を再稼働させようと躍起になっているのが現実ではないですか。 原発に頼らなくても電力の需要を賄うべく知恵を出してやってきたのに、それに水を差すかのように再稼働を進め、耐用年数が過ぎた原発でさえ20年も延命させようとしている。

 原発がなければやっていけないと言っているのは政府と財界と利権が絡む人たちだけでしょう。絶対に原発を止めたくないという裏には、やはりいつでも必要となった時に自前で原爆や水爆を作れるような技術を保持して行きたいということなのかと思わざるを得ません。とくに北朝鮮の脅威がある以上それこそ絶対に止められないのでしょう。

               

 原発については、5日の朝日新聞で 池澤夏樹が「東電の責任と倫理観」と題してこういうことを言っています。

 『原発事故については責任を明確にしない。これが3・11の直後からの国の方針。この前提に立ってことを処理するために「原子力損害賠償機構」という組織が作られた。国と電力会社十二社が同額ずつ出して東電の賠償費用の一部に充てる。同じような事故が起こった時、他の電力会社は同じように支援を受けることができる。  一見、電力会社は身銭を切っているように見えるけれど、それはそのまま電力料金に上乗せされている。彼らにすればまた事故を起こしてもこの仕組みに助けられるのだから、安心して再稼働に走れる。国民にとっては災厄でも、会社は大丈夫。・・・。東電はあの日以来ずっと嘘とごまかしを重ねてきた。・・・。原発という危険な施設を運転する資格と能力はこの会社にはない。他の電力会社にもない。東電はあの時点で破綻処理すべきだった、と環境経済学の大島堅一さんは言う。ぼくは、日本国民の再度の不幸回避を考えて、これに賛同する。』

 

 3月9日です。あの時、2011年の3月9日ですが、お昼頃に大きな地震がありました。マグニチュード7.3、仙台の震度は4でした。 そのときはこれが30年以内に来るだろうと言われてきた「宮城県沖地震」か!とほとんどの人が思いました。 震度5の宮城県沖地震は1978年の6月12日に発生しました。

 そしてよく3月10日の深夜から早朝にかけても大きな揺れが3回もありました。私の記録では午前3時、6時20分、6時25分となっています。9日から大きな地震が起きていたのです。でもこれがあの忌まわしい巨大地震の前兆とは分からなかった。だれもそのようなことは言わなかった。

 もしもあのとき、とか、タラ・レバを言っても始まらないですが、あの当時、次はもっと大きい地震が来るかもしれないと少しでも思うことができていれば、でも9日に大きな地震が起こったために、もう心配するような大きな地震は来ないだろう、溜ってきた地震のエネルギーも発散されたことだろうからもう当分は大丈夫だろう、そういう安ど感みたいなものがありました。

 かってに自分に都合のいいように解釈したりして・・・・ そして3月11日がやってきて、自然はそれでも足りないと思ったのか4月7日にもM7以上の大きな地震を起しました。

 

  

                       

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